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 聖霊降臨ペンテコステのミサも無事に終わり、その日の午後に神学校セミナリオの全員で見送りをして、フロイス師はヴィセンテ兄と共に北陸へと旅立っていった。

 そしてその日の夕食の席で、ヴァリニャーノ師は自らの今後のタベーラ・ディ・マルツァ(スケジュール)を発表した。

「来週の木曜日、すなわち二十五日は聖体の祝日コルプス・クリスティですね。その日は高槻タカツキの殿のジュストと、必ず高槻に戻ると約束をしています。ですから、高槻に行かねばなりません」

 このことは前から分かっていたことなので、誰も異存をはさむはずはなかった。だが、フロイス師は不在である。日本語ではフロイス師に負けないオルガンティーノ師も復活祭パスクアも高槻に行っていて留守にしたのだから、聖体の祝日コルプス・クリスティまで安土にいないでは神学校の学生はもとより、安土の信徒たちに対しても申し訳ないということで安土に残ることになった。するとヴァリニャーノ師は急に私に笑みを含んだ目を向けた。

コニージョ神父パードレ・コニージョ、高槻では通訳をお願いします。」

 いきなり私の名前を出されて気恥ずかしかったが、ただ私は笑顔でそれを聞いているしかなかった。

 しかし正直なところ、いくら臼杵ウスキで缶詰め状態で日本語の特訓を受けたとはいえまだ来日して一年もたっていない私なのだから、フロイス師のように流暢に日本語をしゃべるというわけにはいかない。ヴァリニャーノ師はほんの片言くらいなら日本語を話すが、メシア師やトスカネロ兄は全くのゼロだ。

 ただ、高槻なら相手がポルトガル語が堪能なジュストだから、その分楽ではある。

 こうして三位一体の祝日である次の日曜日が過ぎたらオルガンティーノ師を残して、我われは高槻に行くことになった。そして、やはり一時的にも安土を離れるのだから、そのことを信長殿にも申し上げて挨拶に行った方がいいだろうということになった。

 早速、翌週もミサに現れたヤスフェに、信長殿に会いたい旨を伝えてもらうことになった。ヤスフェはその日のうちに帰ってきて、翌日早速信長殿は会ってくれるという旨を伝えに来てくれた。


 翌日の午後、我われは安土城に登り、信長殿と二度目、都でを含めれば三度目の会見を行った。今回はヴァリニャーノ師とメシア師、トスカネロ兄、私と、純粋に豊後から来たメンブロだけだ。迎えに来た案内の武士にヴァリニャーノ師は、今度は大手の方から登場したい旨を申し出た。やはりこの前の道だと、テラの境内を通ることになるのが嫌なようだ。

 大手から本丸までは幅の非常に広い石の階段がほぼ真っすぐに続く。今回は、前にロレンソ兄のために信長殿が貸してくれた駕籠パランクイーンの返却傍ら、まだ腰を痛めているヴァリニャーノ師がそれに乗り、同宿の若者四人がそれを担いでの登城だった。

 天主閣では前回に信長殿と会った最上階ではなく、一つ下の赤い柱の八角形の階で信長殿を待った。ここは窓はあるもののそれほど大きくはないので少し薄暗く、照明の灯りの油がともされていた。ここも壁には彩色が施されたチーナの国の人物の絵がぎっしりと書かれており、実にきらびやかだった。そして信長殿が座る畳の下は、床までもが真っ赤であった。

 割とすぐに、信長殿は現れた。いつものにこにこした顔つきだった。

「いやあ、前にいらしたときに、こちらからまたお招きすると言っておきながら、そちらから先にお越しいただいて申し訳ない」

 かつて信長殿の家来は、信長殿が我われに笑顔で接するのを何か魔法をかけたのかとか言っていたが、家来たちにとってはこの笑顔はとても珍しいものなのかもしれない。しかし、どんなに笑っていても、信長殿のその瞳の奥には確固として動かざる芯のようなものがあるように感じられた。

 私がその信長殿の言葉をポルトガル語でヴァリニャーノ師たちに伝えているのを見て、信長殿は首をかしげた。

「いつもの通詞のフロイス殿は?」

「所用がありまして、席をはずしております」

 私が直接返事をすると、信長殿は私をじっと見た。そして、

「コニージョ殿はお若いようだが、だいじょうぶか」

 と、笑った。

「若いといいましても、もう三十半ばでございます」

「予から見れば若い。のう、フロイス殿やウルガン殿(オルガンティーノ師)から見ても若いだろうに」

 信長殿の笑いと共に、ほんの少しだが日本語が分かるヴァリニャーノ師も共に笑みを漏らしていた。そういうふうにヴァリニャーノ師は少しでも日本語を解してくれるので、私もその分だけ通訳としての荷が軽くなる。ただ、メシア師やトスカネロ兄は日本語がゼロだから気を抜くことはできない。

 ひときわ笑いが収まると、ヴァリニャーノ師は軽く頭を下げた。

「お招きもなく、こちらから押しかけて申し訳ありません。実は今日は、お願いがあってまいりました」

 私がポルトガル語で話されたその言葉を、日本語で信長殿に告げた。

「ほう、なんなりと」

「実は我われは安土に参りましてから約ひと月が立ちました。つきましては、この御畿内のいろいろな地方でまだ我われを待つキリシタンたちがおります。せっかく九州よりこちらに参りましたので、いろいろな土地のキリシタンを訪ねたいと思い、それをお許しいただきたく本日は参上しました」

 やはりフロイス師のようにすらすらとはいかないが、ヴァリニャーノ師の言葉をなんとか意味が通じる日本語にして言えたようである。

「あい分かった。いずこなりとも好きなところに行き、また説教士などを派遣するもよし、思う通り存分になされよ」

 私の通訳を待つメシア師やトスカネロ兄よりも先に、ヴァリニャーノ師は

「ありがたき幸せ」

 と、自ら日本語で言って頭を下げていた。

「予もキリシタンの教えが広く伝わることをうれしく思うぞ。ただし、その巡業が終わればすぐにまたこの安土に戻ってきてくだされ。必ずだぞ」

「はい、たしかに」

 もう一度頭を下げてから、ヴァリニャーノ師は信長殿を見た。

「上様もキリシタンにとお考えになったことはありませんか?」

 この話題となると、その話に反対し、無理だと断定していたフロイス師がいない今こそ、この話題を持ち出すべきだとヴァリニャーノ師は判断したらしい。

 私の通訳を聞いてから、信長殿の顔はほんの一瞬だけ曇った。だがすぐにまた笑顔に戻り、さらには大声で笑いはじめた。

「前にも言ったであろう。予は第六天ダイロクテン魔王・マオー化身けしんなのだ。そのような者が、いずれかの教えの信者になるなどということがあろうか。予はいずれの教団にも属さない」

 それをヴァリニャーノ師たちに伝えてから、私は直接信長殿に聞いた。

「では上様は、やはり一切のカミホトケも信じないというのは本当なのですか?」

「いや、そういうことではない。地上の組織としての教団には、いかなる宗門宗派といえども帰依する気はないということだ。釈迦牟尼シャカムニ(ブッダ)も、そなたたちの開祖の耶蘇ヤソ尊者も大いなる志の元で教えを始めたに違いない」

 耶蘇ヤソとはギリシャ語のイエズス様のみ名「イェースーズ」の音をチーナの人たちがチーナの文字で書き表し、それを日本の人が日本の読み方で読んだものだと聞いている。チーナでは「耶蘇」を「イェースー」と発音するからギリシャ語の発音に近いが、日本語ではだいぶ変わってしまう。

 もっともイタリア語のイエズス様ジェズもポルトガル語では「ジェズス」だから、違いが出てもしかたはない。

「だが、どんな教団でも、地上に降ろされたその時に地上の組織として独り歩きを始めてしまう。特に前に話した叡山エイザンの悪僧どもはどうだ。あれはもはや宗教とはいえぬ。宗教の隠れ蓑を着た武装集団で、それが予の前に敵対勢力として立ちふさがったから戦った。一向宗イッコーシュー本願寺ホンガンジとて然り、法華ホッケとて然り、だ。だが、どうもあの叡山との戦いについてはよからぬ風説が流れているようだがな、予は坂本でかの武装集団の僧兵どもとは戦った。だが、山の上に登ってみるとそこはもぬけの殻で、根本中堂と講堂だけ焼いたということは、前にも言ったであろう。その他は、非武装の僧侶たちは一人も殺してはおらぬ。殺すにも、いなかったのだから殺せぬであろう」

 信長殿はそこで、声を上げて笑った。

「それを全山焼き討ちしただの、何千人もの首をはねただの、言いがかりも甚だしい。ま、どうでもいいことだがな」

 信長殿の笑いは少々苦笑に変じていた。だがすぐに元の笑顔に戻った。

「そなたたちの耶蘇尊者は『天主デウス』に遣わされた者として教えを広めたのであろう。その教えの概略は、すでにウルガン殿から拝聴している。釈迦牟尼シャカムニ(ブッダ)も荒野に梵天ボンテンの声を聞いて立ち上がった。そこまでは一緒だ。だが釈迦牟尼シャカムニの教えと今の寺とは別のものだ。だから、帰依する気は毛頭ない」

 なんだか遠回しに、洗礼を受けることをきっぱりと拒絶されたようでもある。それにしても、信長殿の頭の良さと知識の豊富さには驚かされる。それがキリストの教えにまで及んでいるからさらに驚きだ。キリストの教えについては教義の内容を、信長殿の口ぶりからして、すでにオルガンティーノ師からかなりの部分まで聞いているようだ。

 それで、その話はそれまでとなった。

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