サイドベット
見渡す限りの赤い大地の中、砂塵を巻き上げながら馬蹄を轟かす。車輪が壊れそうな勢いで馬を走らせ鞭をくれる。
後ろを振り向いた。黄色い砂煙の中から、猛然とこちらを追いかけてくる数十の馬群。その先頭を切る漆黒の乗騎はまさに冥界から現れたような出で立ちだ。
恐怖で身が竦みそうになるのを歯を食いしばって耐える。
あと数マイル先に、目的地のローズベルがある。保安官事務所へ駆け込めばなんとかなる筈だ。あと少し、あと少しだ。
十字を切り、神に祈る。だが、その祈りは神に聞き届けられることはなかった。
馬が悲鳴を上げながら転倒したのだ。まるでバッファローに体当たりされたかのような衝撃が全身を襲った。
御者台から吹き飛ばされ、ごろごろと転がる。何が起きた?回る世界と痛む身体を無理に捩らせ、倒れた馬車を見れば、馬の一頭が頭を撃ち抜かれていた。
距離にして七十ヤードはあったはずだ。あの距離で、しかも馬を走らせながら撃ち抜いたという驚きと恐怖が、全身を支配した。
「よう」
目の前に、真っ黒な蹄が土を踏み潰すように足踏みをした。震えながら視線を上に上げる。同じように黒いブーツ。ズボン、コート。その男は帽子すらも、まさに全身を黒で飾っていたが、その下から覗く癖の強い髪は燃えるように赤かった。
「エディ。積み荷は?」
後ろから別の男が馬上から問いかけた。エディと呼ばれた黒づくめの男は「全部だ。根こそぎ詰めろ」と指示を出した。
エディ。その名前は聞いたことがあった。
「エディ……エディ・ジョーンズ……」
掠れた声が情けなく漏れ出た。
ワイオミングで鉄道や銀行、資産家の邸宅を襲い、当局から破格の賞金がかけられた、あのジェシー・ジェイムスに並ぶほどのアウトロー。銃の名手で、三十ヤード離れた蛇の頭を吹き飛ばしたという逸話は酒場の噂話で聞いたことがある。
「へぇ。俺を知ってるのか? これはラングドン貿易会社の駅馬車で間違いないな」
エディがリボルバーで帽子のつばを少し上げた。面白そうに笑みの形に歪められたその眼は酷薄な色を湛えていた。
言い訳も嘘も通用しないとその眼を見て分かった。壊れたように頷くと、彼は満足そうに肩を竦めた。
「エディ、見ろよこれ! すげえ!」
馬車の中を漁っていた男が、金糸に彩られた豪華な布でくるまれた長い棒のようなものを掲げてはしゃいだ声を上げた。
「うるせぇな!黙って……」
エディが怒声を上げようとして、その包みに目をとめた。くるくるとリボルバーを右手で弄びながら、ゆっくりとこちらを見た。
「おい。これはどこからの荷だ?」
「に、日本(ジャパン)だ」
「日本? チャイニーズじゃねえのか」
「ち、違う。もっと東の果てだ……」
仲間からその包みを手渡されたエディは、包みを開けた。見た事も無い長いナイフ、いや、剣のように見える。
「ほう。こりゃあスゲェな」
彼は銃をホルスターに納めて、興味津々にその剣を眺めた。すらり、と剣を抜くと、ぎらぎらとした太陽の光が当たって、まるでそれ自体が白金色に光っているようだった。
「いいね。金持ち共の道楽には勿体ねぇ」
エディ・ジョーンズは、満足そうに剣を自分の鞍に仕舞うと、部下達にそろそろ退くように指示を出した。
「新聞屋に伝えな。エディ・ジョーンズが三十台目の駅馬車強盗に成功したってな! 行くぞ。ボーイズ」
すっかり空になった馬車の残骸と、歓声を上げて遠ざかる馬の群れの影を見上げながら、ゆっくりと意識が遠のいていった。
※※※※※※
海の向こうで一攫千金を求めて荒くれの無法者達が馬を駆っている頃、江戸はまさに混迷の極みを呈していた。
長州薩摩では討幕の気概が最高潮に達し、御用盗という名目で尊攘派の浪士達が幕府側につく商家を襲い、私財を強奪するという凶行が絶えず起きていた。
しかし、御用盗を起こしているのは雇われた食い詰め牢人共ばかりで、薩摩が黒幕であるという確固たる証拠を掴めぬまま、幕府の重臣たちはこの事態に頭を痛めていた。
米川門前町、米川明神の裏にその役宅はあった。
ひらり、と門を飛び越えて猫のように中庭に降り立つ。
むせ返る様なコブシの花の香りの中に、僅かに漂う煙草の香り。迷うことなく煙草の香りの方へ足を向けた。
その人物は障子の向こうで煙管をふかしながら、何やら熱心に読んでいるようだった。
濡れ縁の外で膝をつき静かに待っていると、やおら障子が開いて中の人物が顔をのぞかせた。
「おう、仁三郎か」
「はっ」
仁三郎は平伏した。この人懐こい笑みを浮かべた男こそ、勝安房守、のちの勝海舟である。
勝は濡れ縁にどっかりと座り込むと、煙管をふかしながら仁三郎に問いかけた。
「首尾はどうだった」
「今宵の目当ては両国の沼田屋。不逞浪士八人の中に、一人だけ剛剣を遣う者がおりました」
「成程ねぇ。沼田屋とは大きく出たな。で?」
「奴らは浅草に近い河川敷にて報酬を巡って仲間割れになり、猪熊忠兵衛という男が牢人共を斬り捨てました」
「獣畜生と同じだねぇ。猪熊忠兵衛。名が分かったな。でかしたぞ仁三郎」
仁三郎と全く同じことを言いながら、勝が笑った。繊細な銀細工の煙管をひと吸いし、紫煙を吐く。
「お前ぇさんがこの任に就いてから、どんくらい経ったかねえ」
「もうすぐ、六月になりまする」
「いかほど斬った?」
「三桁に届くくらいでございましょうか」
度重なる御用盗に勝海舟が講じた策は、いわゆる奇策であった。
勝は、御家人の中でも一番身分の低い黒鍬者という役目に目を付けた。俸禄十二俵一人扶持。金子に換算しても六両にもならない。武士なのに脇差の帯刀しか許されない。
だが、彼等は潜在的な力を秘めていた。
古くは戦国、荷駄部隊に属し陣地や橋などの築造を担っていたが、多くは杣(そま)の民でもあり、戦働きから情報収集、暗殺なども請け負う影の部隊でもあった。その技術が細々と受け継がれている事を知った勝は、黒鍬者の中から特に腕の立つ者を選び、任を与えた。
薩摩が御用盗の首魁であるという確固たる証拠をつかむこと。
それが仁三郎の任務であった。
「仁三郎、家族はいるか?」
「母が去年亡くなり、今は誰も」
母の栄(えい)は労咳であった。日に日に悪くなる容体にもかかわらず最期まで気丈に振舞い、仁三郎に黒鍬としての矜持を棄ててはならぬと言い残しこの世を去った。黒鍬の扶持では高価な薬も医者にも掛かれなかった。
「そうかい……仁三郎。悪ぃが別命を与える」
「はっ」
勝が濡れ縁の端で煙管をカン、と当て灰を出した。
「おめぇ、亜米利加に渡れ」
「は……?」
初めて聞く仁三郎の素っ頓狂な声に、勝は声を上げて笑った。
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