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 有馬の町はややちょっとした川の河口近くにあった。ここもこれまで同様平らな土地は狭く、そこに寄り添うように民家が並んで町を形成している。

 そのほぼ町の北側の小高い緑の丘の麓に司祭館レジデンツァはあり、それに隣接して二階建ての大きな建物があった。ここの司祭館も日本式の建築様式で建てられ、十字架だけが司祭館であること示しているが、隣接する建物には大きな運動用の庭もあり建物自体もがっしりしていて、建築様式こそ違うけれどもこれが学校だなとすぐに分かった。話には聞いていたが、これが今年になってできたばかりの神学校セミナリヨだろう。

 それを横目に我われは司祭館に入った。すぐに出迎えに出たのは一人の年配の司祭と若い修道士だった。司祭はヴァリニャーノ師とポルトガルからずっと行動を共にしてきたというロレンソ・メシア師で、もう一人の修道士はヴァリニャーノ師の巡察師としての秘書であるオリヴェリオ・トスカネロ兄であった。トスカネロ兄はヴァリニャーノ師と同じナポリ王国の出身で、私とも同胞といえた。

 どこにいても、ポルトガル人やイスパニア人が多い中で、イタリア語を話す人びとは出身国がイタリア半島のどこであれ私にとっては同胞なのである。

 まずは部屋に通され、旅の疲れをいやしてくつろぐよう親切に言われた。私はそのまま、夕方まで床の上に横になってうとうとしていた。

 夕食ということでトスカネロ兄がイタリア語で呼びにきた。

 廊下を歩きながらイルマンはそっと、私だけに聞こえる声で耳打ちしてきた。イタリア語でならおそらくわかる人は少ないだろうから小声で話さなくてもと一瞬思ったが、

「この司祭館や特に隣の神学校ではラテン語のほかはスパーニャ語、ポルトガル語以外は使用が禁止されていますので、他の人がいる所では気をつけてください」

 という内容だから、小声でも仕方がなかった。たしかに、ヴァリニャーノ師も二人きりの時以外はポルトガル語だったし、ふとイタリア語を使おうとすると目配せをして制してきた。しかしこのようにはっきりと言葉で示されたのは初めてだ。なるほど、あの目配せはそういうことだったのかと思う。それにしても、なぜ?という感じだ。

「日本人の神学生の、語学習得のためだそうです」

 それならばわかる。だが、それなら日本語だけを禁止すればよさそうなものなのに、ポルトガル語とスパーニャ語だけが許されるというのもあまり愉快ではない話であった。

 

 食堂はやはりテーブルと椅子だった。上座にはヴァリニャーノ師のほかに、それを挟むように二人の年配の司祭がすでに座っていた。私が入ると、ヴァリニャーノ師はすぐに私を手招きした。そして二人の年配の司祭に私を紹介した。

「今度ゴアからマカオ経由で初めて日本に来たコニージョ神父パードレ・コニージョです」

 まず一人は体格はいいが少し細めで背が低い司祭を、

「このシモ布教区の布教区長、ガスパル・コエリョ神父パードレ・ガスパル・コエリョだ」

 と、ヴァリニャーノ師は紹介した。コエリョ師は立ち上がって私と握手をしながら、

「あなたと私は同姓ですな。コエリョとコニージョ、言葉による言い方が違うだけですからね」

 とにこりともせず真顔のまま言った。

 もう一人は眼鏡をかけていた。がっちりとした強健そうな体格だった。

「で、こちらは、日本全土の総布教長のフランシスコ・カブラル神父パードレ・フランシスコ・カブラル

 眼鏡のカブラル師はさっと立ち上がり、すっと手を出して握手をし、

「よろしく。おはげみください」

 とだけ愛想笑いと共に言ってから、こちらもすぐに真顔に戻った。実にきびきびとした動作だった。

 私は緊張でこちこちだった。特にカブラル師の方は、笑顔ではあっても眼鏡の下からの鋭い眼光が私を見透かしているようだった。だがその時は、こういう気難しい性格の人なのだなくらいにしか思っていなかった。

 三人の中ではヴァリニャーノ師がイエズス会総長代行の巡察師なのだから一番地位は上だが、四十代になったばかりくらいのヴァリニャーノ師よりも両脇の二人は十歳ほど年長のようで、どう見ても五十代だった。

 食事が始まった。私は近くのメシア師やトスカネロ兄と談笑しつつ食事をしながら、時々上座の三人の様子をうかがっていた。三人ともほとんど会話もせず、黙々と食事をしているように見えた。食卓には他にも五人ほど司祭や修道士がいて、彼らにはメシア師が私のことを紹介してくれた。

 ここは結構大きな司祭館なので、司祭以上だと一人一部屋与えられた。部屋に戻ってからも、あのカブラル師の鋭い眼光が気になっていた。自分がなぜあのように緊張していたのかも不思議だった。

 

 その夜更け、一度は就寝した後にふと目が覚めて、私はバーニョ( ト イ レ )に行こうと廊下を歩いていた。すると暗い廊下の先から話声が聞こえる。それもかなり興奮した言い争いのような感じだ。日本の家屋はエウローパのそれと違ってしっかりとした壁で仕切られているわけではなく、ほとんど紙でできたドアで仕切られているので声も筒抜けだ。しかも声の主の一人はヴァリニャーノ師のようだから、私は思わず足を止めてしまった。

 まる聞こえといってもまだ廊下の先の方の部屋からなので、話の内容はよく聞こえないが、あの普段は温厚なヴァリニャーノ師とは思えないような口調でのほとんど怒鳴り合いだった。もちろん夜中ということもあって、声は抑えての怒鳴り合いだ。ただ、断片的に、

「そのようなやり方では……数を追えばいいというものではない……」

 などという言葉が聞こえる。そしてところどころに「ゴアは…」とか、「日本のこの惨状」などという語もあって、相手も負けずに言い返しているようだ。

「それならばあなたはゴアに……あなたのやり方は生ぬるい」

 そんな断片的な声は、どうもカブラル師のような気もしたが、確証はない。だが、いつまでも立ち聞きしているのバツが悪く、私はバーニョへと向かった。

 その時、まだマカオにいた時アルメイダ師が、ヴァリニャーノ師とカブラル師がうまくいっていないようなことを言っていたことをふと思い出した。

 

 翌日、トスカネロ兄の案内で、神学校セミナリヨの方を見せてもらうことになった。いかにも新築という建物で、まだ木の香りがぷんぷんしているようだ。この国の建物は彩色しない素地の木材で建てられているので古くなると茶色となるが、新しいうちは全体的に白い建物という感じである。

「今はだいたい三十人ほどの学生が宿泊できます。今の学生は二十人ほどですが、やがては五十人くらいは収容できる施設に拡張する予定です」

 ここではイルマンも完全にポルトガル語しか話さなかった。

「朝の四時半には起床して祈り、ミサがあってそれからすぐに授業が始まります。九時からが食事です。ここの生徒の食事は日本の古い習慣通り、一日二食です」

 室内は、驚くほど清潔だった。ローマの修練院ノビツィアードよりもはるかに清潔感がみなぎっていて、塵一つ落ちていない。まあ、建築されてからまだ数カ月しかたっていないからだろうと、その時私は思っていた。

「ここはポルトガル人の神学生、修道士、日本人の神学生と混ざって在籍していますけれど、分け隔てはありません。ここで彼らはラテン語、ポルトガル人は日本語、そして道徳を学びます。ほかに楽器演奏や唱歌の時間もあります。一日の時間割は、結構余裕がありますよ、自由時間もあります。もちろん、勝手な外出はできませんけどね」

 私はただ感心して、うなずいて聞いていた。

「水曜日と土曜日の午後、日曜日は休みですから、学生は自由に活動します。ここから離れた所に余暇を過ごす施設もありますから、そこへ行って過ごすことも自由です。夏は夏休みもあります」

 ゴアやマカオにも修練院ノビツィアードはあったが、こういった神学校セミナリヨを見学する機会は私には与えられなかった。だから、現地の少年がこのような所で学んでいる姿を、私は彼の地では見てはいない。

 私はそっと、授業中の風景をのぞいた。教室は板張りの部屋だったが、生徒たちは椅子に座っての授業だった。机はなかった。

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