新たな世界11

 反射的に振り返った継実の目に映ったのは、背中を向けて走り出すミドリ。何故? 一瞬疑問が脳裏を過ぎり、後になれば過ぎってしまった事さえ馬鹿馬鹿しく思えた。

 ミドリはあの黒い靄を酷く怖がっていたではないか。もしもアレについて詳しい知識があるのだとすれば、その強さがどれほどのものかも把握している筈。対して継実とモモがどれほど強いかは、昨日からの一日で得られた情報しかないのだ。力を合わせれば勝てる、なんて考えに至る訳がない。

 仮に継実達の戦闘力を理解したところで、そもそも黒い靄が継実よりも強いという事実は変わらない。自分より強い相手だけど、頼れる仲間がいるから三人で戦おう? なんて愚かな。本当に勝てるかどうかなんて分からないのだから、逃げるのが正解に決まっている。

 冷静に考えるほど、ミドリが逃げるのは当然の行いに思えた。少なくとも七年前の継実なら、ミドリと同じ選択をしただろう。

 継実の計算は恐らく間違っていない。間違っていないが、誰もが正解に辿り着けるとは限らない。相手の強さとこちらの戦力を正確に分析し、勝ち目があると踏んだらリスクなど恐れず戦いを挑む……

 そんな自分の考え方は、もう『人間』の範疇ではないのだ。


「継実! どうする!?」


 たったの七年で自分がどれだけ『人間離れ』してしまったのか。そのショックで僅かながら呆けていた継実は、されどモモに問われて再び演算を開始。『人間離れ』した自らの思考への嫌悪がないといえば嘘になるが、そんなものは合理性で押し潰した。今はこんな些事を気に掛けている場合ではないのだから。

 確かに、今この付近に限れば、一番の脅威はあの黒い靄だろう。ミドリはその恐ろしさをよく知っているようだし、継実も今さっき思い知らされた。急いで逃げ出すのは一見正しい。

 されど次点の脅威はなくなっていない。

 意識を研ぎ澄ませば見えてくる、周りに潜む生き物達の気配。ネズミ、ジョロウグモ、カマキリ、ヘビ、キツネ、アマガエル……どれもこれも継実やモモにとってはただの獲物だ。しかし奴等とて、アオスジアゲハの幼虫よりは強い。アオスジアゲハ相手すら何も出来ずに殺されるところだったミドリには、戦う以前に襲われたと気付く事すら難しいだろう。おまけに皆、能力は千差万別。一種二種なら相性でどうにか出来るかも知れないが、全てを相手取るのは恐らくミドリには無理である。

 最初は図体の大きさで威圧出来ても、発する気配が貧弱なのだからそのうち弱さがバレるだろう。相手の強さを探れるのは継実やモモの専売特許ではないのだ。いずれ何かに襲われ、呆気なく食べられてしまうに違いない。

 助けにいかなければならない。されど自分達より強いこの靄の相手をしながらというのは、流石に危険過ぎる。それをするぐらいなら誰か一人がコイツの足止めをし、その間にもう一人がミドリを追い駆ける方が幾分マシだ。しかし黒い靄が想像以上に強くて、足止めしている奴があっさり負けてしまう可能性もある。そうなれば各個撃破されるだけ。これは最悪の展開だ。

 この最悪を避けるためには多少の『被害』は黙認し、モモと二人でコイツを確実に撃破する以外にない。

 つまり。


「(二手に分かれるか、ミドリを見捨てるかって事……!)」


 どちらかを選ばねばならない。

 突き付けられた選択肢。だが、継実が答えを出すのに瞬き一回分の時間さえも不要だ。

 迷うまでもない。

 緊迫する表情の中に、僅かな笑みを浮かべているモモと同じ答えを選ぶだけなのだから。


「そっちは任せた!」


「任せといて!」


 言うが早いか、モモはすぐにミドリの後を追う!

 モモが走り出すと、黒い靄も次の動きを見せた。身体を傾けるや、強烈な力で大地を蹴る! いきなりのフルパワーなのか、それとも奴にとっては軽めのダッシュか。いずれにせよ発揮した速さは凄まじいもの。先に駆け出したモモとの距離を急激に縮めていき、背中を掴もうとしてか腕を伸ばし――――

 隙だらけの顔面に、継実の蹴りが叩き込まれた!

 裸足で喰らわせたそれを、か細い少女の一撃と思うなかれ。秒速三十キロにも達する速さで繰り出され、尚且つ周りの大気分子を纏わり付かせて質量も増大させている。この黒い靄が地球に降下してきた時は、なんちゃって隕石程度の破壊力だったが……継実の一撃は、比喩でなく巨大隕石に値するもの。

 打撃の衝撃波が周りに広がり、大気が加熱されて白煙と化す! さながら爆発が起きたかのような事象を引き起こした攻撃は、黒い靄を彼方へと吹き飛ばした! 呻きどころか吐息一つ上げなかった黒い靄は、継実から五十メートルほど吹き飛ばされたところでくるりと身を翻す。四つん這いのような体勢で大地を掴み、なおも自身を吹き飛ばそうとするエネルギーを強引に抑え込んだ。

 そして黒い靄は『顔』を上げ――――既に自身の目前までやってきた継実を見つめる。


「ようやく、一発お見舞い出来たか」


 継実は語る。ニヤリと笑いながら、黒い靄を見下ろして。

 花が咲くように裂けた頭には目も触角もなく、何処を見ているのかすら分からない。しかし継実は今、間違いなくコイツは自分を見ている、否、睨んでいると確信した。

 何しろこれまでこれっぽっちも感情を露わにしなかったというのに、今や全身が針のむしろになったと錯覚するほどの鋭い敵意を発しているのだ。ここまであからさまに怒りながら、よもや睨み付けているのが蹴り付けた輩でない筈もない。

 頭の内側がガンガン痛むほど警告を発する。「コイツを怒らせてしまった」と。本能は自分の起こした行動に否定的な、生存の危機を喚き立てるように訴えていた。本能だけで生きる動物なら、今頃恐怖や嫌悪が湧き出し、遅ればせながら慌ただしく逃げ出しているだろう。

 しかし継実の想いはそんな感情達を叩き潰す。

 確かに継実は人間離れしてしまった。敵の強さを数値的に測り、戦力差と環境面だけで勝率を計算する。他者のメンタルや思考を無意識にでも排除してしまう考え方は、最早かつての少女・有栖川継実のものではない。七年間のうちに、無邪気であどけない少女は跡形もなく消えてしまった。

 されど人間・有栖川継実の感情はまだ残っている。

 血縁の有無も相手から得られる利益も関係ない。こうなって欲しいという未来がある――――その未来を迷わず選んでしまうのが、『感情的』で『非合理的』な人間というもの。理性だの合理性だの、本当はそんなものより己の気持ちが一番大事なのが人間だ。だから継実は最も感情的に欲する結末を選ぶ。

 コイツをぶっ飛ばして、全員仲良く家に帰るという結末を。


「さぁ来い! こっから先に、一歩でも行けると思うな!」


 故に継実は好戦的な笑みを浮かべ、黒い靄と真っ正面から対峙した。

 無論相手との実力差も分かっている。勝率三割で、おまけに命を賭けた大勝負。先程顔面に蹴りを入れてやったが、大したダメージではないし、警戒している今では二度目だって早々決まらないだろう。しかし継実は実のところ、そこまで黒い靄との勝負に不安を感じている訳ではない。

 モモが離脱したのはあくまでミドリの安全を確保するため。ミドリを説得して此処に連れてくるなり、或いは安全なクスノキの洞へと放り込むなり、兎に角事が片付けば此処に戻ってきてくれる。モモも黒い靄の強さは察知しているだろうが、人間のためなら勝ち目のない戦いも平気で選ぶ子だ。それが心配でもあり、同時に頼もしいところ。

 説得時間を三十秒として、三キロ先にあるクスノキまで戻るとしてもモモの足なら往復でも数秒と掛からない。クスノキの奴に『子守』を任せるのに十秒として……諸々のトラブルや危機回避のための回り道があったとしても、六十~百二十秒あればモモは此処に戻ってくる筈。


「(いくら相手が格上でも、守りに徹すればそれぐらいは問題ない! この勝負、もらった――――)」


 二度目の勝利の確信。一度目は仲間の予期せぬ行動で瓦解したが、此度は頼れるパートナーの行動を主軸にした計算である。不確定要素は今度こそないと、継実は獰猛で勝ち誇った笑みを浮かべた

 直後、ずどん、というが継実の背後から聞こえてきた。

 ……勝利を確信した継実の顔が青ざめる。振り向いてはいけない。目の前には自分より遥かに強い敵がいるのだから。それでも粒子の観測範囲を後ろに広げて、何が起きたのかは探ってしまう。

 どうやら、『隕石』が落ちてきたらしい。

 場所は凡そ一・五キロ離れた地点。隕石の落下地点周りを探れば、見慣れた粒子の集まりがある。体毛で人の姿を編んだ犬と、弱々しい人間の二人組。どうやら無事に合流出来たようだ。

 ……そんな二人の前に落ちてきた隕石もまた、大雑把ながら生き物らしき形を取っているようだが。発せられる気配は幾分弱めだが、距離を思えば『先発』と大体同じ。


「(に、二体目……!?)」


 継実の観測が正しければ、二体目の黒い靄が現れたようだった。よりにもよってモモの近くに。

 こんな化け物が一度に二体も現れるなんて。驚く継実だったが、しかしそんな自分が酷く滑稽に思えた。巨大ゴミムシが跋扈し、クスノキがべらべらと喋り、イモムシが大出力レーザーを撃つのが今の世界。だったら自分より強い黒い靄が二体出てきたところで、それの何がおかしいというのか。いや、もうしばらくは続々と現れる可能性だってある。

 考えたくなかっただけだ。本当の最悪というものを。

 こんな簡単な最悪を考えてもいなかったとは、なんやかんや自分も現実逃避をしていたらしい。人間離れしてしまったと感じていた思考も、根本的には人間のままだったようだ……等と感傷に浸りたい継実であったが、浸れるほど現状は甘くない。

 継実の目の前には、激しい怒りを燃え上がらせている敵がいるのだから。


「えっと……ちょ、ちょっとタンマ……あ、いえ、その、まずは話し合いをしませんか……ダメ?」


 物は試しに命乞い。

 黒い靄の敵意に変化なし。

 そりゃそうですよね……計算せずとも予想出来た結果に、継実は深くため息を吐く。

 それだけの仕草を間に挟めば、意識を切り替える事など雑作もない。戦う事への忌諱感、殺す事への罪悪感、殺される事への恐怖心――――今から起きる事に対する感情は全てとうに乗り越えたものであり、今更どうこう思うものでなし。

 だから継実は前を見据え、

 突撃してきた黒い靄の蹴りを、交叉させた両腕で受け止めるのだった。

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