第13話 【パスワード】SFPエッセイ113

 警官を見ると理由もなく緊張してしまう人がいるそうだが、私の場合はドアマンに緊張する。レストランの入り口にせよ、セレブが住む豪邸にせよ、あるいは単に演出として商業施設のエントランスの前に立っているだけでも、ドアマンを見ると緊張する。何もやましいところがあるわけではない。警官を見て緊張する人と同様に、ただ理由もなく緊張するのだ。

 

 いや、強いて言えば「自分は中に通してもらえないだろう」と思ってしまうのかもしれない。過去にそういう目に遭ったのかというと記憶にない。だから体験に基づくわけでもない。にもかかわらず、自分は(それも自分だけ)中に入れてもらえず、あまつさえドアマンに引っ立てられて、逃れようとして暴れてもがっしり押さえ込まれて、尋問を受けたりしてしまうのではないかと、そんなことを考えてしまう。ただでも人と話すのが苦手なのに、そんな目にあったらどんな悲劇が訪れるか想像するだにおぞましい。

 

 同じように、ドレスコードのある店も苦手だ。

 

 もっとも、いまはドレスコードのある店に足を運ぶ機会など滅多にないのだが。そしてお気付きのように、ドレスコードのあるような世界は極めて苦手なので、そんな場所に行かずに済ますことができるなら行かないに越したことはないと思って過ごしている。それでも何年かに一度くらいはそういう機会がやってきて、辞退しても断りきれずにスーツに袖を通し慣れないネクタイをしめることになる。

 

 当然私は緊張する。店に入る何メートルも前から、いや何百メートルも手前から、もっと言うなら家を出かける前に着替えている時から、私は緊張する。きっとドレスコードに引っかかって入れてもらえないに決まっている。そして、違うんです、ただお祝いをしに来たんです、招待されただけなんですと取りすがっても相手にされず、場合によっては怪しいやつだと引きずられてやはり尋問を受けてしまうのではないかと心配になる。

 

 もちろん、そんなことはただの一度もない。

 

 少々ダサいやつだとドアマンに見下されているかもしれないが、いつも、何事もなく中に入れてもらえ、友人にお祝いを言ったり、パーティーをそれなりに楽しんだりもできる。同じような思いをしている人は他にもきっといるのではなかろうか。私ほどひどくなくても、似たような感覚を共有する人はいるだろう。そういう人には、私がここに書いているような気持ちを少しはわかってもらえるのではないかと思う。

 

 しかし、今日ここで申し上げたいのは、そういったお仲間と傷口を舐め合いたいという趣旨ではない。我々とは──もう、あなたのことを同類とみなして話を進めさせていただく──我々とは対照的にドアマンにもドレスコードにも全く動じることのない人種というのがいるという話である。

 

   *

 

 私が修行を終えて、その世界から認められて「巨樹医」の仕事を請け負うようになったのは二十歳そこそこの頃だった。当時はまだインターネットも普及しておらず、いまとは全然事情が違ったが、すでに複数の「巨樹」がネットワークされ始めており、外部から力試し的なハッキングが行われるようになっていた。私の仕事は「巨樹」が破壊されたり、情報が漏洩していないかをチェックし、場合によってはセキュリティを高める手を打つことだった。

 

 仕事はたまにしかなかったが、それでも「大きな寺社」から仕事をいただいて、複数の「ご神木」を天辺から根回りまで見させていただくと、二十歳そこそこの小僧には使い切れないような謝礼をいただくことになる。だからといって特に使うあてもないので、せいぜい近所のカフェバー──いまでもカフェバーという言葉は生き残っているのだろうか──で、常連で知り合った仲間の話に耳を傾けているくらいしかすることもなかった。

 

 パスワード、と私が名前をつけた女性とはその店で出会った。

 

 女性なんてよそよそしい言い方をしたが、キャピキャピした──キャピキャピなんてことばはまだ使われているのだろうか──二十歳になるかならないかの女子大学生だった。初対面の私に向かっていきなり「チャオ!」と挨拶するような女の子だった。誇張しているのではない。ある日、カウンターの私の隣の席に座って、目があうなり「チャオ!」と言ったのだ。

 

 ご近所だからか、いつもそういうファッションなのか、下着みたいな服──「キャミソール」と呼ぶのだと彼女から教わった──や、背中が丸出しになっているような服──「ホルタートップ」と呼ぶのだと彼女が教えてくれた──を着ていて、私はいつも目のやり場に困った。そして彼女は私が目のやり場に困っていることをわかっていて面白がって──それも後に彼女が教えてくれた──からかっていたのだという。

 

 私とは対照的に(人づきあいが苦手で、雑踏にいたってはほとんど恐怖心を覚えるくらいで、仕事の打ち合わせ以外で住んでいる駅近辺から離れることが滅多になかった私とは対照的に)、彼女は極めて活動的だった。流行の店やスポットや話題の展示会やショーなどに片っ端から足を運んでいた。店で飲みながら今日はどこに行った、何を見てきたと話してくれるのだが、あまりにも別世界で何をしゃべっているのかチンプンカンプンだった。大学生活とも縁がなく、それまで同世代の女の子との交流もなかった私にはまぶしくてどう接していいかわからない存在だったのだ。

 

 ところが、何を思ったのか彼女は私を連れ回すようになった。私も仕事のない時なら時間もあるし、上に書いたような事情で金もあったので、誘われるままに彼女について行った。それをデートと呼んでいいのかどうかはわからない。今から思い返しても、彼女と私は付き合っていたと言えるのかどうかすら定かでない。

 

 思いつく限りの遊びをやりつくした若い女が、何も知らない同世代の男に対して、授業料をとって遊び方の指南をしていたと言った方が正しいと思う。それでも、一緒に出かけ、一緒に食べて、一緒に遊び、一緒に寝る相手だったのだから、私にとって彼女は初めての恋人らしき女性だったと思っている。

 

 人物紹介が長くなった。パスワードの話だった。

 

 彼女はどんな怖そうなドアマンの立っている店でも、どんな厳しいドレスコードのある集まりでも、全く臆することがなかった。どう考えてもドアマンは職務を放棄しているとしか思えなかったし、ドレスコードをチェックする人は催眠術にかけられていたとしか思えない。絶対に彼女なんか通しちゃいけないようなかしこまった由緒正しい儀式の場でも、周りには誰一人、彼女のような格好をした人間がいないイベント会場でも、彼女はすいすいと入って行った。そして私においでおいでをして、同じく浮きに浮いた存在のはずの私も潜り込むことに成功してしまうのだった。

 

 そのようにして彼女と私は、出来たばかりのテーマパークの関係者向けオープニングパーティーや、超豪華客船の試乗クルーズや、世界を熱狂させていた来日ミュージシャンの打ち上げ会場や、とにかく普通なら絶対に入れるはずのない場所を無数に体験した。どんなセキュリティシステムも無条件で解錠してしまう万能のパスワード、それが彼女だった。

 

 私はのろけ話をしているだろうか?

 

 そうかもしれない。これはのろけ話と呼ばれても仕方ないだろう。申し訳ない。すぐに終わるからもう少しだけお付き合い願いたい。そう。それらの日々、私は楽しかった。知らない世界を次々に見せられ、初めての知識に触れ、乾いた大地に雨が降るようにぐんぐん吸収した。そして奇妙なことに、そういった体験や知識は「巨樹医」の仕事をする上で非常に大きな力となった。文化的背景や流行、とりわけカルト的な人気を集める事象はハッカー達の思考パターンを推測する上での強力なツールとなったのだ。

 

 そしてある日、彼女は突然姿を消し、もう二度と現れることがなかった(ほらね。すぐに終わったでしょう?)。

 

 もちろん、私は探し回った。事故にでもあったのではないか、記憶を失って戻ってこれないのではないか。「巨樹医」としての自分の能力も駆使した。けれど何もわからなかった。調べるうちに、そもそも彼女は大学生ですらないことがわかった。彼女が通っていたはずの大学ではそんな人はいないと言われた。当時はまだ個人情報の保護がいい加減で名簿も見せてもらったので確かな話だった。彼女の家の大家が把握していた実家は存在しなかった。ここまでくるとさすがに、普通のハタチそこそこの女の子が失踪したのとはわけが違うことがわかる。

 

 彼女が一体何者だったのか、私なりにいろいろ考えた。「巨樹医」としての教育係だったのではないか(私の「巨樹医」としての能力が向上したのでこれは案外正解かもしれない)。なんらかの理由があって私に会いに未来からやってきたのではないか(突飛に聞こえるかもしれないが、私の中ではそう突飛でもない。彼女はしばしば「面白いね、この時代は」と口にしたのだ)。

 

 でも彼女の正体がわかったからと言って何になる? それで私はどうすればいい?

 

 彼女が何者であろうと、私は彼女に振られた。ただそれだけのことだ。彼女が姿を消す前日のことを思い出す。私は「君はまるでパスワードみたいだ」と口にした。そして、ここに書いたような話をした。あくまでも軽い冗談のつもりだった。けれど彼女は笑わず、しばらく黙って、それから「でも最後まで開けなかった鍵もある」言い、怪訝そうな顔つきの私の胸を指差して「ここの鍵よ」と言い、くすりと笑った。

 

 その時、私はよく意味がわからずに返事をすることができなかった。彼女が去って初めて、その時の会話が彼女が姿を消したきっかけではないかと思うようになった。そして、その時の会話を何度も何度も思い出し、自分はどう答えるべきだったのだろうと考えた。当時はまわるわからなかった。でも今この文章を書いていてわかった。自分はこう返事するべきだったのだ。

 

 鍵はあいていたんだよ、とっくの昔に。「チャオ!」の一言がパスワードだったんだよ、と。

 

(「【パスワード】」ordered by 阿久津 東眞 -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・樹木医などとは一切関係ありません。

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