第12話 【引っ越し】SFPエッセイ112

 わたしは引っ越し魔ではない。むしろ引っ越しは嫌いだ。飽き飽きしていると言ってもいい。けれどもいま、わたしは引っ越しをしたくてたまらない。

 

   *

 

 人生で大変なことはいろいろあるが、わたしとしては、引っ越し魔の妻を持つことの大変さを、その筆頭に掲げたい。

 

 結婚する前、彼女は引っ越し魔であることをかけらも示さなかった。岡山県の津山市で生まれ育ち、大学生になって東京に出てくるまでは一度も引っ越したことがなかったという。東京でも最初に住んだ用賀駅の近くのマンションに住み続け、大学の4年間と就職してからの5年間をそこで過ごした。

 

 だからわたしと結婚し、二人で住める家を探して引っ越したのが、彼女にとって人生で2回目の引っ越しだったわけだ。その経歴を見て「この女は引っ越し魔ではないか」と疑う理由がない。どこにもない。気づくわけがない。もっとも、この時点でわたしは「引っ越し魔を妻に持つことの大変さ」など全く知らなかったので、仮に彼女が「わたし、実は引っ越し魔なの」と自己紹介していてもそれで結婚をしなかったわけでもなかろう。そう考えると、その後に続く苦難の人生は、いわば避けようのない必然だったとも言えるのである。

 

 ここまで読んで読者のみなさんは「結婚して数日後に引っ越したんではないか?」と期待したかもしれない。しかし、期待したようなことは起きなかった。最初の6年間、彼女はまだその本性をひた隠しに隠していた。我々は結婚して住み始めた家で1人目の子どもを授かり、2人目が妻のお腹にいるときに「さすがこの家では手狭だ」というので家を探すことになった。この時も、引っ越しを言い出したのはわたしだった。まだ彼女は引っ越し魔の資質の片鱗も見せていない。

 

 一緒に10数軒の家を見て回り、互いの職場への出やすさ、日当たり、駅からの距離、買い物の便利さなどに加え、これまでは考えたことがないような、近所の保育園や幼稚園とその評判、そして小学校への距離やその評判などなど、さまざまなことを考慮し、その上で、さらにマンションがいいのか戸建てがいいのか、分譲を買うべきか賃貸のままでいいか、既製の家を買うのか新たに建てるのか、そしてもちろん間取りやシステムキッチンや食洗機など便利を謳う様々な機能や、ありとあらゆることを検討した。わたしは正直言ってクタクタになってしまった。

 

 しかし、妻は違った。くたびれきったわたしを尻目に、一つ一つの課題を攻略し、複雑に絡み合った因果関係を整理し、そのプロセスをわたしに明快に解説してくれた。疲弊気味のわたしとは対照的に実にいきいきとしており、立ちはだかる難問を次々に撃破していった。わたしは妻の新たな才能に感嘆し、頼もしく思い、全てを妻の判断に委ねることとした。そしてその判断は正しく、我々家族は新たな家に引っ越し、二人目の子どもを授かり、幸せな暮らしが始まった。

 

 かに見えた。

 

 ところが、妻は徐々に元気を失っていった。理由はわからなかった。体調を気遣い、子育てをめぐる悩みかと疑い、ご近所づきあいの問題かと考え、岡山に暮らすご両親のことかと探り、わたしへの不満なら隠さず言ってほしいと言った。結局そのどれでもないことがわかり、わたしは途方にくれた。すると妻が言った。このままここに住んでいると自分はダメになってしまう、と。なぜだ? あんなに頑張って探して、こんなに理想的な条件を満たした家に住んでいるのに。それがいけないのよ。妻は言った。何もかも整い過ぎていて、わたしがいてもいなくてもいい感じがするの。バカを言うな、君が選んだからこんなに素晴らしいんじゃないか、この家が素晴らしいのはまず君のおかげだよ。

 

 どんなに励ましてもダメで、そのうち妻はどんどん具合が悪くなって憔悴していった。げっそりと痩せ衰え、肌の色が青白くがさがさになり、いつ死んでもおかしくないような状態になった。そこでわたしもとうとう折れて、引っ越しをすることに決めた。わかったよ、引っ越しをしよう。翌日から妻は息を吹き返したように元気になり、再び精力的に家探しを始めた。その頃わたしはちょうど事業から手を離せない状態だったので、家探しをほぼ完全に妻に任せていた。そしてまる2ヶ月のリサーチの後、「ほぼ完全だが少し手を入れる必要のある物件」が決まり、私たちは引っ越しをした。

 

 ここからはみなさんの期待に応えることになる。

 

 次の家は1年間もった。その次は3日で出ることになった。家に本当に危険な欠陥が見つかったためだが、いったん元の家に戻り、ただちに事前のリサーチで惜しくも次点だった物件に切り替え、ここが3年、その次は半年、3ヶ月、8ヶ月、2年という調子で、やがて妻は引っ越すと同時に次の家のリサーチを始めるようになっていった。いくらなんでもそれはあんまりだろう、と内心わたしは思っていたが、家探しをしている時の妻があまりに幸せそうなので、つい言い出しかねていた。

 

 そんなわたしも一度だけ怒ったことがある。ある時、わたしが仕事から帰ると家がもぬけの殻になっていて「ここに引っ越しました」というメモが貼られていたのだ。仕事がうまく進まずイライラが募っていたわたしはさすがに怒りを抑えきれず、新しい家に着くなり爆発し、いい加減にしろと怒り狂った。妻は悲しげに黙ってわたしの暴言を聞き、小さな声でごめんなさいと謝り、この家にはケチがついてしまったと言って泣いた。それを聞いてわたしは嫌な予感がした。そしてその予感はあたった。

 

 翌日妻は別な家に引っ越しすることに決めたと宣言し、実行した。

 

 当然のことながら、やがて資金が尽きた。それでも妻の引っ越しは続いた。食べ物もろくに取れず、服を買うこともできず、子どもたちの教育費さえなくなってしまい、生活は崩壊した。そんな厳しい状態だから引っ越しなどできるはずもないのに、妻はそれでも可能な物件を見つけ引っ越しを断行し続けた。当然離婚も考えた。けれどわたしにも、子どもたちにも彼女が必要だった。引っ越しの件を除けば、彼女はすばらしい妻であり、愛情豊かな母だった。妻だけ引っ越しさせて残りの3人は止まるという馬鹿げた計画についても大真面目に検討した。

 

 そんな無茶苦茶な生活がいつまでも続くはずがなかったが、事態が一変した。ある時、わたしの事業がイギリスの企業に信じられないような高額で買収され、さらにわたしには役員として報酬が約束され、突然お金に不自由しない立場に変わってしまったのだ。そしてわたしは妻の引っ越しにふんだんに資金を提供できることとなった。

 

 いま思えば、わたしは家を探している時のいきいきとした妻の姿を見るのが好きだったのだ。かつて、最初の引っ越しの後、元気を失って生彩を欠いて、そのままはかなくなってしまいそうだった妻の姿を思えば、もう二度とあんな風にさせてはならないと思った。クリアすべき難問を次々に撃破していく時の妻の様子を見るのはわたしの人生の大いなる喜びだったと言っても過言ではない。

 

 ふと思いついて、わたしは妻に尋ねてみた。他人のために家を探してあげる気はあるか、と。ある、と妻は答えた。わたしは新しい事業部門を立ち上げ、家探しのコンサルタントとして妻をデビューさせた。妻の見立てた物件は非常に評判が良く、やがて依頼がこなしきれないほどになった。妻は本を出し、講師に招かれるようになり、それでも対応しきれなくなると、自分のような家探しコンサルタントのプロを養成する学校を始めた。海外からも講演を頼まれるようになり、学校はグローバルに展開した。

 

 もちろんその間も我が家も引っ越し続けていたわけだが。その頃にはもう、子どもたちも独立し、妻の引っ越し魔ぶりに付き合わされるのはわたし一人で済むようになっていた。しかし、いかに妻の家探しの様子が好きだとはいえ、やはり引っ越しには苦労が多く、年齢のせいもあって、わたしもいささかくたびれてきていた。そして、ある時、海外出張に向かう妻に向かって、それだけ世界中の人を引っ越しさせているんだから、もうそろそろ我が家の引っ越しはいいんじゃないかと言った。妻は笑って手を振って出かけて行った。それが交わした最後の会話になった。

 

   *

 

 この5年間、わたしが引っ越しをしていないのは、そういうわけだ。みなさんご存知の通り、彼女はシリアのホムスという町で命を落とした。新しく学校をつくることになっていたので、その打ち合わせと現地の視察に行ったのだ。長く続いた内戦の影響で、いったんは街全体が廃墟と化していたホムスは、徐々に復興に向かっており、引っ越しという需要が他の国とは全く違う意味を持って始まっていた。妻はその新たな領域にチャレンジしようとしていた。

 

 妻が泊まったホテルはそうして再建されたものの一つで、その美しさは彼女のFacebookの投稿で見ることができる。その夜ホテルは爆破され妻は死んだ。テロだと報じられたが、イギリスの親会社からの情報によると実際には違ったらしい。テロリストどころか、本当は対テロ戦争を展開する戦闘機による誤爆だったのだ。テロリストがそのホテルにいたというのだが、もし仮にそれが事実だったとして、再建されたホテルを爆撃していい理由になるとは思えない。わたしの大切な、引っ越し魔の妻の命を奪う正当な理由など、世界のどこにもあるはずがない。

 

 わたしは引っ越し魔ではない。むしろ引っ越しは嫌いだ。飽き飽きしていると言ってもいい。けれどもいま、わたしは引っ越しをしたくてたまらない。正確に言うと引っ越しの相談を妻にしたくてたまらない。

 

(「【引っ越し】」ordered by 渡辺 実子-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・シリア騒乱などとは一切関係ありません。

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