第112話

「中学も水泳部だった割に、平泳ぎが苦手なのか? キュートは」

「うん。きゅーと、クロールばかりやってたから……」

 そこで会話が止まる。

 今しがた妹がボロを出したからだ。

「……あ、あれぇ? 中学のこと、お、お兄ちゃんに話したことあった?」

「あーいや、里緒奈ちゃん! 里緒奈ちゃんとごっちゃになってたみたいでさ」

 キュートも『僕』も動揺しつつ、思いついた言葉を被せる。

(本当に誤魔化す気があるのかな? 美玖は……)

 キュートの正体に気付いているのは『僕』だけ、という前提に自信がなくなってきた。もしかしたら恋姫や里緒奈、菜々留もとっくに勘付いているのかもしれない。

 そんな不安と背徳感を背に、『僕』はキュートの両手を引く。

「支えてあげるから、キュートは脚の動きに集中して」

「はーい。こう……かなあ?」

 キュートは肩越しに振り返り、水面でお尻を浮かせたり沈めたりした。『僕』の指導に耳を傾けながら、ぎこちない調子で脚を繰る。

「足の裏で水を蹴る感じだよ。ん、そうそう……その調子」

「うん。きゅーと、わかってきたかも」

 水泳の得意な美玖が、平泳ぎひとつこなせないわけがない。つまり妹は故意に不得手を演じ、『僕』に甘えていた。

(そんな可愛いとこがあったんだな、美玖にも……)

 プールでお互い水着だからこそ、相手を近くに感じるのだろうか。

 少なくとも『僕』のほうは嬉しい。美玖との距離は開く一方だったのだから。

 その気持ちを認めると、不思議と心が軽くなった。

(妹に気を遣いすぎるのも変か。うん)

 スクール水着の格好に遠慮するのはやめ、ふたりきりの練習に勤しむ。

「だんだんフォームが馴染んできたみたいだね」

「エヘヘ~。お兄ちゃんのおかげだもんっ」

 キュートはあどけない笑みで八重歯を光らせた。

 可愛い――と素直に思えてしまい、『僕』は戸惑う。

「よし、じゃあ次は自分で……」

 しかし手を解こうにも、キュートのほうが離してくれなかった。『僕』と向かいあって直立し、アイマスクの中で顔を赤くする。

「あの……お兄ちゃん? この教え方だと、腕の練習ができないんだけどぉ……」

 対する『僕』はきょとんとした。

「まあ、そうだね。だから今度は僕の支えなしで」

「~~~じゃなくてっ! さっきミキやシホにやってたみたいに、して欲しいのっ!」

 急に妹がトーンを上げ、『僕』の口からも驚きの声が飛び出す。

「え……ええええっ?」

 水泳部の部員にやっていたみたいに――。

 それはつまり、フトモモの間に頭を入れ、股間を顔面で支えるということ。

 そこまで具体的にイメージして、『僕』は声にならない声をあげる。

(変態……いや犯罪だあーッ!)

 今の今まで自覚がなかった。自分の行動の異常さに。

 実際、ぬいぐるみの妖精がやる分には問題なかった。部員たちにとっても『僕』は浮き輪のようなもので、『この浮き輪ちょっと気持ちいいかも~』程度で済む。

 『僕』自身、そこまで大それた真似とは思っていなかった。

(なんで僕、ずっと平気で女の子相手に……そうか、変身してる間はそのへんの感覚が鈍くなるんだっけ)

 ぬいぐるみだからセーフ、ぬいぐるみだからセーフ。

 しかし今の姿ではセクシャルハラスメントだ。言い訳も擁護も不可能なレベルの。 

 それを妹は『僕』に要求していた。

「ねえ、お兄ちゃんってばぁ……だめ?」

 首を傾げ、アイマスク越しに『僕』をまじまじと見詰める。『僕』と両手をしっかりと繋いだまま(いわゆる恋人繋ぎ)で。

(どど、どこでこんなおねだりを覚えたんだっ? あわわ……)

 おかげで『僕』の頭はメダパニに陥ってしまった。

 スクール水着の股布に顔面を埋めるようなスキンシップを、しかも妹に。

頭の中で天使と悪魔がせめぎ合う。


  天使『いけないよ! 美玖にそんなこと……我慢するんだ!』

  悪魔『美玖のほうから誘ってきてんだぜ? 美味しく食べちゃえよ……なあ?

     大体よぉ、ここで断ったら、キュートちゃんが傷ついちまうだろ』

  天使『た、確かに……キュートの気持ちは無下にできないね。

     妹のためにも、付き合ってあげるべきなんじゃないかい?』

 

 天使も悪魔も同じことを言い出した。

 ごくりと生唾を飲み下して、『僕』はキュートを見詰め返す。

「よ、要は支えてあげればいいんだよね? そっちに掴まって、浮いてみて」

「はぁい。っと……こお?」

 キュートはプールの端に両手を添え、水面に背中とお尻を浮かびあがらせた。

 遠慮がちに『僕』は、脇からその腰を抱え込む。

(うわっ、思ったより細いなあ……)

 これならぎりぎり指導の範疇だろう。余計なところには触れないように細心の注意を払いつつ、美玖の身体をゆっくりとプールサイドから遠ざけていく。

 ところが、その途中で不意に美玖のお尻が沈んだ。

「バランスが悪いよぉ? これ。お兄ちゃん」

「そ、そんなこと言われても……」

 『僕』の支え方が悪いらしい。妹の重心に対し、斜めに力が掛かっているせいだ。

 より安定させるには、お尻を抱えるのがベストか。

(――いやいやっ! 妹がお尻でスクール水着だぞっ?)

 『僕』が全力で混乱しまくっている間にも、キュートの身体はくの字に折れ、頭から水中へ突っ込む。

「わわっ、大丈夫か? キュート!」

 妹の危機を目の当たりにして、躊躇などしていられなかった。

 反射的に『僕』はスクール水着の股座に手を突っ込んで、浮き身を維持させる。

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