横たわる大森林04

 クヌギの洞に辿り着いた継実は、誰よりも先にその場に倒れ込んだ。息を荒くして多量の酸素を取り込み、疲労回復のための代謝活動を全身で行う。

 疲れが取れ次第、身体の回復も行う。ハエトリグモに渡した足、野犬に噛まれた跡、ツキノワグマから返された粒子ビーム、アリに噛まれた傷、モモの電撃……都度都度再生させていたが、立て続けの襲撃の所為でどれも完璧には出来ていなかった。今のうちに、少なくとも動きに支障が出ない程度には治さねばなるまい。

 モモとミドリも、継実ほどではないが疲労している。洞の壁に背中を預けて、ぐったりと力を抜いた。ミドリは全力疾走したように息を乱し、モモも深くため息を吐く。


「……正直、嘗めてたわ」


 ぽつりと呟いたモモの言葉が、全てを物語っていた。

 自分達の旅路に太鼓判を押してくれた花中は、旅の安全までは保証していない。

 花中が言っていたのは「フィアちゃんぐらい押し返せないと旅なんて自殺行為でしかない」という、『最低ライン』について語っただけ。フィアを押し返せたのだから、後は気ままな物見遊山で南極まで行ける、なんて一言も言っていない。むしろフィアより強い奴等がわんさかいるという事も教えてくれた。

 だから油断はしていないつもりだったのだが……。そう思ってしまったという事は、つまり見くびっていたのである。この星を埋め尽くす、現在の生態系を。


「どうしましょう……一回草原に戻って、もう一度準備を整えた方が良いのでしょうか」


 一番疲弊の少なかったミドリが、落ち着いた声で提案をしてくる。つまり、おめおめと逃げ帰れという事だ。

 とはいえ実際名案である。プライドなんて自然界ではなんの役にも立たない。危なくなったら住処へと逃げ帰るべきだ。強いて難点を挙げるなら、住処であったクスノキの洞はもう塞がっていて、そのクスノキにこれでもかというほど馬鹿にされるぐらいか。

 アイツに馬鹿にされるのは死ぬほど嫌だと継実は思うが、実際に死ぬのと比べれば遥かにマシだ。だから逃げ帰れるのなら、是非ともそうしたい。継実よりもずっと『合理的』なモモなら尚更であろう。

 けれども継実とモモは、ミドリの提案に対し首を横に振った。


「出来ればそうしたいけどねぇー……」


「出来れば? え、出来ないのですか?」


「出来なくはないけど、今やるのはリスクが大きいし、メリットもあまりない」


 キョトンとしているミドリに、継実が説明した。

 自分達はかなり森の奥へとやってきている。

 それは野犬などに襲われ、走り回った結果だ。勿論単純な距離だけでいえば、高々数キロかそこらの移動。七年前なら兎も角、今の継実達にとっては十秒と掛からずに渡れる距離だ。森の外へと出るのに、さして時間は必要ない。

 問題は、その道中に現れるであろう数々の野生動物。

 例え逃げ帰る途中だとしても、野生動物達は容赦なく襲い掛かってくる。恐らく行きと同じぐらいの激しさで。襲われたら戦わねばならないが、しかし今の継実達は此処までの道中で受けた襲撃により大きく疲弊していた。特に継実は膝から下の足を一本ごっそりと奪われ、噛み付かれたり粒子ビームを撃ち込まれたり、モモの強烈な電撃までも喰らっている。三人の中で最大戦力である継実が、一番戦闘力の低下が著しい。今の継実達では、先の猛攻をもう一度やり過ごすのは厳しいだろう。

 考えなしの強行突破は自殺行為。戻るにしてもまずは体力の回復が必要であり、そのためにすべきなのは十分な食事だ。そして此処で食事が出来るのなら、わざわざ草原へと戻る必要がない。体力の回復をするために、草原に戻ろうという話なのだから。

 ……等と理知的に説明してみたが、要約すれば「逃げるためにどんどん奥に突っ走った結果後戻り出来ないところまで来てしまった」という話で。


「つまり最初にハエトリグモに引っ掛かった私の責任です……ごめんなさい……」


 継実に出来るのは、律儀にお辞儀するぐらいなものだった。尤も文明的な謝罪をしたところで、野性的な問題は何も解決しないが。


「はいはい。そんなくだらない事する暇あるなら、なんか対策考えなさいよ。といってもやる事なんて一つだけだと思うけど」


「……まぁ、そうだけど」


「えっと、此処で狩りをするって事、ですよね? 食べ物を得るために」


「その通り。とはいえ大物は狙わないわ。安全な、昆虫とかの小動物よ」


 モモは話しながら、こっそりと、洞の外を覗き込む。継実も未だ疲労感の拭えない身体を動かしながら、モモの隣で同じく外を見る。

 目視で判別する限り、外に敵となり得るような生物の姿はない。とはいえ大型捕食者達も獲物を求めているのだから、その身と気配を隠している筈だ。強いモノは隠れる必要がないというのは漫画の強敵に出てくるお約束の一つだが、自然界では全くの逆。強い気配を所構わず発していたら、獲物がみんな逃げてしまう。強いモノほど上手く隠れなければ、獲物にありつけなくて飢えで死ぬ。

 森に暮らしている猛獣達は、さぞや隠れるのが上手に違いない。だから念入りに、警戒しなければならないのだ。

 モモが体毛を伸ばしながら周囲を探る。継実も粒子操作能力を応用して索敵。自分達の探る限りでは、危険な生物はいないようだが……これでもまだ足りない。


「ミドリ。周りの様子はどう?」


「あっ、えっと……半径十メートルぐらいには小さな虫しかいません。ただその外の半径百メートル圏内には犬ぐらいの大きさの動物が十数匹群れていたり、シカかイノシシらしき生き物が五匹はいますね」


 ミドリに尋ねると、彼女はより詳細な情報をもたらしてくれた。戦闘力こそ皆無(というほど弱くはないが)だが、自分達より強い生き物がわんさかいる場所では索敵こそが重要。ミドリがいなければ、不安からもう二度と洞の外には出られなかっただろう。

 犬ぐらいの大きさの生物も、十数匹といれば脅威。シカやイノシシは草原にも暮らしていたが、此処にいる個体は草原にいたのとは別物……より過酷な生態系に適応した『種』と考えるべきだ。遭遇 = 戦闘ではないとしても、避けるのが無難である。

 しかし、なら彼等が立ち去るのを待つべきかといえば、それもまた否であろう。何しろ継実達が暮らしていた草原でも、基礎代謝が七年前と比べて何倍にも増大した継実達が食うに困らないぐらい生き物が溢れていたのだ。それこそ冬でも飢えないほどに。

 ならば草原よりもたくさんの植物が生い茂る、即ち有機物食べ物の生産量が多いこの森の生物密度は、草原の比ではあるまい。付近に大きな動物がいなくなるのを待っても、すぐに別の動物がやってくるだろう。

 リスクがゼロになるのを待っていては、こちらの体力が先に尽きてしまう。多少の危険は受け入れるしかない。


「……ミドリは此処に居て、周りの警戒と、あと食べられそうな虫を探して。多分地面の中とかに隠れていると思うから」


「は、はいっ」


「モモは私と一緒に来て。何か、ヤバい生き物が来た時、私だけじゃ追い返せないかもだから」


「OK。護衛は私に任せなさい」


 テキパキと継実が指示を出せば、ミドリとモモは嫌な顔一つせずに頷いてくれた。失敗した自分をまだ頼ってくれる事に、継実の胸は奥からぽかぽかとしてくる。

 これなら、命を賭ける事も怖くない。人間というのは頼られると、自分の命がすっと軽くなる生き物なのだ。


「(落ち着け。さっき、動物達の猛攻を受けたのにはちゃんとした理由がある)」


 先陣切って洞の中からゆっくりと身体を出しながら、継実はその『理由』を思い返す。

 何も難しい話ではない。要するに自分達は、この森で騒ぎ過ぎたという事だ。逃げるのに必死なあまり、気配を消す事を疎かにしていた。索敵も甘かったし、警戒も薄い。

 草原のように大きな敵が少ない土地なら、それで問題なかった。ゴミムシに襲われたとして、他のゴミムシにまた見付かる確率は高くないのだから、兎に角全力で駆ければ良い。しかし生物が豊富な森の中でそれをすれば、至る所に潜む捕食者に見付かってしまうだろう。危険な動物からは全力で逃げないと食べられてしまうのだから多少は仕方ないものの、その『仕方ない』を見逃さずに突いてくるのが野生である。逃げた後は素早く隠れなければならない。

 この森で最優先にすべきは、強くなる事や速く走る事ではない。誰にも見付からない事、全力で隠れる事だ。

 勿論隠れるという行為にもデメリットはある。気配を消すという事に集中するため、あまり長い間続けられるものではないという点だ。つまり気配を消したままの長距離移動……例えば森からの脱出を試みたなら、激しい疲労感をもたらし、小さな動物の襲撃さえも脅威と化す。

 しかし獲物を探すという短時間の行いならば問題ない。

 ひっそり、こっそり、継実は地面を這う。地面に生い茂る草は這いつくばる継実の身体を隠すほど高く、ほんの少し、外敵から身を隠すのに役立ってくれた。モモもこっそりと出てきて、継実のすぐ隣にやってくる。ミドリは洞の中に隠れたまま、きょろきょろと辺りを見渡す。


【あ。継実さんの正面一メートル先、地面から二十センチの深さのところに十センチぐらいの生き物がいます】


 ミドリの報告は、存外早くにやってきた。

 正直これだけ早いのは嬉しい想定外。出会った時はこれほど頼りになるとは思ってもいなかったと、ミドリを見くびっていた自身に継実は呆れた笑みを一つ。

 きっちり一メートル先まで進んだ継実は、二十センチの深さまで一気に届くよう手に力を込め――――

 どすんっ、と大地に突き刺す。

 植物の根を強引に掻き分けて辿り着いた先で、ぶよっとした感触が手に走った。


「捕まえたぁ!」


「撤退撤退!」


 継実はすぐに手を引っこ抜き、先導するモモの後ろを追うように走る! なんとか洞の中へと跳び込むと、再び周囲の気配を探った。

 こちらにやってくる気配は、継実には感じられない。


「……大丈夫。一瞬こっちに近付く気配がありましたが、もう諦めたようです」


 尤も、ミドリからの太鼓判があるまでは安心など出来ず。

 その言葉と共に気が抜けた継実は、その手に持っていたものを見た。


「お、おおぉ……! カブトムシの幼虫だぁ……!」


 継実が捕まえたのは、体長十センチはあろうかという巨大カブトムシの幼虫。七年前ならばあり得ないビッグサイズだ。

 幼虫は継実の手から逃げようとしてか、ぶよぶよの身体を必死に動かしていた。大きく育った身体故に力は相当なもの。ミュータント化した継実の手を強引に押し広げ、こじ開けるほどだ。しかしこの程度のパワーならば十分に抑え込める。

 これだけの大きさなら、一匹だけで相当のエネルギーを補給出来る。それに昆虫の幼虫というのは、成虫になるためたくさんの栄養を蓄えているものだ。普通の肉や植物を食べるより、高栄養価に違いない。


「やったわね! ようやく初めてのご飯よ!」


 そして何より、旅の途中で捕まえた初めての獲物。

 距離としては草原のすぐ傍。旅というのもおこがましいかも知れない。だがそれでも、継実にとっては希望のあるもの。自分は旅を続けられるのだと、南極まで行けるのだという確かな証明である。

 一度は挫けそうになった継実の胸の中に、ぽかぽかとした気持ちが込み上がってきた。


「ほら、さっさと食べちゃいなさいよ」


「え? でも、みんなで分け合った方が」


「私もミドリも殆ど消耗なんてしてないんだし、まずは継実の回復を優先した方が合理的よ。ね、ミドリ」


「はい! あたしもそれが良いと思います!」


 そんな継実の気持ちを察したかのように、モモとミドリはカブトムシを継実に譲ってくれた。ちょっと恥ずかしくて、だけどそれ以上に嬉しい。継実は二人の好意を素直に受け入れる。

 許しが出たならいざ実食。七年前なら食べるどころか見ただけで後退りしただろう巨大幼虫も、今の継実にはご馳走だ。その弾力ある皮にすぐさま齧り付き――――


「……ん……んぎ……」


 かぷかぷと、何度も噛む。


「ん、んんんぎぃぃ……!」


 思いっきり皮を引っ張り、食い千切ろうとする。


「ぐぎぎぎぎぎぎぎぃ!」


 渾身の力で、奥歯で、前歯で、兎にも角にも傷を付けようとする。

 だが、叶わない。

 継実の顎の力を受け付けないほど、カブトムシの幼虫は頑強だった。


「うがぁあっ! コイツ食えないじゃん!?」


「えぇー……ちょっと貸して。電気流してみるから」


 言われるがまま継実はカブトムシの幼虫をモモに渡し、モモは強烈な電撃をカブトムシに流し込む。が、カブトムシは死なない。次いでミドリが脳内物質を掻き回してみようとしたが、その干渉さえも拒まれて通じず。


「っだぁぁぁ! 食えるかこんなもん!」


 ついに我慢出来ないと、継実はカブトムシの幼虫を投げ捨てた。カブトムシの幼虫は地面にぽとりと落ち、もぞもぞと大慌てで地面に潜っていく。

 気を取り直して他の獲物を探そう。そう考えて継実は周囲の気配を探るが、虫の存在は中々検知出来ない。あのカブトムシさえも、だ。天敵が多いから身を隠す術が発達したのだろう。ミドリでさえもカブトムシを探すのが限度かも――――

 そこまで考えて、ふと継実は気付く。

 カブトムシすら気配を消して隠れている。あの頑強なカブトムシが、だ。硬さで身を守っているとすれば、カブトムシはそこまで真面目に隠れているとも思えない。逆にカブトムシより弱い生き物は、当然ちゃんと隠れている筈。

 つまりカブトムシを見付けるのすら一苦労だった継実達は、カブトムシより硬いものしか見付けられない可能性が高い訳で。


「……ひょっとして、私達詰んでない?」


 自分達が絶体絶命のピンチだと、ようやく理解するのだった。

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