第10話 【忘れ物】SFPエッセイ110
最近、実はもうわたしはとっくに死んでいて、それなのに、自分は生きているんだというつもりで過ごしているんじゃないかと考えることがある。大真面目でそう思う。自分が死んだことに気づかずに、てっきり生きている気で過ごしているんじゃないだろうかと。正確には今朝からそう考えている。
わたしにはそういうところがある。いや、今までに同じことがあったわけじゃない(死んでるのに生きていると思い込むことが何度もあるわけがない)。わたしには、本当は違うのに、自分っきりで決め込んでしまうところがある。
いまから振り返ると、小学生の頃はそんなことだらけだった。わたしは運動会というのはオリンピックの一部だと思い込んでいた。大人は忙しいから毎年はできないけれど、わたしたちが毎年やるように、ときどき大人も運動会を開いていて、そこにはわたしの両親や年の離れた兄を含め、大人たちがみんな参加しているのだと思っていた。うまく言えないけれど、運動会からオリンピックまでがずーっと地続きにつながっていると思っていたのだ。
そんな大げさな話でなくてもいい。わたしが通っていた小学校では、「しゅうだんせいそう」と呼ばれる掃除の時間が毎朝あった。ほうきをかければ、毎朝ちゃんとゴミがあるので、わたしは、てっきり誰かがゴミを用意しているのだと思っていた。わたしたちが学校にいない夜の間に、先生たちがゴミをあちこちにまいているのだと。そして「しゅうだんせいそう」は先生が用意したゴミを見つけ出すゲームだと思っていた。中にはちょっと気づかないような隙間に巧妙に隠していあるものもあって全部見つけるのは難しいのだ!
4年生か5年生になる頃に、やっとそうではないらしいと気づいた時の驚きといったら! いまでも覚えている。それからわたしは掃除の時間が楽しくなくなってしまった。かつてわくわくするような探索の時間だった「しゅうだんせいそう」は、味気のない義務としての「集団清掃」に変わってしまった。毎朝の楽しみを奪われてさびしかったし、自分がずっと思い違いをしていたことを知ってみじめだった。
中学生の時にはテレビで見る洋画を日本人の声優が吹き替えているということを初めて知った。それまでわたしはトップクラスの俳優というものは、外国人であっても日本語も達者にしゃべるのだと思い込んでいた。でもまあ、これはアメリカの子ども達からすれば、当たり前の感覚かもしれない。フランスの名優も日本の名優もみんなハリウッド映画で英語を喋っているわけだから。
高校の時には体育の時に下着まで着替えているのは自分だけだと知ってひどく驚いた。わたしはそれまで体育の時間に着替えるというのは何から何まで全部着替えるものだと思い込んでいたのだ。小学生の時など教室でみんなで着替えていたわけだから、まわりを見れば気づきそうなものだが、たぶん全然思いつきもしなかったんだろう。
こんな風に思い出していくといくらでも出てくる。でも最近のはちょっと違う。
このところわたしはついている。そろそろ遠くに行きたいなと思うと、意外なところから声がかかって仕事で出張が入ったりする。開発中の巨大ロボットに乗ってみませんか、なんて笑っちゃうようなお誘いを受けたりする。心機一転したいなと思うと、自分でも知らず知らずのうちに部屋の模様替えを始めていて、何年も手付かずになっていた部屋が見違えるようになったりする。
もっと日常的なことでもそうだ。見上げる空はわたしの大好きな色や光に満ち溢れているし、家族は大切にしあっていて、忠告も愛情に溢れている。友人達はいつもわたしを励ます存在で、わたしの知らないようなためになることをあれこれ教えてくれる。仕事はどれもやっていて意義を感じるものばかりだ。わたしは、わたしの好きなものに取り囲まれ、楽しく毎日を過ごしている。とてもついている。
けれど、それはあまりにも出来すぎていて、どことなく嘘っぽい。
毎日楽しく晴れ晴れとした気持ちで過ごしているのに、心のどこかで嘘っぽいと感じている。でもなぜそう感じるのか、昨日までわからなかった。
昨日の夕方、わたしが住んでいる地域の火山が大噴火をするという予報があった。それはわたしが住んでいる県はもちろん、その周辺の合わせて5県くらいをまるごと──比喩ではなく、文字通り、地表にある全て、人も乗り物も建物も何もかもまるごと──吹き飛ばしてしまうような大噴火の予報だった。もちろん騒然となった。あわてて圏外に脱出しようという人も出てきた。でも実際にはそんなことは起きず、すぐに(といっても1時間以上経っていたが)誤報だとわかった。
それが誤報だと知って安心しながら、わたしの心の中には何か引っかかるものがあった。いつか、どこかに、それが何なのかもわからない忘れ物をしているような感覚だ。
最近、こんな風な、似たようなことがいくつも続く。わたしがとっくに死んていてもおかしくないようなことが、たてつづけに起きている。例えば大勢の乗客が亡くなるような鉄道の大事故が、例えば無差別に人が殺傷される凄惨な通り魔事件が、例えば一度に無数の人々の生命を奪うテロが起きている。そのどれもがわたしと無縁ではなく、自分がそこにいても全く不思議はなかったとわかる。それに巻き込まれずに済んだのは、単なる偶然で、自分はとても幸運だったのだと知らされる。そんなことがずっと続いている。
そのことに気づくとわたしは落ちつかない気持ちになった。今日のあの誤報はなんだったんだろう?と。すっきりしない思いのまま眠りについて、今朝の雷で目を覚まして、それでわたしは何もかも思い出した。
忘れ物は大学二年のときにしていた。
教養学部の終わり頃、わたしは友達4人で連れ立って山に登った。山頂に着いた時に天候が怪しくなった。隠れる場所はほとんどなかった。雷が鳴り始めた。わたしはそのあたりで一番高い木を探した。一番高い木が避雷針になるので、その下が一番安全だとわたしは言った。友達はそれは違う、一番危険だと言った。その時に気がつけばよかったんだ。これも例の思い込みだぞ、と。わたしは自信満々に高い木の下に向かった。
あの日わたしは死んだんだ。あの日から先の人生は、わたしが人生だと思っているものは、ずーっと「自分は死んでいない。わたしは生きている」という思い込みだけで続けてきてしまったんだ。そして、ここに来て、ようやくそれが終わろうとしている。いろいろなものがわたしに教えようとしている。君はもう死んでいるんだよ、そろそろ気付きなさいよ、と。
……なんてね。
自分はもう死んでいるという考えこそが、わたしの新しい思い込みなんだよね、きっと。忘れ物なんて、してないよね、わたし。
(「【忘れ物】」ordered by Tomoyuki Niijima -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・気象庁のキャンセル報などとは一切関係ありません。
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