第三章 加賀攻略戦

藤堂高虎、兄を失う

 波乱に波乱を重ねた元亀元(1570)年が終わり、翌元亀二(1571)年は浅井も徳川も膨れ上がった領国の政治に集中することを強いられたままあっという間に過ぎ去り、そして元亀三(1572)年既に開けて久しい二月。




 その一年の間に織田は滝川一益と柴田勝家の手により伊賀の国人を押しつぶし、大和の松永久秀を屈服させ、さらに丹波にも攻撃をかけ始めている。伊勢全土の攻略も時間の問題であり、その勢力圏をますます広げていた。










 そして藤堂高虎の石高は、五百石になっていた。


 最初は二百石だったのだが、長秀や信長からの書状や越前の戦いで共にした兵からの後押しもあり、昨年末に五百石になったのである。






 小谷城の麓には藤堂家の屋敷が置かれ、そこに父母兄弟全てがかき集められている。

 かつて阿閉家のそれであった屋敷——―今は北越前で六万石の禄高となった浅井家筆頭家老と言うべき存在のいた屋敷で、高虎はいつものように朝食を取っていた。


「お前ももうそろそろ嫁を貰え、それが一番大事だろうが」


 父親の虎高からそう言われた高虎は、気まずそうに菜っ葉を口に運んだ。


 虎高は高虎の活躍もあり一応出世してはいるが石高で言えば息子の三分の一以下であり、ほぼ当主としての威厳は失われていた。

 それでも言えることは言わなければいけないとばかりに箸を動かす父親の姿に、高虎は自分の立場の複雑さを思った。


 高虎はそれこそ日の出の勢いを持つ出世頭であり、その地位目当てに適当な娘を押し付けようとする人間は山といるだろう。一方で成り上がり者として自分を軽んずる存在も多く、下手に嫁を取ればそれこそ藤堂家が危ないどころか浅井家分断の種となりかねない。


「逆に難しいのです、こればかりはお館様にご相談してみねば」

「お前は一年ほどお殿様にくっついていたのだろう、その際に好いた女人とかできなかったのか?相談もされなかったのか?」

「それがてんでありませんでして」

「まったく、刀を振るのもいいが自前の棒も振れ」

「父上」


 父親の卑猥な物言いに高虎は色を為そうとするが、母親まで一緒に笑う物だから所在なさげに飯を口に運ぶしかなくなってしまった。




 確かに数えで十七歳と言えば、いいかげん色を覚えてしかるべき年でもある。長政とて最初に六角から妻を押し付けられた時には十五であり、早くはあるが特別でもない。お市と婚姻した時には十九だったが、少なくとも十七の時にすでに女を覚えていた事だけは間違いない。


 だと言うのに高虎は、まったくその手の経験がない。文字通りの童貞であり、自慰すらまともにした事がない。


 その性的欲求を代わりに武勇やそれを磨く方向に使っている訳でもあるまいが、夜中に眠れない時などは一晩中でも刀を振っていた。そうして汗をかいてさわやかに眠り、気持ち良く目を覚ます事ができるので自分でも気に入っていたほどだ。


「まったく、また婿養子による相続など御免なのだからな。お前らがそんな調子ではわしがもう一人男を作らなくてはならなくなるではないか」

「別にどのような女性であろうが私は構いませんからね、今の高虎相応の身分であれば。ああ言っておきますけどあなたではなく高虎の方が今や偉いんですからね」

「本当…………この調子では先が思いやられるわ。わしの欲望を少し分けてやりたいぐらいだ。お前もお殿様を尊敬しているのであればあれぐらい励んで見せよ」







 虎高の期待は、高虎とて痛いほどわかっている。




 自身の独断専行により勝ち得た長政側近の地位と、この屋敷。




 それがあの悲劇の一因であったのは間違いない。




※※※※※※※※※




 越前での戦に敗れ、遠江でもさほどの戦果を上げられなかった柴田勝家は、信長に戦場を求めた。


 その柴田勝家の期待に応えるように、信長は伊賀と言う戦場を与えた。その勝家のために、浅井家はまた兵を送り込んでいた。いくら内政に専念とか言った所で、北近江はそれなりに平和であり、動かせる兵はちゃんといた。


 この時阿閉貞征が越前で六万石、磯野員昌が三万石を与えられたのに対し清綱の石高は一万四千石であり、功績を求めた清綱を大将にした二千の兵たちは、昨年六月滝川一益、柴田勝家と共に伊賀へ侵入。




 その清綱の配下として志願したのが、高虎の兄の藤堂高則だった。




 伊勢がほぼ手空きになった一益と名誉回復を狙う勝家の武勇はすさまじく当初こそ織田が連勝していたが、逆にこれにより分断状態であった伊賀の国人が織田と言う大敵を前にして団結。

 奇襲攻撃や落とし穴などにより、織田の侵攻を食い止めるようになり始めた。


「どうもここ数日進撃が止まりがちですが、柴田様はどのようなお考えで」

「儀太夫(一益)を通じて懐柔させていたはずの国人たちはどうした!」

「連絡がまるで付かぬ」

「付かぬのならば好都合ではないか、ただでさえ少ない戦力を潰し合っているのだからな」


 伊賀の国人の数は二千数百でしかない事はわかっていた。勝家と一益の軍勢の合計が一万六千であり、清綱軍も加えれば七分の一以下である。


「とは言えあまり消耗戦は好ましくないと」

「消耗戦になるのであればそっちのが都合がいいわ、彼奴等はいきなり出て来てあっさり逃げ込む。それを追えばこちらが痛い目を見る」

「敵にも本拠地はあるのでしょう」

「それをつかめれば苦労はせん」


 数十単位はともかく、数百や千単位の人間が籠れる場所は確実にある。そこを突けば敵は一挙に崩れるはずだ。だがその場所がわからない。


「それでわしの手勢と赤尾殿の手勢でその本拠を探らせたい、近付けばさすがに必死に反応して来るだろうからな」

「わしは後方に控えていろと言う事か」

「とどめを刺すのはお主の役目と言う事だ」

「ありがたく受け取っておこう」




 勝家の提案により小さな単位の部隊を多数作り囮となる事が決められ、それと共に滝川勢が後方を守る事が決まった。



 そして高則もまた、小部隊の隊長に命じられた。



 高則はもちろん、高虎の活躍をよく理解している。生まれ故郷の村にしがみついている間に、弟は二百石取り。自分の数倍の存在になっている。


「いいかあ、我々の役目は敵と接触する事だ!その上で敵をくぎ付けにし、できれば足止めをさせるのだ!足止め役と報告役はもう分かっているだろう、遭遇し次第それぞれの行動を取るのだ!」



 自分を含め十五人の部隊を十対五に分け、入った事のない山林を一歩一歩目を凝らしながら歩く。清綱の配下には高虎と共に戦った者はほとんどいなかったが、それでもあの「天魔の子」の兄だなと思わせる程度には高則は武者だった。



 と言うか、平地の多い尾張生まれ尾張育ちの織田軍と比べてもその足取りはたくましく、最初は二千と甘く見ていた一益もすぐその見識を改めたほどだった。




 やがて、高則率いる部隊に強烈な殺気が襲い掛かった。それと共に高則は刀を抜き、飛んできた矢を弾き返した。



「見つけた!さあ伝えに行って来い!」


 出て来た五十名ほどの国人を見るや、高則は腹の底から声を出した。


 奇襲のつもりだったところに対する意気揚々とした声。その上に隊長がいきなり部下を引かせにかかる物だから、国人たちの中に焦りが生じた。

 高則にしてみれば、まさに格好の獲物だった。ひるむ敵を討ち、数を稼ぎそして大将を取れれば最高である。その誘惑が、高則の目を曇らせながら輝かせた。




 高則は刀を振り、一人また一人と敵を死体に変える。気が付けば一人で十人を斬り、他の兵士たちも一人も殺していない者はいなくなった。


「隊長、これでは釘付けどころか」

「何を言う、こうしていればさらに敵は来る、ほら見ろ!」


 高則の言う通り、さらに伊賀勢が飛び込んで来た。今度は先ほどのおよそ倍。


 高則の血はたぎるばかりだった。兵力の逐次投入は愚策、それは自分でも知っている兵法の初歩である。たかが自分程度にこだわっている間にどんどん数を削られて行くのだと思うと、高則は楽しくて仕方がなかった。


「さあ来い……」



 高則の刀が舞い、国人たちを斬る。だが今度は敵にひるみがなかったせいか打撃をもらうようになってしまい、仲間たちもまた減って行く。



 それでも高則は後退など考えることなく刀を振るい、死体を作らんとする。わずか千名で加賀の坊主を討ちとった弟を越える事を思い、痛みを感じる事もなく刀を振る。




 だが高則とて、しょせんは一人の人間に過ぎない。二十五人目を斬ったあたりから腕が重くなり、太刀筋が遅くなった。



 その隙を付かれて胸に矢を撃たれ、そのまま前のめりに倒れ込んでしまった。



 満身創痍となりながら体を起こそうとする高則の背中に刀を刺し、次に首を叩き落とそうとした所で、槍の穂先が男の喉をえぐった。



「この先が本拠地だな!」



 織田の旗を掲げた男により、残っていた伊賀の者たちは一揆に追い詰められていく。ただでさえ高則に手こずっていた所に到来したさらなる援軍になすすべもなく崩れ出し、四散する事もできないまま固まって逃げてしまった。



 人間、追い詰められた時にはどうしても親しい者に頼りたくなる。

 馬鹿何故来たのだと言う文句が耳に届く事もないまま、高則を討った男たちは本拠地へと逃げ込んでしまった。


 真っ正面から衝突すれば数が違い過ぎる。追跡した前田利家と言う男の率いる部隊だけで千数百おり、その上にいよいよ見つけたと言う闘志もあった。


 練度はともかく士気も装備も劣っていた軍勢にこれを食い止めるのは難しく、五百近くいた兵はわずか十分で壊滅し、その上に柴田軍の本隊がやって来た物だからひとりも逃げる事は出来なかった。


 それからはまったくあっという間の出来事であり、戦力を失い過ぎた国人たちは本当に四分五裂し、ある者は大和から本願寺へと逃げ延び、ある者は織田に降伏し、残った者は織田に降伏した者に密告されて討ち取られた。




 高則の死からわずか五日間で、伊賀は平定されたのである。







 藤堂高則は、近江から遠く離れた伊賀の地に散ったのだ。







 それにより清綱や勝家が伊賀の国人たちを狩り尽くす事に成功し、伊賀全土を織田の領国にし、赤尾家に二千石の加増をもたらし、藤堂家にも相当な給金が行われたが、藤堂高則と言う人間が戻って来る事はもう二度とない。


「親父殿……」

「戦場と言うのはこういう物だ」


 勝家どころか清綱よりも辛そうな顔をしながら、前田利家は高則の亡骸を見下ろす。



 勇猛果敢な戦いぶりで戦果を上げた弟に追い付くべく、この故郷から遠く離れた地にて武勇を振るった。



 弟とまったく同じ事をして、同じ結果を求めた。

 相手が戦から離れていた朝倉や、元より戦をする気のなかった坊主であれば、あるいはそうなったかもしれない。だが今回の相手は本気の本気で戦いを挑む伊賀の国人であり、三つや四つの負傷や亡骸でひるむ人間たちではなかった。


「藤堂高則殿がこの戦の功績第一である事、この前田犬千代が見届けました。赤尾殿、備前守様にその旨お知らせくださいませ」



 この戦いでも十名の兵を使い潰して六十名の亡骸を得るほどには勇猛だった男が、これ以上の戦果を上げる事はもうないのだ。




※※※※※※※※※




 まだ女も知らない内に、二十三歳でこの世を去った兄。

 あるいは自分が血気に逸っていなければ、平々凡々に藤堂家を継いで過ごしていたかもしれない兄。

 武功により長政から名目的に百五十石の領国を与えられたものの、それをまったく楽しむ事もなかった兄。


(私は一刻も早く嫁を娶らねばならぬことはわかっている。だがどうすれば良い?どのような女性が私に合うと言うのだ?ああ、木下殿や前田殿がうらやましいわ!)




 全く不安定な自分の存在を支えてくれる女性が良い。できればすぐ前までの足軽の時代の暮らしを知って、支えてくれる存在。それでいて、今の五百石と言うそれなりの家の暮らしにも対応できるような女性。


 この一年の間に幾度も長政の側近として織田家の人間と出会い、その存在を知る事になった木下秀吉や前田利家の妻のような女性がいればいい。


 だがそれこそこんな大きな屋敷をもらっておきながら今さらそんな暮らしになじめる人間がいるとは思えないし、いたとしても正妻にはなりにくい。結局は一定以上の家柄からどこかの息女がやって来て、なんとなく恋愛もせずにそのまま婚姻するだけ。もちろん先に述べたような条件の女性を見つけ出して寵愛する事は可能だが、それはそれで正室との間にひびが入る危険性がある。







「少し失礼いたします!」


 そんな夢見がちな自分を振り切るかのように、高虎は今日も庭で刀を振る。


 結局は親か長政が探して来た女性と婚姻する事になるのだろうと思いながら、自分の無謀に付き合わせてしまった兄のためにも生きねばならぬとばかりに、ただただ師匠もいない稽古に終始した。

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