4

 ところが、その夜更け、我われがもう寝ようかとしていた頃である。

 廊下の方で小さな足音がして、

「バテレンさま、お頼み申します」

 と、日本で声がした。

 ヴァリニャーノ師はカブラル師の顔を見たが、カブラル師がうなずくので、

「どうぞ」

 と、声をかけた。

 フスマという木と紙のドアが横に開いて、その外の廊下にはいい身なりの少年が座っていた。だが、少年とはいっても腰には短いカタナを差しているので、もう一人前の大人として扱われている身分のようだ。そしてその後ろには、薄い紅の着物を着た髪の長い少女も座っていた。

「中へ、お入りあれ」

 と、ヴァリニャーノ師が日本語で言った。

 中へ入って我われの前に居を正して座った少年は、まずは手を突いて我われに礼をした。少女は並んでではなく少年の斜め後ろに座って同じようにしている。少女の方が、少年よりも年は上のようだった。

「拙者はこの城の城主、志賀道易が嫡子、志賀太郎親次ちかつぐと申すものでござる。こたびはバテレン様方に、折り入って頼みたき義が」

 それを、ヴァリニャーノ師は手で制した。

「あのう、もう少し、ゆっくり、話してください」

 たしかに、あれではここにいる誰もが聞き取れないだろう。少年は言われた通り、同じことをもう一度ゆっくりと繰り返した。それによると、この少年はあの道易という殿の長男ということになる。

「わかりました。殿の息子さん…ですね。頼みとは、なんでしょうか」

 ヴァリニャーノ師もゆっくりと話している。少年は、声を落とした。

「拙者を、キリシタンにしてください」

「ほう」

 この場にいた司祭全員が驚きの声を挙げた。ヴァリニャーノ師も、しばらくはどう答えていいかわからないようでいた。

「きっかけは、何ですか?」

 やっとそれだけ言うと、少年は後ろに控えていた少女を示した。

「この娘は府内の殿の奥方にお仕え致していたが、わけあって暇を取り、当地に流れ着きました。この娘はキリシタンで、いつも十字を切ってひざまずいて祈っとりました。拙者、その仕草が異様なゆえ興味を引かれ、キリシタンのことをいろいろ聞くうちに、どうしても洗礼を受けたいと思うようになり申した。コンタツ(ロザリオ)もメダイも手に入れ、マリア様の御絵ごえも祀って毎日受洗の恵みが頂けるよう祈っており申す」

 それを聞いたヴァリニャーノ師は、少女に目を向けた。

「あなたは?」

「はい。鶴と申します。霊名はイザベルと頂戴しちょります」

 ヴァリニャーノ師はしばらく考えていた。そこへカブラル師が目配せをして軽く首を左右に振った。すると少女は、そのカブラル師を見た。

「カブラル様。うち、バテレン・カブラル様に洗礼を授けてもろじゃったんじゃが、覚えとられませんか?」

 暫く考えてから、

「申し訳ない」

 と、カブラル師は言った。

「たしかに、大勢で一緒にやったけん」

 少女はそれについてはそれ以上言及せず。室内の司祭全員に向かって、

「今日はお城にバテレン様方がいらっしゃっちょると聞いて、お懐かしくてお会いしちえと思っちおりましたら、太郎様がバテレン様方に会いに行くとおっしゃるけん、ついてまいりました。どげんか、太郎様の願いをお聞き届けください。太郎様はもう、総ての祈りも暗唱されております」

 やはり殿といわれる家族やそれに仕えているものの言葉は、庶民のように方言がきつくないので聞いていて分かりやすい。

 しかし、ヴァリニャーノ師はまだ何か考えていた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「洗礼は、すぐには受けられません。まずは、バテレンの説教を聞いて、カテキズモを学ばないとなりません」

「でも、太郎様はうちがバテレン様から聞いたことは、全部話しましたけん」

「いや、それでは」

「親の二人はどう言いますか? 認めますか?」

 と、カブラル師が口をはさんだ。私の耳から聞いても、日本に来てまだ一年ちょっとのヴァリニャーノ師よりも、もう十年も日本にいるカブラル師の日本語の方が何か危なっかしい。

 このカブラル師の問いには、太郎少年もイザベルも、あからさまに顔を曇らせた。そして、やがて太郎少年が弱々しく、

「何とかなります」

 と、言った。カブラル師は首を横に振り、ヴァリニャーノ師に向かってポルトガル語で、

「あの母親では無理ですよ。さらにその母親のジェザベル(イゼベル)が背後にいますから。この太郎タロー殿の叔父にあたる府内の殿もその妻も完全に公教要理カテキズモも学び終えて、洗礼の準備までしていたのに結局は実現しませんでしたからね」

「それは、あなたが理由をつけて洗礼を引きのばしたのではないのですか? そのように私は聞いていますが」

 と、ヴァリニャーノ師が穏やかに言った。カブラル師は不快な顔をした。

「冗談ではありません。そんなことをして何の得がありますか? すべてはジェザベル(イゼベル)です。本当は夫婦二人で洗礼を受けたかったのでしょうが、殿はその時戦争に行っていましたから、まず先に妻の洗礼をということで準備をしていたのです。そうしたらそこへ母親の嫌がらせや妨害やら、挙句の果てには教会に火をつけて我われ司祭を皆殺しにするために軍隊を派遣するなどと脅しまでかけて来て、しかも、ただの脅しではない証拠に実際に教会に危害が加わりかけたのですよ。そこでフロイス神父パードレ・フロイスとも相談して、ここはひとつ穏便に収めようと、洗礼式は延期してその代わりに殿と妻の受洗の恵みを祈るミサに切り替えたのです。私の独断で延期したのではないということはお分かりいただけましたか」

 ヴァリニャーノ師はそこまで言われたら何も言えなかった。そして、部屋を訪ねて来ている太郎少年とイザベルに気を使った。二人ともポルトガル語はまるでわからないはずだから、終始無言できょとんとしていた。ことの当事者でありながら、まるで取り残された形だ。

 そこでヴァリニャーノ師は二人に向かい、また日本語で言った。

「とにかく、あなたの気持ちは分かりました。我われはこれから府内フナイに行きますので、府内フナイの教会のバテレンたちに話しておきます。今日はもう帰りなさい」

 そう言われて太郎少年だけ、深く一礼して立ち上がった。だが、イザベルは残って、

「私のお願いもあります。この地にはうちのほかにキリシタンはおりません。だから教会もありませんし、ここに来てからもう府内の教会にも行かれなくなりました。だから、罪の告白も聞いてもらえません。今、お願いしたいのですが」

 告解コンフィソンの秘跡は、相当の語学力、それも聞き取り能力がないと厳しい。だから、皆が躊躇した。

「仕方がない。私が行くしかない」

 と、ポルトガル語でつぶやいてから、カブラル師が立ち上がった。カブラル師はイザベルを適当な別室に連れて行って罪を聞き、やがて一人で戻ってきた。

「さて、どうしますか」

 カブラル師は床に座ると、開口一番そう言った。

「状況はさっき言った通りです。府内フナイの殿の妻の洗礼式の時は本当にひどかった。私は決して妥協したわけではない。しかし、あの時妻の洗礼を強行していたら、ジェザベルは教会の焼き打ちと我われの殺害を本当に実行しかねない勢いだった。だから延期したのです」

 私も、今日の挨拶の時の太郎殿の母親の憎悪に満ちた目を思い出すと、あの母親、そしてさらには祖母がジェゼベルと呼ばれるくらいの人である以上、太郎タロー殿の受洗は今は難しいだろうと思った。

 そのことを言うと、ヴァリニャーノ師も、

「たしかに、今は難しいですね。しかし希望を捨てずに、『天主デウス』の導きに任せましょう」

 ということで、とりあえずは決着がついたようだった。だが、カブラル師は鼻で笑った。

「日本人は信用できませんよ」

 皆の視線が、カブラル師に集まる。

「府内の殿もどうですか。延期されたならばなおさらに強い信仰を持って、受洗の恵みが頂けるよう祈るかと思いきや、その後信仰心はどんどん薄れて再び偶像崇拝に走るわ、放埓な生活に戻るわで、挙句の果てには父君ドン・フランシスコへの敵対勢力と通じて今回の反乱分子の蜂起の原因をも作った。今でこそ父君のとりなしでなんとか立ち直って、反乱分子を攻撃する立場になっていますけれどね。それだけではない。ドン・フランシスコの次男、つまり府内の殿の弟のドン・セバスティアンは洗礼は受けたけれど一向に信仰は深まらない。また、大友の家の重臣の田原タバル殿がミヤコから迎えた養子のドン・シモンも愛情を注いで信徒として育てたつもりが、この豊後ブンゴから勝手に飛び出して都に戻り、その後は消息が知れない」

 やはりカブラル師の日本人を蔑む思想は、こういった愛情と心血を注いできたのにことごとく裏切られてきたことに由来するのだろうか。そんなことを思っていると、

「しかし、あなたは」

 と、ヴァリニャーノ師が口をはさんだ。

「ドン・フランシスコを受洗まで導いたというものすごい大きな功績がある。そのお蔭で、豊後では今や一万人近くの信徒がいる。なにしろドン・フランシスコという方は若い時にあのフランシスコ・ザビエル神父に直接お話しを伺った方だから」

「ドン・フランシスコはキリストの教えよりも、我われの国の珍しい品物や文化に魅了されてどんどんのめり込んできたから、キリストの教えも受け入れやすかった。この国の人びとは、我われの国の文化を知りたがっている。まずそこから入っていくのが早道なんだ。だからあなたのように、」

 カブラル師は、ヴァリニャーノ師を見た。

「我われがこの国の文化を受け入れてそれに浸り、そこから教えを説くなどというのは本末転倒だ。この国の文化や風俗習慣などどうでもいい。彼らが我われに合わせればいい。人は皆、珍しいものを知りたがるのです。自分たちと同じような文化を我われが身に付けていれば我われは彼らにとって珍しくもなんともないから、教えを説いたって聞きませんよ」

「まあまあ」

 と話に割って入ったのは、メシア師だった。

「もうその話は蒸し返さないで。もう今日は遅いですから、寝ましょう」

 なんだかまた険悪な雰囲気になりかけたが、メシア師のお蔭でそうならずに済んだので、私は安心した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る