クラップス
月すらも雲に隠れた重い暗闇の中で、悲鳴と怒号が飛び交っていた。何かを壊す音、赤子の泣き声、女の悲鳴。
(始まったか)
向かいの小料理屋の2階、ではなくその上の屋根に身を潜めていた音無仁三郎(おとなしじんざぶろう)は、今まさに御用盗に入られようとしていた両替商、沼田屋に目を凝らした。外には頭巾で顔を隠し、提灯を提げた牢人共が五人。中に三人入った。計八人。
「尊攘の志、この国の未来の為じゃ!供出せい!」
野卑な笑い声、調度品をひっくり返す音が聞こえる。金子が落ちる高い音が響いた。沼田屋は両国でも五指に入る程の両替商だ。それなりの用心棒を雇っていた筈だろうが、既にその二人は入り口で無惨な姿に成り果て臥していた。
一太刀であった。独特の猿叫に、刀ごと身体を縦に断ち割る剛剣。示現流一撃必殺の太刀。
(獣畜生と同じよな)
目の前で繰り広げられる蛮行に怒りを覚えたが、己には役目がある。此処でバレては水の泡だ。
酷い訛りのある声が聞こえた。僅かに身を乗り出し、声の主を確認する。
「こんなもんでよかやろう、引き上げじゃ」
用心棒を一撃で屠った男だ。およそ身の丈六尺(百八十cm)の大男。頭巾を被り、顔を見せなくともあの訛りと独特の体捌きは隠せはしない。
暫く監視を続けるうち、あの男以外は大した腕ではない。と判断した。未だ凶行の続く沼田屋を一瞥した後、仁三郎は素早く身をひるがえした。
「各々方、お疲れさんどっした。給金は今回は四両という事で」
「最初は七両と聞いたぞ」
「わしもだ」
浅草に近い河川敷で、男達は強奪した金子を前に何やら言い合いを始めていた。当初の報酬と違うと揉めているようであった。牢人共は既に頭巾を被っておらず、提灯に照らされた顔が此処からよく見える。
身の丈六尺の大男は、ぎょろりとした目を怒りに染め始め、詰め寄る牢人たちを強い口調で詰り始めた。
(内輪揉めか。手間が省けた)
仁三郎は背の高い葦の草むらで、その成り行きを見守っていたが、その緊張は、唐突にして破られた。
「ぎゃ!」
牢人の一人が、大男に袈裟懸けに切り捨てられた。残った牢人たちが刀を抜く。大男が血振るいをくれてから大喝した。
「貴様ら、下手に出ればいい気になりおって!この猪熊忠兵衛が相手をしてやる!」
体は名を表すとはこの事かと冷めた目でそれを見つめる。猪熊が振るう剛剣の前に、寄せ集めの牢人共などまともに相手にすらならず、一方的な虐殺が真夜中の河原で繰り広げられた。
最後の一人が斃れると、猪熊はその場で唾を吐き捨て、こちらを見た。
「そこの者、出てこい」
仁三郎は葦の草むらから出て、猪熊の前に姿を現した。褪せたあずき色のたっつけ袴に、ねず色の小袖。総髪の下の顔は炭で汚していた。
「先程からずっと見ておった奴だな」
猪熊が低く言った。
「ほう。図体だけのイモ侍の癖に気配に聡いようだ」
仁三郎はわざと小ばかにしたように笑う。すると、提灯の燃えさしに照らされた猪熊の顔が面白いくらいに怒りに染まった。
「幕府の狗が何をほざく!」
猪熊忠兵衛が剣を構える。仁三郎の身丈は四尺二寸(約百六十五cm)。あの一撃で斬り降ろされればひとたまりもないだろう。
(初太刀を受ければ死ぬであろうな)
仁三郎は腰の太刀を静かに抜いた。黒拵えの二刀の小太刀が雲から顔をのぞかせた月明かりにさっと煌めいた。
「小太刀ん二刀術とは珍しか」
猪熊が低く笑う。先程の撃剣を見て猪熊が尋常な遣い手ではないという事は分かっていた。正攻法では勝てないであろうという事も。
「ゆくぞ」
滑るように猪熊が近づく。吐き気すら催すほどの殺気がふくらみ、仁三郎の脳天目掛け、稲妻の如き速さで落ちて来た。
咄嗟に右の小太刀を頭上にかざし、放る。ぱきん、と金属が断ち割れる音と同時に、身を低く屈めて滑るようにその股座をくぐり抜けた。
巨躯が傾ぐ。くぐり抜けざま、膝裏の健を断ち切っていたのだ。
「卑怯者め!」
膝をついた猪熊が叫んだ。だが、仁三郎は感情のない眼を向けながら、後ろから冷静にその心臓へ刃を突き立てた。
びくん、と身体を跳ねさせ、猪熊は赤くなった河原に身を沈め、それっきり動かなくなった。
「お前に言われとうないわ」
仁三郎は苦笑しながら、折れた小太刀を拾い上げ、風のように姿を消した。
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