2-4

 モンストピア滞在一日目。この日はタケルには一日精密検査で終わりそうだった。持ってきたカルテと実際の怪人病の進行具合の比較に、怪人病をどのように整えたいのかについての家族の希望とタケル自身の希望など、諸々の事項を逐一調べこれからの治療方針にするようだ。

「俺、今すぐにでもウォリアータイプみたいなカッコいいヒーローになりたい!」

「すみません、普通でお願いします」

 タケルの年齢ではウォリアータイプへ強化手術はまだ早いし、彼が幼少期から腕輪付きや偽物と呼ばれて欲しく無かった。夢見る少年を説得するのに時間はかかったが、最終的には両親の意向である「赤鬼のような外見を人間らしく抑える」方針を担当医に伝えることが出来た。全くこの手の仕事は親の役目ではないだろうか。介助師の範囲外の行為にどっと疲れたが、それ以降は少年一人が長い長い検査を受けるだけ。そこに一介助師が介入する工程が無く、検査の終了予定時間まで暇が出来た。つまりは、本業に当てる時間が出来たのである。

「しっかしまあ、秘密主義なのか開放的なのか……よく分からない場所ね」

 アイヴィーはを片手に施設の内部を進んでゆく。これは彼女がタケルと別れる際に職員に要求したもので「暇な時間介助師として施設内を見学したい」という取って付けた理由で得た物だ。ペーパーバックでそこそこ厚みがあるが、片手で持てない程では無い。内容は島の中央に存在する医療施設から、島の外の地形図など、アイヴィーが喉から手が出る程欲しかった情報が全て揃っていた。あまりにあっけなく情報が手に入ってしまったので、これが偽の情報ではないかと疑ったが、今のところ行こうとした場所、施設には地図の案内通りに進むことが出来ている。ご丁寧に最後のページの末尾に「帰還の際にはお近くのスタッフに返却をお願いします」と書かれているところからこの地図は信頼していいのだろう。

 今まで入院してきた患者はどれだけ素直なのよ。アイヴィーはなぜモンストピアの情報が外部に漏れないのかはなはだ疑問だったが、もしかしたら島を出る際に「島について詳細を語るな」と一筆書かされるかもしれないし、人間よりも患者に需要がある場所なんて怪人病がタブー視されている外の世界ではあまり話題にならないのだろうと適当に納得する事にした。とにかく、今はこの地図を頭に入れて、今日中にターゲットを観察するのが彼女の目標だった。

「ターゲットはモンストピアでは『女王』と呼ばれる存在だ。は他にも『姫』や『ミストレス』単純に『彼女』などと呼ばれているそうだがまあ、女王で通じるだろう。それだけあの空間で尊敬されている存在だと思ってもらえればいい」

 頭の中でノヴァの言葉を反芻する。首元はワイシャツのカラーとジャケットで二重に隠せている。幸い空調がかなり効いているので服装に疑問を持たれる心配はない。もしかしたら相手がキメラタイプの事を知らないかもしれないが、自分が人工怪人である証拠をぶら下げて目立つ真似はしたくない。慎重になるに越したことは無いのだ。

「君の任務はタケル・ホンゴウを治療させる傍ら女王の細胞のサンプルを回収することだ。最悪細胞のサンプルさえ回収できればそれでいい。それ以外の事は自由に行動するといい。なにしろ、君の最後の任務だ。余裕は欲しいだろう」

 余裕なんていらない。とっととケリをつけて妹と暮らす。アイヴィーはこの日初めて自分の嗅覚が過敏である事に感謝した。怪人病に関わる施設、その中枢には拭いきれない患部の甘い匂いが染みついているものだ。機関でも何度消毒、換気をしてもその匂いが消えることは無かった。とりあえず介助師の端くれとして施設を見学するフリをしつつ、怪しげな匂いが密集している場所をしらみつぶしにすれば……この規模の施設なら一週間でターゲットに接近することは可能だと彼女は結論付けた。

「まったく、あの局長はこういう所は見る目があると言うか……」

 ノヴァの手のひらで転がされる感覚は気分が悪いがこれも仕事と割り切る。これも妹のためとアイヴィーはこの島に到着して初めての仕事にとりかかった。

「へえ……凄いわね」

 アイヴィーはかじる程度にしか知識を持っていないが、それでもモンストピアが怪人病の治療に関して外の世界と比べてはるかに先を行っていると唸らざるを得なかった。患者の患部に合わせた独特のリハビリ器具に、最新の抑制剤製造施設、食堂からは大食い選手も卒倒するような患者に合わせたカロリーを表示したメニューが揃っている。モンストピア怪人の理想郷という名前は伊達じゃないようだ。

「そんなに熱心に見つめておるなんて、勉強熱心じゃのう」

「‼」

 呼びかけに、アイヴィーは振り向く。自分がよほどに夢中になってしまったのか、それともの気配が薄かったのか。どちらにしろ後ろを取られた事に彼女は驚いた。

「そんなにビビらんでも……別にモンストピアではアンタみたいな勉強熱心な同業者を拒むような真似はせんよ」

 同業者という言葉を聞いて彼女は自身の正体がばれたのかと身を固めるが、考えてみればこの島にいる人間は患者以外では研究者や正式な介助師の割合が多いはずだ。であれば、彼がアイヴィーをそう呼ぶのもこの島では当たり前の感覚なのだろう。

「ええ、介助師として、この施設がどんなものか興味があって。見れば見る程凄いですね。これだけの施設と技術があれば、救えない患者はいないんじゃないかって、そう思ってしまいます」

「そうじゃろう、ここは怪人病研究の最先端、技術の粋が集める所じゃからな。病院っていうのはそもそも最新の設備が集まりやすい場所であるからして、病気じゃ無かったらいくらでも目を輝かせて社会科見学できる凄い場所じゃ。ワッハッハッハ!」

「ははは……」

 アイヴィーは目の前のに対してどのように接したらいいのか。考えあぐねていた。

 そう、目の前の彼は口調に似合わず少年の姿をしている。年齢はタケルよりも高く、アイヴィーよりも低い十四歳程度の成長期で元気真っ盛りと言った印象だ。東洋系の黒髪黒目、小麦色にこんがりと日焼けした肌はたくましく成長したガキ大将の印象を与える。病院の中だと言うのに大声で笑う様子がやけに似合う。生命力が迸る力に満ち満ちた表情と体つきは訓練で体を作っている彼女も惚れ惚れするものだった。

 しかし、アイヴィーの瞳は彼の目元、目じりに細かく哀愁漂う皺が刻まれているのを見逃さなかった。それは彼女の手術痕同様意識しなければ気にならない程度の物ではある。おそらく多くの人が彼の太陽のような笑顔で細かい皺になんか気づかないだろう。だが彼女はそれが老成した彼の口調に妙に似合うと感じ、何より彼の全身からは患者、いや、怪人レベルの甘い匂い――小豆菓子のような渋く、落ち着いた甘い匂い――を嗅ぎ取っていた。

「あの……失礼ですけど……あなたって……」

「ああ、ワシ? その通り、ワシは患者。いや、最近の定義ではフェーズ4、怪人だったか。うんうん、怪人じゃよ。いやーワシの匂いは長い時間で大分抜けたと思ったけどそうでもないな。お嬢ちゃん鼻が利くねぇ」

「怪人? え、でも……」

 だとしたらおかしい。少年の外見は異形の怪人への変異が見られない。フェーズ3以降の怪人が匂いを発するのは肉体が変異してからだ。それなのに目の前の彼からは異形の部位が見られない。どこからどう見ても施設の制服をラフに着こなす健全な青少年にしか見えない。

「ふっふっふ。若者よ、自分が知っている常識が全てだと思うと足元を掬われるぞ。ここは最先端の医療施設、モンストピアじゃ。ワシ程度で驚かれてはこの先心臓がいくつあっても足りないって」

 落ち着けアイヴィー。今まで見てきた設備だって機関の外の世界と比べたら同じ程度目を丸くするものだったじゃないか。私はあくまで捜査員。動揺するのも節度を持って。彼の言う通り、多分これからも驚かされる目に遭うはずだ。ならば――

「それは、怪人病に携わる者として楽しみです。担当する患者が最先端の技術で回復できるようになれば幸いですから。私は介助師のノインと言いますあなたは」

 そう言ってアイヴィーは少年に手を差し出した。それに彼は再び磊落に笑いながら応える。

「ワシの名前はクロウ。この島では顔が通っていてな。ちょうど暇な時間じゃし、知りたいことなら何でも聞いてくれ。勉強熱心な子供にはなんでも教えてやるぞ!」

 しっかりとした手がアイヴィーを握る。見た目以上にがっしりとした感触、クロウの肉体は外観以上に筋肉質のようだ。頼りになる兄がいたとしたら、きっとこのような手なのだろうとアイヴィーは彼の幼い外見とは裏腹な手に感じる力強さを評価した。

「……でしたら、一つだけ聞いてみたいことが……」

 相手が頼られるのが好きだと言うならば……それを利用しない手は無い。彼女は口下手な生徒が教師に対して口ごもってしまうように態度を演出する。

「おうどうした、なんでも答えるぞ。言ってみい」

「あくまで噂で、クライアントのご両親のそのまたお知り合いのまた聞きなんですけど……なんだかこの島には『女神』とか『王女』とか呼ばれる不思議な人がいらっしゃるって。まさかこの科学全盛の時代にそんなありがたい人がいるだなんて凄い噂だなぁって思ったんですけど。本当にいるならクライアントの治療が上手くいくようにその人にお祈りしておきたいな、だなんて……」

 言葉尻を笑って濁しながら、要件を切り込む。アイヴィーがターゲットの事を噂話程度にしか知らないと言うのは本当だ。ノヴァは彼女にモンストピアに関する情報を意図的に偏らせて伝えている。まるで知りすぎていると足元を掬われると言わんばかりに機密に近い情報に関して彼女はほとんど知らない。全ては妹のためと割り切っているが、彼女は本当に「女王」なる存在がいるのか半信半疑だ。地図には玉座や専用の部屋など見当たらなかったし、「女王」というコードネームの研究素材である可能性の方がよほど高いと思っている。ちょうどアイヴィー自身のような。

「ああ女王ね。良いぞ、あいつもそろそろ起きる時間でちょうど暇しているだろうし。今すぐにでも行くか」

「え? ああ、お願いします」

 まるで近所に住み着いた猫を見に散歩にでも出かける勢いでクロウが先導を始める。これが果たして機密事項を取り扱う態度だろうか。あまりにも気楽でアイヴィーは自分が演技をした事を逆に恥ずかしく思ってしまった。

 クロウの先導の下二人は順調に道を進んでゆく。熱心に見学するフリをして逃走経路の確保や戦闘状況の確認など地図だけでは分からない施設の詳細を組み立て一定のペースで歩き続けるアイヴィーに対し、先を行くクロウは走り、早歩きをし、アイヴィーが来るまで間隔が開けば柔軟運動をするなど本当に散歩でもするペースで二人は進む。途中で患者たちとすれ違うも、施設の廊下の幅は広く多少激しく動いてもぶつかることが無い。加えて扉や障壁が極力配置されていない構造で室内であるという感覚が無い。まるでストリートを歩いているような、本当に外で散歩している気分で歩みが進む。敵地での任務中であると言うのにアイヴィーははしゃぐクロウを見て微笑むなどリラックスした気分でいる事が出来た。

 そんなも終わりを告げる。二人はとうとう扉のついた研究室風の部屋の前に到着した。

「彼女なら寝ている時は基本的にここにいるぞ」

 それはアイヴィーの記憶に間違いが無ければ第二十三研究室。ほとんど倉庫に近いような区画に存在する研究室でとても最重要機密が置かれているような場所には見えない。「女神」という通称の頭のヤバい人間が収容されているのではないかと疑ってしまうほど人気のない場所だった。

 騙されたか。こんなことなら一番有名な通称である「女王」と言葉を濁さずにいうべきだったかと後悔したが――

「じゃあ開けるぞー」

「……‼」

 クロウが扉を開けた瞬間後悔は手ごたえへと変化する。入り口付近であるにも関わらず濃厚な甘い香りが彼女の嗅覚を襲う。匂いの規模はスラムと同じだが、あちらの匂いは集団の総体が放つ醜悪なフレーバーなのに対し、扉の奥から香るのは混じりけの無いたった一人が発するものだ。匂いの質は怪人の能力の質を示す。これがターゲットの匂いと言うのであれば、機密と称するのに充分。

「……」

 部屋へ一歩踏み込む。歩みを進める度に匂いのプレッシャーと目的到達までの武者震いがアイヴィーの足を襲う。まさかこんなに早くターゲットにたどり着けるとは。このまま任務を達成してバックアップとコンタクトを取れば自分と妹は晴れて自由の身。緊張と未来への期待とで彼女の頬が痙攣を始める。

「お前大丈夫か? 鼻が利くんじゃ辛いか? いったん部屋を出て体調整えるか?」

「大丈夫です。むしろ……体を動かしていた方が気がまぎれますから」

 ポケットをまさぐる。緊急時のために与えられたインジェクターは三本。この島では外のように機関からの十分な支援の下戦うことが出来ない。場合によっては目の前の少年にターゲットも一撃で排除しなければならない。その覚悟を固めつつ前へ、前へと歩みを進める。

「彼女はこの中にいる」

「これは……」

 ゴチャゴチャと雑多に荷物が詰まれた研究室の中、二人の前にいきなり開かれた場所が現れる。その中央には巨大なガラス製の円筒のような物体が存在し、アイヴィーはそれに釘付けになった。

 内部はアイヴィーが住まうアパートのスペースの総合よりもはるかに広く、病院の無機質な備品と対照的にビクトリア朝時代の貴族が使うような豪奢な家具が一そろい用意されている。この空間だけどこかしらの古城をくり抜いて移植したかのような異様な内装だった。そして驚くべき事に、円筒には扉のようなものが一つも存在していない、表面は凹凸一つ無い滑らかな物で彼女に蓋の無いボトルシップを連想させた。部屋と言うよりも一つの立体作品のようなそこはどのように作られたのか想像が全く働かない。

 だが、空間の中央に配置された寝台付きのベッドには小さな少女の姿がある。アイヴィーの鼻は彼女こそ匂いの元だと嗅ぎ取る。あの部屋が何だろうが関係ない、ターゲットとの遭遇さえできれば……いやでも侵入口が無い場所にどうやって入り込むか……。

「じゃあ、あとは若い者同士ごゆっくり」

 そう言ってクロウはいきなり去り始める。

「え、ちょっと、アレ、どうやって中に入るんですか⁉」

「ああ大丈夫。姫さんがその気になれば一瞬で会えるから」

 ワシそろそろ仕事の時間だから。そう言い残してクロウは去っていった。ジョギングの姿勢で去る彼に「病院の廊下を走るな」とアイヴィーは一言言ってやりたい気分だったが、いや、犯行現場を見られないだけ好都合と言うべきか。しかし、未知の構造物に不安になっているのも確かであり、せめてもう少しこのドールハウスのような空間について聞いておけばよかったと後悔する彼女だった。

「まあ、監視カメラとか無いようだし……手早く済ませるに越したことは無い、か」

 アイヴィーは一歩ずつ確かな足取りで円柱に近づく。実際に触れてみて表面を一周してもやはり隙間の類は一切無い。この世に完璧な物体が存在するとしたらこの円筒なのではと思うほど惚れ惚れする。

 厚みは十センチ程度。これなら籠手の一撃で粉砕できるか? いや雑に破壊すれば足が付く。今日のところはひとまず切り上げてバックアップと打開策を考えるのが一番いいな。アイヴィーは一度状況から離脱する事を選択する。この状況に対して彼女は自身が全くの無力だと悟ったからだ。おそらく今まで誰も戻って来なかったのは、この構造物に対して誰もが無茶な事をしたからではないだろうか。焦った結果犯行と正体がバレ、処分される。自分には妹の命がかかっている。下手に動くことは出来ない。

 最後にターゲットの顔を覚えておこうとベッドが見える良い角度を探していた時だった。

「…………?」

「あっ……」

 薄いレースを隔てて、アイヴィーは目が合ったと思った。その次の瞬間、彼女の前にいきなりターゲットの少女が現れた。

「‼」

 円筒の中、ベッドは既にもぬけの殻。アイヴィーはとっさに彼女が瞬間移動したのだと悟る。しかし、クロウ同様目の前の彼女が変身した様子は無く、また彼と同じように変異前だと言うのに患部の匂いを放っている。

 背丈はタケルよりも少し高い程度と低く、全身をホイップクリームであしらったような大ボリュームのフリルをふんだんにあしらったロリータファッション服に身を包んでいる。はちみつを溶かしたような黄金の髪の毛は後ろは腰よりも下に、前は目元まで伸びていて顔がよく見えない。しかしその隙間からチラチラと飴玉のような大きな緑色の瞳が覗き、素肌は上白糖のように不純物を感じさせない白。

 全身を甘味で作ったような少女の急接近は任務を遂行する絶好のチャンスだったが、アイヴィーは動けない。今までに嗅いだことの無い、あまりに強烈な匂いとそこから連想される少女の能力の質に指一本動かせないでいた。蛇に睨まれた蛙とはこのような状況を指すのではないだろうか。こんな化け物……自分一人じゃ勝てない。彼女の頭には今までの人生が走馬灯として流れていた。

 何が最後のミッションよ。これじゃあ私の人生の最期じゃない。最後に出てきたのは上司であるノヴァだった。なぜ自分の人生の最期に妹が現れないのか、アイヴィーは不満に思ったがこればかりはどうしようもない。ある意味彼に殺されるようなものだ。この任務は鼻が利く自分では明らかに不利だ。

「…………?」

 立ちすくむアイヴィーを見て少女は可愛らしく首を傾げる。女王と呼ばれ、モンストピアの人々から尊敬を受けているであろう彼女のしぐさは見た目通り小さな少女そのもので、外見だけではなぜ厳ついあだ名で呼ばれているのか見当がつかないだろう。

 しかし、キメラタイプとして様々な怪人と戦って来たアイヴィーだからこそ分かる。この匂いは今まで嗅いできたどの怪人よりも、どのフェーズ4よりも濃い。今すぐ変身して衝撃波を放ってもその匂いを取り払うことは出来ないと。

「…………、!」

「……なっ!」

 圧倒されてしまったため、アイヴィーは「女王」の動きを止める事が出来なかった。彼女は何を思ったのかいきなりアイヴィーの胸へ両手を伸ばしそのふくらみに触れる。同性相手に羞恥心を覚えるアイヴィーでは無かったが――

「‼」

 女王の砂糖細工のような繊細な手、それはジャケット越しにアイヴィーの体を捕えるといきなり服ごと彼女の中へのである。異物が体内に差し込まれたような、そこに一切の違和感は無く、アイヴィーは目の前で起きている現象に目を丸くする。女王の手は胸部を中心に両手で体をかき混ぜるように動かしている。それなのに痛みもなく、彼女の腕がますます自分の肉体に沈みこんでいく様子は恐怖を通り越してアイヴィーの闘争本能を刺激した。

「やめなさい!」

 訓練の成果か、アイヴィーの無意識が右腕を動かし女王を払おうとする。

「…………!」

 それに反応して女王は後ろへ飛びのく。彼女の両腕は音もたてずにアイヴィーの胸部から抜け、それに対しアイヴィーはまたも何も感じなかった。先ほどの行為なんて存在しなかったかのようにそこには何の違和感も無い。

「……あなた、私に一体何を……」

「…………」

 女王はアイヴィーを一瞥すると、今度は円筒に向かって真っすぐ進み、それを通過した。それは障害物では無いと言わんばかりに彼女はスルリと向こう側へ行ってしまったのである。アイヴィーはこの数分間の間に何が起きたのか、頭の中は数々の驚愕で埋め尽くされていたが――

 何で、何でなのよ。アイヴィーはふてくされたようにベッドに飛び込み、枕に顔をうずめる女王のを反芻する。

 彼女が右腕で払ったその一瞬、女王の前髪がめくれその顔が露わになった。それは間違いない、アイヴィーが見間違うはずもない唯一の顔。女王の顔は彼女の妹・だった。

「ねえちょっと! あなたは一体何なのよ! 何で、何で妹と同じ顔をしているのよ!」

 任務や人目を気にせずにアイヴィーは円筒を何度も叩く。しかし、厚みに遮られているのか女王がきくまいとしているのか彼女の声は虚しく研究室の広大な空間に吸い込まれる。

「……」

 振り払ったのが悪かったのか、いや、人の体にいきなり入り込んだら怒られるに決まっている。いやいや、人の体にいきなり入り込むなんて気軽に出来る行為か? とにかくアイヴィーの頭はこの状況に破裂寸前で、女王もまたこちらに振り返る様子が無い。

「本当……何なのよ……」

 アイヴィーは今度こそ研究室を出た。ともかく、ターゲットは自分の手に余る。それが分かっただけ良い。時間はあと六日あるのだ。対策はゆっくり考えよう。そう強がって彼女は廊下へ出た。

「……」

 その後、彼女は自分がどのように一日を過ごしたのかハッキリと覚えていない。時間が来ればタケルを引き取り、彼と共に部屋で食事をし、就寝時間ギリギリまで備え付けの大画面で特撮DVDを鑑賞した。

 しかし彼との会話を何一つ覚えていないし、食事の味も、高画質大音量の特撮も彼女の心を揺さぶることは無かった。

「お姉さんお休み~」

 検査の疲れが一気に出たのかタケルはベッドに飛び込むなりいきなり寝息を立て始める。さすがにうつぶせで角を枕に突き刺したのは見過ごすことが出来なかったのでアイヴィーは角に注意しながら慎重に仰向けに返すと、タケルが風を引かないようにしっかりと掛け布団をかけてやる。いつまでも上の空ではいけない。今できる最低限、彼の介助師としての仕事だけはしなければ。ようやく彼女の意識が現実へ戻って来た。

 とは言えモンストピアでも就寝時間はどの部屋も一斉に電気が落ち、賑やかだった施設も静かになるようだ。時間的には産業スパイが働き始める恰好の時間だが、今のアイヴィーは休息を必要としていた。彼女にとって女王とのファーストコンタクトはそれだけ衝撃的だったのである。

 取りあえず一日の疲れを取るためにシャワーを浴びる。浴室は豪華な物でシャワーだけでなく浴槽も付いている。そう言えばタケルが湯を張っていたなと、浴槽に目を向けた。たまにはこういうのもアリだろうと水面へ足を伸ばす。

「……は?」

 その時だった。アイヴィーは自分の頭がまだぼやけているのではないかともう一度頭から冷水のシャワーを浴びる。湯気が抜け、思考がクリアになる。そしてもう一度水面を覗き込む。

「……ちょ、ちょ!」

 自分が見たものが信じられず、一度浴室を出て洗面所の鏡を覗き込む。自分自身の目でも肉体を舐めるようにしらみつぶしに確認して、その客観性を裏付けてゆく。

「……そりゃそうよね。あんな、体に腕を突っ込まれて……何の影響もないはずが無い……!」

 赤い首輪の下、それはアイヴィーにとって自身が怪人である事を示す細かな手術痕があった。現代の技術でこれ以上ないくらい見事な細かいそれはアイヴィーのような怪人の目を持ってしか視認することが出来ない。だからこそ、彼女は見間違いではないかと何度も視覚を調整する。だが何度やっても結果は変わらない。意識がクリアになると同時に、浴室の熱気が抜けるような寒気が背中を襲う。

 手術痕はアイヴィーの胸部を中心にその周辺のものがまとめて消えていた。まるであの手術、あの事故が無かったかのようにそこには一点の疵のない珠のような素肌が広がっている。

「ほんと、もう、何なのよ……」

 これが普通の女子であれば傷が無くなって良かったとはしゃぐ所なのだろうか。しかし工作員であるアイヴィーにとって自分の身に起きる変化は外見上プラスに見えても、到底安心できるものでは無い。

 明日は是が非でもバックアップと合流しなければ。一通り体は洗ったものの、リラックス出来るはずも無く、ベッドへ横になっても目は冴えて仕方がない。自分が入り込んだ先が理想郷などでは無く化け物が闊歩する魔窟である事を脳に刻むと首輪のダイヤルを捻り、薬物を投与して強制的に眠りにつく。明日こそはサンプルを回収し、妹を救う。そう決意して彼女の意識は眠りの中へ突入していった。


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