3-3

 モンストピア滞在三日目の朝。三者三様に大きく腹が鳴る。自分の腹が目覚まし時計にでもなったかのようなどんよりとした空気を部屋が覆う。

 あの後三人はひたすらに水を飲みながら特撮DVDを見続けていた。アイヴィーとタケルは部屋の冷蔵庫やルームサービスに食事提供サービスが無くて良かったと心の底から感謝し、また恨んだ。

「……お腹が空いた」

「……あと数時間の辛抱よ。施術さえ終われば、いくらでも食べられるわ……」

 三人ともアイヴィーのベッドの上で倒れ込むように雑魚寝してる。そして、アイヴィーとタケルは指一本動かすのも億劫だと目だけ動かしてくたびれている。

 DVDを観ていた始めの頃は順調に視聴出来ていた。昼食の時間を通過し、おやつ時を超えた時、二人の間に謎の達成感が合ったことを覚えている。しかし、夕食の時間を迎えるころには胃袋がかきむしられるような感覚に襲われた。腹が減った! 人間の三大欲求がもたらす強制力は恐ろしいものでタケルはグラスを噛み砕きたくなる衝動に襲われ、アイヴィーは女王をデコレーションケーキに錯覚した。

 特殊な訓練を受けてきたとは言え、モンストピアの道中ですっかり緊張感が抜けた事によりアイヴィーの精神的強度は低下していた。まったくカタギの真似なんかするべきじゃない。今ベッドに転がっているのは仕事に後悔する等身大の十七歳の少女だった。

「…………? なんで寝てる?」

 女王はふわりと音を立てずにベッドから飛び降り、疲弊した二人を覗き込む。おそらくフェーズ4の怪人であり、同じように腹を鳴らしていたはずの彼女は愛らしい無表情を崩さずに動いている。むしろ特撮ヒーローの動きを完璧に模倣し、変身シーンから必殺技までの流れを数通り完全再現し始めた。ロリータファッションという衣装も相まって本物さながらの迫力。本来であればタケルは真っ先に喜び、アイヴィーも彼女の学習能力に息を飲んでいたのだが、そんな気力は二人には無い。むしろ「なんでこいつは元気なんだ」と八つ当たりしてしまいそうだった。

 空腹感に身を委ねボーっと時間を過ごす。胃の痛みに慣れ、虚脱感に脳を支配されると案外時間はあっという間に過ぎる。部屋を出る時間になるとアイヴィーは理性のひとかけらを総動員してタケルを背負い、女王の手を引いて処置室に向かった。

「……」

「……」

「…………?」

 アイヴィーは自分の鼻が敏感なのをこの日以上に恨む瞬間は無いだろうと思った。彼女にはフロア中の患者の部位から発せられる匂いを事細かに嗅ぎ取っている。アイスクリームにチョコレート、桃の缶詰にミックスジュース、しょうゆを焦がしたみたらしに黒蜜の濃厚な香り、患部が連想させる甘い匂いは空腹時には毒でしかない。外の世界でスイーツが文化流行の最先端から外されるようになったのは、ひょっとして人間がこの匂いに辟易しているからではないだろうか。患者と甘い物を結びつけるのは不毛だとアイヴィーは思っていたが、今はさもありなんと宗旨替えしてしまうほどやつれてしまっている。

 やっとの思いで処置室に到着した時、ロボットアームの医師は二人の顔を見るなりすぐに準備を初めた。鏡に映る自分達の姿を見た時、二人は自分達がゾンビになったような気分になり落ち込んだ。

 ともかく、これでアイヴィーは断食から解放されたのである。女王が傍にいる事もあり、島の外のようにジャンクフード漬けというわけにはいかないが、何か口に入れることが出来ると言うのは予想以上に彼女の心を落ち着かせた。とりあえず食堂でハンバーガーとポテト、コーラでも食べようと微笑みながら食堂へと足を進める。

「…………違う、こっち」

 そんなアイヴィーの袖を女王が引く。アイヴィーは彼女が示した方向が食堂とは逆であり、まったく別な研究施設が並ぶ区画である事に気付いて顔を顰めた。

「いや、私、お腹が空いているんだけど」

 食堂の方へ方向転換を試みるも彼女が袖を引く力はかなり強い。引っ張られていると言うよりも、むしろ自分が巨大な岩か何かに挟まれたような抗えない感覚に襲われる。この愛らしい小さな体のどこにそんな力があるのか、女王の存在はやはり未知そのものだとアイヴィーは感じざるを得ない。

 何度試しても女王は頑としてアイヴィーを離さない。どうやら主導権は彼女が握っているらしい。アイヴィーは初めて女王が女王らしい自分の意思を伴った行動を示した事に降参し、彼女の腕に引かれるままよろよろと歩を進める。

「一体どこに連れて行くのよ……」

「………………」

 やはり女王は言葉でのコミュニケーションが苦手なようだ。ただひたすらにアイヴィーの先を進み、意思を行動でのみ示す。もっとも、彼女の表情は一切変化しないので表層から意思を読み取ることは出来ない。全てが終わるまで、彼女の真意を知るのは困難だろう。アイヴィーは女王の足取りが確かなことだけを頼りに状況に身を任せる事にした。

「あ! 女王様だ!」

 子供の患者が一人、女王の下へ駆け寄って来る。少女は彼女にオレンジを一つ握らせるとまどこかへ駆け出していく。その背中を彼女は手を振りながら見送る。

「おや陛下。別嬪さんを連れてお散歩? 良いわね」

 再び歩むと老齢の貴婦人の患者が二人に近づき、女王の頭を撫でる。猫かわいがりとはこういうことかと撫でまわし顎をくすぐられる。相変わらず彼女は無表情だったが頬を赤く染め、鼻を鳴らす様子はまんざら嫌でもなさそうに見えた。夫人は最後に飴玉を二つ渡すと手を振って二人を見送った。

「……」

 下のフロアへと移動する。そこでもまた女王は歓待された。「姫」「領主さま」「女王陛下」「プリンセス」老若男女、患者・意思・人間を問わず様々な人々に親しみを込めて呼ばれ、愛でられ、贈り物をささげられる様子は本物の貴族めいていて、隣を歩くアイヴィーは自分が従者になったのではと錯覚する程だった。いつの間にか二人の手には両手で抱えきれないような食料でいっぱいになりこれ以上は視界も危ぶまれる程だった。

「…………ここ」

 女王がようやく足を止めたのは人気のない倉庫だった。女王の個室である第二十三研究室とは別に彼女に与えられた空間なのだろうか。見たところ生き物がいる気配と匂いを感じない、女王の匂い以外何も無い扉である。

 彼女が器用に素足で扉をスライドさせ、中へと入って行く。ついて来いという事なのだろう。アイヴィーはそのまま彼女の後ろへ、倉庫の中へと入って行く。

「…………ん」

 部屋の中は薄暗く、電気の類が十分に通っていないようだ。広さは企業の会議室程あり内装は何も無い。少女二人だけで利用するには広すぎる空間でアイヴィーは落ち着かない。

 そんなまっさらな空間のど真ん中に女王は食料を置いた。アイヴィーもそれにならって食料を置く。ざっと成人であれば八食分になる山がどっさりと組み上がった。

「…………食べて」

 彼女はアイヴィーに向かってリンゴを一個差し出した。

「いや、これあなたのでしょう」

「…………食べて」

 人の好意をおすそ分け、いや女王の場合は押し付けと言うべきか、ともかく自分がそれを受け取るのは筋違いでは無いかと思ったが、空腹なのも事実である。アイヴィーはそれを受け取ると種や芯まであっという間に平らげた。恥じらいはこの部屋にゴミ箱すら無い事を理由に押し込めた。

「…………これ」

「……」

 一つ、また一つと押し付けられるごとにアイヴィーはそれらを口に運ぶ。一食分平らげたところで食事を切り上げようとするも、女王の瞳はジッとアイヴィーを、彼女の奥を見透かすように注がれる。

「…………ここ、カメラ無い」

 おもむろに天井を指差す。なるほど、女王が自分をこの部屋へ連れ込んだのはそう言う意図だったのかとアイヴィーは納得する。女王はアイヴィーの肉体に直接触れている。表層だけでなく、それこそ体内の中を探ったのだ。であれば、彼女がアイヴィーを怪人だと理解しているのは当然と言うべきだろう。

「……」

 果たして彼女はどこまで自分の事を知っているのだろうか。もしかしたら私が産業スパイだと知っていて誘っているのだろうか、それとも……これは純然な好意なのか。何がともあれ人の目を気にせずに食事が摂れるのはありがたかった。こうなってしまってはどちらがお世話される立場なのか分からなかったが、アイヴィーは女王から差し出されるまま食事を進めてゆく。

「…………これ」

 最後に彼女が差し出したのは最初の少女から受け取ったオレンジだった。

「……」

 この島の果樹園から採って来たのか、熱帯の太陽の熱を閉じ込めたような皮の明るい色とほのかに香る爽やかな匂いは食欲をそそるものだった。山を食べつくしていたものの、数日間食事制限を受けていたアイヴィーにとってオレンジ一つ追加で食べるのは造作もないことだったが――

「いや、さすがに最初に受け取った好意くらい自分で食べなさいよ」

「…………?」

「あのね、今更こんな事言うのは説得力無いけど、理由はどうあれ私を人目を気にしなくていい状況で満腹にさせてくれた事は感謝するわ。ありがとう。

 でもね、あの人たちは私のために食べ物を分けてくれたわけじゃ無くて、純粋にあなたを思ってくれたのよ。せめて最初の好意くらい自分で食べないと罰が当たるわよ」

「…………?」

 何故食べないと再びオレンジを差し出すも、今度はアイヴィーが強情を張る番だった。彼女はそれを押し返し、自分で食べるようにジェスチャーをする。何度かやり取りをする中でようやく、不承不承と目を落としながら女王はオレンジに手を付け始めた。アイヴィーと同じように小さな口を大きく開けて皮ごとかぶりつく。皮しかつまめなかったせいか、表情が青く染まる。アイヴィーはそれを見て思わず頬が緩んだ。

「さて、これからどうしようかしらね……」

 監視カメラが無い部屋を見つけたのはアイヴィーにとって大きな成果だ。例えばこの場で女王の細胞片を一部採取すれば全てが終わる。データを解析できるのであれば、この生命工学が進んだご時世髪の毛一本でも採取できれば――アイヴィーは飴玉の包みを拾う素振りをしつつ、彼女の髪の毛を一本手早く抜いた。

「………………」

 サンプルを手早くポケットにねじ込み、ゴミの回収作業を進める。間違って混ぜないように、慎重にえり分ける。幸い女王はアイヴィーの行動に気付いていないようでそれがアイヴィーの気を大きくさせた。案外あっけなかった。あとは空腹を我慢するだけ。彼女の胸の中には心地よい達成感が広がり始める。

「…………次」

 女王の手がアイヴィーへと伸びるが――

「いや、どこに行きたいのか知らないけど、これじゃ繋げないわよ。まずはゴミ箱」

 アイヴィーはそれをそっけなく逸らす。任務が終わったのであれば人の体内に侵入できる女王の側には頼まれても居たくないし、なによりもジャケットに収まりきらず両手に抱えるゴミを今すぐ捨てたいのが彼女の本音だ。

 さてどんな理由を付けて女王の下を離れるか。まずは両手を自由にしようと一歩踏み出した時だった。

「…………!」

 女王の手が強引にアイヴィーの手首をがっしりと握り締める。袖を引かれた時もそうだが、女王の力は砂糖細工のような繊細な細腕からは想像できない程力強い。

「ちょっ、ゴミ位捨てさせてよ!」

 アイヴィーは手首が引きちぎれんばかりの圧力に気圧されるも偽の行き先を声に出すのを忘れない。やはり目の前のターゲットは危険な存在だ。この状況から一刻も早く離脱しなければ。彼女の生存本能がそう警告を吐き出す。

「…………ゴミは大丈夫」

 腕を引かれ、二人は再び施設のフロアへ躍り出た。暗所から明所へ、瞳孔が反射的に収縮してアイヴィーの視界が一瞬途切れる。

「ちょっと……⁉」

 視線を彼女から掴まれている自身の手元へ移動させる。そこには両手いっぱいにあったはずのゴミが綺麗に無くなっていた。

 周囲にゴミ箱は存在しない。アイヴィーの記憶が確かであれば、それはこの先をあと三百メートル行ったところに自販機と併設されているはずだ。彼女の視界には丹念に消毒された清潔な通路しか映っていない。

 クロウと同じ、外見上の変異が無くても能力を発揮するタイプ。でもその能力は一体何? アイヴィーは自身の体験から女王の能力を「体内への侵入と細胞状態の操作」ではないかと予想していた。生命体や有機物に影響を与える能力。しかしそれでは消えたゴミの説明がつかない。例えばバナナの皮であれば有機物だが、飴玉を包むビニールは無機物。それに干渉出来るのであれば女王の能力はアイヴィーの予想を超えている。いや、そもそも瞬間移動や透過の能力も発揮していたではないか。

「…………‼」

「ちょっ……ちょっと!」

 アイヴィーは改めてこの任務が危険である事を思い出した。自分よりもはるかに潜入捜査を行えるプロが今まで誰も島から戻って来なかったのである。自分だって、その可能性が無いわけがない。ターゲットの外見が子供である事に油断しきっていた。今の自分は女王になされるがままになっている。

「…………、私と遊ぶ」

「!」

 今までにアイヴィーは自分の本名を漏らしていない。クロウと島に到着するまでの経路も、到着してからも介助師ノイン・アイゼンバーグという身分で通して来た。当然持ち込んだ手荷物にもアイヴィーの名前を示すものは何一つ無い。昨日一日女王が黙って彼女のカバンを漁ったところで本名にたどり着くのは不可能なはずだった。

「女王……あなたは一体……何者なの……」

 足取りは真っ直ぐに、女王が頭だけ動かして後ろのアイヴィーへと向く。つくりものめいた無表情が動き、目元がとろけ、口元を弓なりにして小悪魔のように妖しく微笑む。同時に表情から甘い匂いが漂いアイヴィーの身を震わせる。意思表示に乏しかった彼女が初めて見せた感情、それは執着。アイヴィーは既に自分が女王という圧倒的な存在の前に取り込まれている事に気付いてしまった。

 歴代の工作員ももしかしたら……。この子供のような外見も相手を油断させるための怪人態なのではないか。アイヴィーの疑問は尽きない。しかし、女王が自分の名前を掴んでしまっていることだけは確実である。本来であればターゲットに過干渉せず、仕事が終わればこんな危険な存在から離れることが一番いいのだが、女王がなにか他の秘密も言いふらしてしまわないように監視しなければいけなくなってしまった。アイヴィーが望まない絆がすでに女王との間に築かれてしまったのだ。

「…………楽しい」

「……」

 周囲が何故彼女の事を女王と慕うのかアイヴィーは理解できない。しかし、仮に彼女が女王であるとするならばそれ暴君だろうと心の中で毒づくことでこれから先訪れるであろう困難に対する心構えをする事にした。


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