3-4

「お姉さん大丈夫……?」

「大丈夫よ……あと五分だけ待ってちょうだい。五分待てば起き上がれるから」

 モンストピア滞在四日目の朝。アイヴィーはベッドの上で仰向けに、グッタリと身を横たえていた。

 昨日女王に腕を引かれてからというものアイヴィーはで全身が筋肉痛だった。明るいうちは成人の患者と共に果樹園と畑の手伝い。日が暮れると子供の患者と共に食堂で食事会。これには治療が終わったタケルも混ざり、新顔の登場に食堂は大盛り上がりだった。その後は高齢の患者たちと深夜までのおしゃべり。施設の患者全員とコミュニケーションを取った訳では無いものの、広大なモンストピア、そのワンフロア分の人々、軽く百数人と共に行動したのではないだろうか。いくら介助師の資格を持っているからって理論と実務は大きく異なる。怪人との戦闘とは異なる、コミュニケーションという戦いにアイヴィーの肉体は悲鳴を上げていた。

「けど凄いよねー。あの……お姫様だっけ? 見た目ボーっとしているのにさ、めっちゃテキパキしているの。病院の中ならウチの家政婦さんよりも働けるかもしれないぜ」

 アイヴィーは、そう言えばタケルはブルジョワだったなと、彼に視線を送った。フェーズアップ法を完了させた良家のご子息、半袖短パンから伸びる健康的な肢体から赤い斑点が消え、みずみずしい滑らかな素肌が覆っている。頭部の特徴的な角も姿を消し、額が本来の広さを取り戻している。ルームサービスに取り換えてもらった枕に穴は開きそうにない。患部が適合した影響か肌の色合いが若干赤くなっているが、肌はむしろ健康的な色合いになっていて外見上怪人病患者に見えない。モンストピアの施術は完璧だった。

「お姫様が家政婦さんならいいのになぁ。それなら一緒にヒーロー見てくれるのに……」

「いや、それは止めた方が良いわよ」

 特撮ヒーローの文化はここではマイナーなのか、子供たちはその存在を知らなかった。しかし、食堂でタケルと女王がシーンの再現を行ったことで彼らのハートはわしづかみになった。ひょっとすると子供は思っている以上にカッコいいヒーローの事が好きなのかもしれない。

「やるにしても食堂は止めなさい。ほかの患者さん私達のことを遠巻きに見ていたわよ」

「確かにやりすぎちゃったけどさ、でもお姉さんみんなの事止められたじゃん。あれすっげーヒーローっぽかったよ」

 冗談じゃない! アイヴィーは今自分に悪態をつく体力が無い事に感謝した。昨日一日でアイヴィーはモンストピアの患者はタケルの担当医を含め患部を自分の一部として自在に使いこなしている事に気がついた。おそらくこの島で発展させた独自のリハビリ方があるのだろう。アイヴィーは子供たちが手足に異形の部位を持ちつつも食器を独自の方法で持ったり、専用の補助器具を使用したりして健常者と変わらないペースで食事をしていたのに深く感心した。

 しかしこれは言い換えれば彼らがそれだけ部位の扱い方に習熟しているという事であり、食事が終わるやアイヴィーはすぐにヒーローごっこに付き合わされた。子供たちは何故か怪人の役にハマり、アイヴィーは彼らのためにヒーロー役を務める事になった。それは別に構わなかったのだが、子供という生き物は加減を知らない、彼らは部位を巧みに使って彼女へ襲い掛かったのだ。

 アイヴィーが外の世界でゴートとして戦っていた時、フェーズ2の患者は患部を中心とした偏った戦い方をしていた。動きに大きな癖があれば攻撃を避け、カウンターを決めるのは造作もない。しかし島の子供たちは患部もそうでない部位も癖無く全く同じように、動かすことが出来るのだ。相手は犯罪者では無いし、自分も今は介助師ノイン、本気で彼らを倒すことは出来ない。子供の滅茶苦茶なストーリー展開に合わせてヒーローは時に勝利し、時に敗北しなければならない事十数回、それは子供たちの就寝時間まで続いた。このとき女王の顔が再び笑っていたのに彼女は気づき、自分の立場が無ければ顔面に籠手の一撃を喰らわせたいと今も思っている。

 唯一の救いは激しく消耗したその体のままマダムたちとのおしゃべりに突入した時に大量のお菓子を貰った事か。デザートは別腹理論という多少苦しい言い訳を通したのは我ながら苦しいと彼女は思ったが、肉体労働に遊び、会話と相槌だけで一生分働いた気分だったのだ。外の世界で無心で怪人と戦っていた日々は何とシンプルだったのかとアイヴィーはベッドの上でもやもやとした感情に囚われていた。

「今動くわ。先に外に出ていて。三分で準備を済ますわ」

 はーい、と返事を返してタケルは外へ出た。同時にアイヴィーも行動を開始する。気分を仕事モードに切り替え、ベッドから勢いよく起き上がる。首元をさらけ出し、インジェクターで栄養剤を打ち込む。女王と接触しても首輪は警告音を発することなく正常に彼女の肉体を制御している。この分であれば怪人態への変身も遜色なく行えるだろう。

「……さて、あとは……」

 自身の肉体のチェックを済ますとアイヴィーはカバンから試験管のようなコンパクトサイズの保存器具を取り出して、次にジャケットのポケットをまさぐり始めた。昨日一日でアイヴィーは女王に一方的に振り回されるがままでは無かった。機会を見つけては髪の毛や垢、汗、擦り傷で滲んだ血液といったサンプルを回収し続けていたのである。これだけ苦労したんだから報酬はもらう。遊びつつも彼女は本業を懸命にこなしていた。

「……あれ。おかしい」

 ポケットをまさぐる指先に違和感が走る。悪寒と共に彼女はジャケットのポケットをめくり上げた。

「……いやいやおかしいでしょ」

 五本は回収したと記憶していた女王の髪の毛は影も形も無かった。百歩譲ってティッシュに染みこませただ液が蒸発しているのは分かる。しかし、傷口の止血に使ったハンカチ、そこに染みこんでいたはずの血液まで跡形なく消えているのは何かの間違いじゃないだろうか。アイヴィーは試しにハンカチの、女王の血液がしみ込んでいたはずの部分をちぎって器具に入れてみた。しかし細胞の反応は表示されない。彼女が苦労して手に入れたはずの成果はいつの間にか消失していたのである。

「……こんなの、どうしたらいいのよ……」

 左腕を掻きむしる。女王は肉体に関する限り恐ろしいまでの特異性を持っているようだ。そそしてそれは未知のベールに包まれている。アイヴィーは何故自分がこの任務に任命されたのか分からなくなる。バックアップにコンタクトを取れば女王の情報について何か分かるか。いや、女王への対策が出来ているのであれば自分がこの場所に送り込まれるはずが無い。一体ノヴァが自分を送り込んだ意図は何なのか……。

「お姉さん! もう三分たったよ!」

「! ええ、分かっているわ!」

 タケルが入って来ても良いように彼女は急いでインジェクターと保存器具をカバンの底へ滑り込ませる。呼吸を整え、誰も入って来ないのを確認するとアイヴィーは今度こそ介助師としての顔を作って外へ出た。

「俺待ちくたびれちゃったよ。女の人って皆準備が長いの?」

「そうね……いい女の人には色々準備があるものよ。タケルももう少し大人になれば分かるわ」

「えー、俺はすぐに遊べるのが一番いいな。体も普通になったし、もう学校のみんなと一緒に遊べるもん。準備は短い方が良いよ」

 彼の言葉にアイヴィーは子供らしくて良いなと微笑む。そう言えばブロッサムが同年代の友人たちと遊ばなくなったのはいつだっただろうか。肉体が患部に侵され学校に行けなくなると彼女はどうしても引きこもりがちにならざるを得なかった。アイヴィーはつくづく世の中は不公平だなと思った。タケルやこの島の患者のように富裕層はその資金を背景に十分な医療を受け、その一方で貧困層はデモに参加する余裕も無く街の隅で甘い香りをまき散らし、そのどちらでもない宙ぶらりんな自分は患部をつぎはぎした化け物として双方から恨みを買っている。そんな事情を少年はいつまで知らずにいられることが出来るだろうか。それを思うとアイヴィーは少年が外の世界に帰ることは酷なのではないかと思わざるを得ない。

「先生、俺をウォリアータイプにしてくれるかな? あの腕のライザーカッコイイよね。変身ベルトみたいでさ、まさにヒーローの象徴って感じだよ」

「まだ早いわよ。タケルの体で施術を受けたら体に悪影響が出るわ。ヒーローはハタチになってからよ」

 果たしてそのころまでに少年はその純真を守っていられるだろうか。そのころにはアイヴィーは妹とどこか遠くの地でひっそりと暮らせているだろうか。全ては彼女が女王のサンプルを回収できるかどうかにかかっていた。

「入ります」

「どうぞ」

 二人はタケルの担当医が待つ病室へ入って行く。モンストピア滞在の残り期間は彼が施術に順応しているのか、それを観察するのに費やされる。今日含め残り四日。最終的には薬品によって怪人態にまで変身させ、人間態と怪人態を島の外でもコントロールできるようにするのが目標だ。

「おや、お二人だけですか?」

 医者はマジックハンドの左手を二つに割って人数を示す。そのしぐさにアイヴィーとタケルは首を傾げる。

「え? 私達は二人じゃないですか」

「いや、女王がお二方を気に入ったと伺っている物で。てっきり病室にまで付いてくるのかと」

「彼女が来るの、期待していたんですか?」

「まさか。休日ならともかく仕事中に割り込んで来られたら彼女が相手でも追い出します。この島の人間として彼女を敬愛するのと、仕事の邪魔をするのでは性質が全く違いますから」

 どうやらアイヴィーが女王に気に入られたとの噂はモンストピア中に広がっているらしい。昨日彼女に島中振り回されたのだから当然と言えば当然か。その一方でアイヴィーは医者の態度に安心した。女王を崇拝しつつも、仕事に集中する機会を守ると言う態度は彼女にとって心強い。サンプル回収のためにターゲットに接近したいのは山々だが今日は一日をドブに捨ててでも彼女から離れたいのがアイヴィーの本音だった。

「タケル君、施術が終わった夕方以降何か変わった事はあったかな?」

「先生、ご飯がめっちゃ美味しかったぜ。俺みたいな患者がいっぱいいてさ。久しぶりにあんな大勢でご飯食べたよ。食堂のご飯の量はひもじくないし、最高だった」

「うんうん、普通だね。他には?」

「角が出ないのが少し寂しかったかな。みんなでヒーローごっこをしたとき俺怪人役もやりたかったんだけどお姉さんとお姫様と一緒にヒーロー役しかさせてもらえなかったんだよ! ヒーローも怪人もどっちの役をやってこそごっこ遊びじゃん。ちょっとつまらなかったかな」

「部分変異は無しと。これは怪人態への変身の際は強めに薬剤を投入する方がいいか……」

 医者はタケルが語る何気ない、子供らしい言葉の端々から処置に必要な情報をあぶり出し、パソコンに情報を打ち込んでゆく。さすがにキーボードの入力は五指ある右手に限られるがそれは片手であるにも関わらず、アイヴィーが今まで見てきた機関のどのオペレーターよりも滑らかに、精密に指が動く。生活におけるハンディなど微塵も存在しなかった。

「今までの話をまとめると……タケル君の場合は運動をするのが一番いいですね。昨日の身体データと照らし合わせると患部自体は全身に広がっていますが、まだ覚醒までは至っていないようです。早ければどこかの部位がそれこそ角が生えてもおかしくありませんがそれが無いとなると薬品が効きすぎたのか……」

「施術は失敗ではないんですよね?」

「はい、フェーズアップ法自体は成功しています。これはどちらかというとタケル君の体質ですね……必要以上の抑制剤をご両親から投与されていたのが原因ですね。全く前時代的な処置だ。患部と共生するようにしなければ治るものも治らないのに……」

 研究者としてのスイッチが入ったのか、医者はタケルのカルテ、治療計画を見比べながらブツブツと呟き始める。どうやら彼もまた、外界と島内のはざまで苦しむ種類の人間のようだ。もはや呪詛と化した愚痴は内容が分からないタケルの顔まで青くさせている。それでも右手はカルテを更新するのを見ると仕事は出来るのだなとアイヴィーは彼を信頼するようになっていた。

「とりあえず、申請は出しておきましたので、今日は施設の外に併設された農業体験に挑戦してみましょう。畑を耕すのは良い全身運動になりますし、都会で生活しているとなかなか自然に触れ合う機会がありませんからね。いい気分転換になると思うよ」

 医者はアイヴィーとタケルの目を交互に見る。アイヴィーは彼の提案を悪くないと思った。畑には患部のハンディをものともせずに元気に働く患者たちの姿があった。そんな彼らと触れ合えばタケルにもいい刺激になるし、何より隙を見て女王に接触できる。体力が有り余っているタケルを野に放てば任務をこなせると思ったのだ。

「ねえ先生。それって午後には終わる?」

 医者の提案にタケルは不服なのか、大人の前では比較的いい子だった彼が初めて反抗の意を示した。

「あら、タケル、何かあったの?」

「いや、外に出るのは良いんだけどさ……四時からはちょっと見たい物があると言うか……」

 歯切れの悪い答えに大人二人は首を傾げる。そして、何かに気付いたのか医者はマジックハンドを伸ばして彼の半ズボンのポケットを軽くたたいた。

「まさかとは思うけど……?」

 根が素直な少年は隠し事が苦手なのかポケットに手を突っ込むとそれを二人の前に差し出した。

「コロシアム観戦チケット……ああ……」

 医者はそれを見て頭を抱えた。アイヴィーはぴんと来ない。ノヴァに渡された情報にそれは含まれていなかったためそれがいかなる性質の場所なのか知らなかった。

 もっとも名前からどんな施設なのかは想像できる。

「お父さんに貰ったんだよ……ヒーローショウみたいなものがあるって聞いたから……。ダメだった?」

「別に駄目じゃないけど……アレを興行にした上層部が悪い。全く……医学的治療を何だと思っているんだか」

 悪態をつきつつも医者はスケジュールの修正をした。どうやら譲れない意思は持ちつつもそれとは別に患者の意思は尊重する、プロフェッショナルだった。

 何がともあれ予定は決まった。午前中から午後三時まで外で運動の後、休憩を挟んで午後四時からコロシアム観戦。リハビリと言うよりもちょっとした旅行コースのような日程だが、富裕層の中には医療旅行という言葉があるくらいだ。アイヴィーはあえて突っ込まず、タケルと医者の任せるままにした。何をしようにも結局アイヴィーがやることは変わらない。

 三人が部屋を出るとそこには女王の姿があった。やはりと言うべきか彼女はアイヴィーに付いて行くつもりで待っていたのだろう。行先も伝えずに前へ行くと素足をぺたぺた鳴らしながらその後を付いてくる。

 今度は後ろか。アイヴィーは女王の存在を自分の中でどのように位置づけるのか悩んでいた。任務のターゲットであり、この島の頂点であり、自分一人では到底太刀打ちできない怪人。そんな彼女に後ろを取られている。すでに名前を知られているのであれば、もしかしたら彼女は自分がスパイである事すら把握していてもおかしくない。このまま後ろからグサリと刺されてもおかしくない状況だ。

 それでも彼女が自分を襲わないと思ってしまうのは彼女が妹の顔を持っているからだろうか。もう一年会っていない唯一の家族。女王を見ると今も集中治療室で横たわっているであろう妹が歩いているように錯覚してしまう。アイヴィーはそれが良くない兆候だと思いつつも女王をただのターゲットでは無く身近な存在に感じ始めていた。外見の相似に昨日一日の濃密な時間。そこにいるのが当たり前と言わんばかりに付いてくる女王を見るとどうしても意思が鈍ってしまうのだ。

 アイヴィーはジャケットのポケットをまさぐる。インジェクターの本数は三本。変身と、必殺の患部形成と、回復でちょうど三本分。戦力として決して十分とは言えない分量だがそれを握りしめる。自分が今どの立場にあるのかを自覚するために強く。

 そうやって歩いているうちに四人は病院施設を出て外の農業エリアに出た。屋内も十分に明るかったが南太平洋の快晴の空はそれ以上に明るい。感じていたストレスを吹き飛ばすほどのあたたかな光のエネルギーに四人はしばし日光浴を楽しんだ。

「これで畑を耕せばいいの?」

 タケルは鍬を持って見よう見まねで畑に突き立てるも、深く刺さりすぎて上手くいかない。

「…………こう」

 意外にも彼を助けたのは女王だった。真っ白なロリータファッションでも構わずに土の上を歩き、タケルに農具の使い方を指導する。自分の意思を行動で表す彼女らしいというか妙に手慣れていた。

「お、やっているのう」

 二人が畑を耕す姿を見てなのかクロウも現れた。今度は白髪交じりのナイスミドルの姿で相変わらずの制服姿だ。それを正装の如くキッチリ着こなしているという事は直前に会談でも行っていたのだろうか。こちらもまた農作業には不似合な格好である。

「どうじゃノインちゃん、ウチの姫さんは迷惑をかけておらんかのう」

「ええ、まあ。見た目と違ってずいぶん行動的でしたけど、大丈夫です」

 アイヴィーは家政婦の社交辞令のような言葉を口に出したが本音を言えば文句の一つや二つぶつけたかった。しかし、相手が女王同様得体のしれない怪人であり、外交官ともなれば正体がばれた日には何をされるのか分からない。外交的な笑顔を作ってお茶を濁す事にした。

「ふむ。どうやら本格的に懐いているようで一安心じゃな。中にはこんなにカワイイ姫さんを相手にビビッて逃げ出す奴もいてな。全く姫さんは人形じゃ無くて生きた人間なのだから多少お転婆をするのにそれを受け入れられないとか失礼な連中と思わぬか? あんな服を着ているからか誤解されがちなのじゃがあの人は行動派なのだよ」

「ハハハ……確かに」

 タケルはやっと三分の一を耕したと言うのに女王は既に畑の端まえ耕し終えている。これで行動派と言わなければ嘘だ。しかもタケルが素肌を真っ赤にして汗だくになっているのに対して女王は汗一つかかずにロリータファッションにも泥一つついていない。一体どうすればその状態を維持しつつ見事に畑を耕せるのか全くの謎だ。

「さて、今日は夜まで暇じゃし、お世話してもらった手前少し手伝ってやろう」

 クロウはそう言うとアイヴィーに向かってウインクをし、制服の袖をまくり始めた。

「ありが――⁉」

 次の瞬間クロウの体が蒸気を上げ始める。白髪が広がり、肌にも大きく皺が増える。背も低くなり対照的に筋肉が膨張するのは奇妙だったが、餡の匂いに包まれると共に彼の姿は六、七十代ほどの老人の姿へと変身した。

「やっぱり鍬を持つならが一番いいな。オイ坊ちゃんに姫さん! 畑ってのはこう耕すんじゃ!」

「……」

 アイヴィーはあ然とその様子を見ていた。しかし誰もクロウが変身したのを見ても驚かない。異形の部位を持つ彼らはそれが当たり前だと、粛々と畑を耕し、作物を収穫し、苗を植えている。

「そうした反応を見るとノインさんはやっぱり外の人って感じですね」

 タケルを真っ直ぐ見つつ医者は口を開いた。マジックハンドで鍬を掴むも細い持ち手を相手にそれは滑ってしまう。

「僕はね、元々島の外で医者をやっていたんです。でもね、あそこは偏見が大きくて……私の手がこうなったのは大体五年前。自分でもびっくりです。まさか自分が後天性変異病、怪人病を発症するだなんて。

 この病気の恐ろしいところはいつ発症するのか分からない点です。研修医として激務に追われて気づいた時にはですからね。予防なんてする暇はありませんでしたよ」

 医者は白衣の上から左腕を撫でた。硬質なそれはキュッキュッと音を鳴らし風と共に薄甘い匂いを広げる。

「この病気は感染しない。そんな基礎知識誰でも知っているはずなのに、この腕を見た瞬間誰もが逃げるんです。それも仕方ないと思いました。怪人病は研究している我々ですら未知の部分が多い。人間は未知を怖れる生き物ですから。

 ……でも……正しい知識を持っているはずの医師の間ですら偏見が存在するのは驚きを通り越して呆れました。自分で言うのもなんですが、僕は研究医としてそれなりに将来を期待されていて、まあ要は天狗になっていました。それが怪人病になった瞬間みんな手のひらを返すように離れていって、まさか仕事すら干されるとは思っていなかったなぁ……」

 二人の視線の先、患者たちはよく見ると普通の人間がするように農作業をしているわけでは無かった。ある者は患部に合わせた独特の形状の補助器具を鍬に取り付けて耕し、またある患者たちは不自由な患部をお互いにカバーしながら苗を植えている。そして、ハサミのような一見すると日常では危ない部位を持った患者たちはこの場では生き生きと患部の切れ味を活かして作物を収穫していた。

「ここでは患部を持つことが当たり前。お互いが違う生き物である当事者である意識がある場所なんです。それゆえに仕事の効率化のために工夫する事も、助け合う事も、生きる喜びを得る事も全員で考えます。

 患者同士の間でも偏見が無いわけじゃありません。でも、このモンストピアでは誰もが相手の怪人病が抱える問題を自分の問題として考えることが出来る。外の世界のように排除して締め出すことはありません。受け入れられた感覚があるんです。すこぶる気持ちが良いです。少なくとも僕にとってここは理想郷です。怪人病の最先端の研究が出来て、生の患者と触れあって、医師としてこれだけ恵まれた環境は無いと思います。その面ではこの腕に感謝ですね。患者にならなかったらこの島の存在を知る機会は、おそらくありませんでしたから」

 逃げてきて良かった……。医者のつぶやきは魂からの叫びだったのかもしれない。患者たちを見つめる彼の目じりには涙が浮かんでいる。

 アイヴィーはそれを見てなるほどと納得するところがあった。外の世界で彼女が見てきたのは偏見と対立の世界だった。患者は己を守るために叫ぶか暴れるか、それとも街の隅でひっそりと息を殺すかと両極端な行為しかすることが出来ない。人々に混じって普通に暮らせてもそれは表面的なもの。解体工事が終わらないアイヴィーの生家が良い例だ。誰も怪人病を直視しようとしない。口には出さないものの、それはどこか自分の世界とは違う、無関係な物だと溝が作られている。

「ノインさん、一つ面白い事を教えて差し上げましょうか。この島、数々の高額医療特許とVIP中心の診察で稼いでいる傍ら、それで得た資金で可能な限り医療を受けられないような貧しい患者たちを集めて治療しているんです。

 農作業に従事している彼らも、この島にいる多くの子供たちも元はスラムで偏見の目にさらされていた人々でした。モンストピアは将来的にはそんな彼らを集めて一つの国を作ろうとしているんですよ。主な収入源は島で得られた怪人病の研究データやリハビリなどの生活ノウハウ。患者たちは生きているだけで自分たちが島に貢献している感覚を得られます。多くの患者は外の世界へ帰りますが、中にはこの島での生活が忘れられなくて永住する方もいます。この島は患者のために最先端の居心地を提供しています。最初この話を聞いた時は夢物語だと思いましたが……今僕がこうして島に引きこもっているんですからなるほど説得力があります。それに女王もいる。彼女がいれば今にきっと、モンストピアは怪人病医療国家として独立を果たしますよ」

 砂糖細工の少女は患者一人一人の前に現れては作業を手伝い、体を支え、時に話の聞き役に徹して彼らに寄り添っている。外見上最も患者から遠い彼女は積極的に彼らと関わっている。口こそ開かないが、彼女の行動は自然と彼らの方へ動き、共にあろうとしているようだ。今の女王から、アイヴィーはホイップクリームのふんわりと滑らかで柔らかい匂いを感じた。目の前には外見上は歪な者同士が集まっているけれど、不思議と調和のとれた穏やかな風景が広がっている。

 この島の中では患者は平等……か。アイヴィーは彼らの様子を見て一抹の寂しさを覚えた。キメラタイプとして、産業スパイとして人工怪人・患者である事を隠している自分は決してあの輪の中に入ることは出来ない。タケルと異なり選択肢の無い自分は任務が終わり次第外の世界に戻らなければいけない。この理想郷を脅かす引き金に指をかけているのは間違いなく自分だ。自分は何が何でも女王のサンプルを回収して、妹を救わなければならないのだから。

 例えそれがこの島の女王を傷つけ、島内の患者たちのプライドを傷つける結果に終わっても、私は……私のためにそれをしなければいけない。アイヴィーはチラリと医者の視線の先へ目を向けた。そこにはフェーズアップ方の影響で少量の蒸気を身に纏い、皮膚を真っ赤にして興奮しているタケルと、彼を落ち着かせるために背中をさする女王の姿があった。

 自然と足が動いたのは介助師ノインとして彼を助けようとしたのか、それとも産業スパイアイヴィーとして人助けに夢中なターゲットからサンプルを回収するためか。両方の世界に身を置く彼女の足は空を歩くような何とも不安定な物だった。


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