第96話

 一方、キッチンのほうからは濃厚なコーヒーの香りが漂ってきた。菜々留に負けじと早起きの恋姫(れんき)が、コーヒーを淹れてくれているらしい。

「おはよう、恋姫ちゃん」

「おはようございます、P君。さすがに早いですね」

「恋姫ちゃんこそ」

 彼女はパジャマの上からエプロンを羽織り、てきぱきと朝食の準備に勤しんでいた。最初のうちは『僕』が担当していたが、今では恋姫の日課に。

「P君、菜々留は?」

「鏡の前で髪を弄ったりしてるよ。もう少し掛かるんじゃないかな」

「まったくもう……朝ご飯を済ませてからにすればいいのに」

 何かと緩みがちなSHINYの面々を、いつも優等生の恋姫が引き締めてくれる。

「P君も丸裸でうろついてないで……レンキたちのプロデューサーなんですから、スーツでビシッと決めるとか、ないんですか?」

「この身体で、どうやってスーツを着ろ、と……」

 メンバーいわく攻略難度の高いツンデレさんが素っ気ないのは、毎度のこと。しかし唇をへの字に曲げたり、眉をひそめたりする表情の変化は、意外に幼い。

「こっちはレンキがやってますから。P君は寝坊助を起こしてきてください」

「了解~」

 ちなみに『僕』はアイドルたちから『P』と呼ばれていた。プロデューサーの略で、現場のスタッフにはSHINYのP、ゆえに『シャイP』と呼ばれる。

「……あ! P君」

「なあに?」

「里緒奈が寝てるからってイタズラしたら、シ刑にしますので」

 死刑と私刑、正しい漢字はどちらなのだろうか。

 背中越しに釘を刺されつつ、『僕』は残るメンバー、里緒奈(りおな)の部屋へ。

「里緒奈ちゃん、朝だよー! 入るよー?」

 レディーのプライベートルームにいささか遠慮はするものの、中へ入る。目覚まし時計が鳴り出すと、こちらの寝坊助は大混乱に陥ってしまうからだ。

 里緒奈は布団を半分ほど蹴り飛ばし、締まりのない笑みを浮かべていた。

「えへへ……むにゃむにゃ」

「起きてよ、里緒奈ちゃん。今日もライブだぞー?」

「……ふぇ?」

 『僕』が何度か揺すって、ようやく目を覚ます。

 里緒奈は無造作に半身を起こすと、寝惚け眼のまま部屋を見渡した。

「あれ? ご馳走は?」

「おはよう。朝ご飯なら今、恋姫ちゃんが作ってくれてるから」

「ふぁーい」

 大きな欠伸と伸びをして、つぶらな瞳をぱっちりと開く。

「コンサートの二日目だもんね! Pクンっ」

「その意気だよ。頑張ろう!」

 元気溌溂、それが里緒奈のポリシー。持ち前の行動力で菜々留や恋姫をぐいぐい牽引していく、SHINYの原動力だ。

 部屋を出ていく『僕』の後ろで、衣擦れの音がする。

「っと……ブラ、ブラ」

 ぬいぐるみの顔(身体の上半分)で赤面しつつ、『僕』は廊下へ逃げ延びた。

(里緒奈ちゃんも高校生になって、どんどん色っぽくなってきたからなあ)

 魅惑のプロポーションは当然として、JK里緒奈の成長ぶりにはドキドキさせられることも。中学の頃はもっと言動も幼かったのに。

『リオナ、今日もうんと頑張っちゃうんだからっ』

 昔も今もアイドル活動に全力投球なのは変わらないが、高校生になったことで余裕が出てきたのかもしれない。このメンタリズムを過不足なくコントロールするのも、プロデューサーである『僕』の仕事だった。

 そんな里緒奈が部屋の扉を少し開け、顔だけ出す。

「ねえ、Pクン? リオナ、エネルギーの補充したいんだけどぉ……」

「エネルギー?」

「わかるでしょ? あれ。ぎゅってするやつ」

 ぬいぐるみの『僕』を抱っこしたい――それは先々月までの話であって。里緒奈は頬を染め、もじもじと指を編む。

「ちょっとだけ男の子になってくんない? Pクン」

 『僕』は壁際まで後退し、首(身体の真中あたり)を横に振りまくった。

「そそっ、それは……恋姫ちゃんや菜々留ちゃんにバレたら、殺されちゃうし?」

「だからぁ、今だけ。今日のライブも頑張れるように。ね!」

 しかし里緒奈は『僕』の抵抗も意に介さず、ウインクを残し、扉を閉める。

 SHINYのアイドルたちと『僕』との、内緒の関係。『僕』とて所詮は一介の男子、生唾を飲み下さずにはいられない。

(こんな朝から……?)

 その関係は、スクール水着を着てもらったうえでのソーププレイから始まった。

 スクール水着でソーププレイ。大事なことなので二度、言っておく。

 人間の姿になった『僕』に抱き締められる(言葉以上の意味はない)のが、里緒奈たちにとっては最高に気持ちいいのだとか。

 それも抱擁の深さを実感できるように、裸に近い恰好で。

 かくして里緒奈・菜々留・恋姫の三人と、不埒にも夜な夜なソーププレイに耽ってしまった結果、一度は地獄の修羅場を迎えている。

 それでも里緒奈は『僕』のハグが忘れられないようで。

「あ~、り……里緒奈ちゃん? ライブが終わってからでいいかな?」

「なんでー?」

「ご褒美! ご褒美ってことで。ね?」

 同じように菜々留や恋姫にも求められることで、『僕』の罪は増えていく。

 けれども『僕』のハグが彼女たちのアイドルパワーに大きな補正を掛けるのも事実。だから『僕』も断り切れず、甘い蜜を……ゲフンゲフン。

 やがてメンバーが一階のリビングへ集合した。

 朝ご飯はトーストとサラダ、ハムエッグ。あとはリンゴをデザートにして、幅広く栄養を摂取できるように心がけていた。これこそが美容の基本だ。

「しっかり食べるんだぞー」

「はーい」

 ぬいぐるみの『僕』が普通に座っては、テーブルに手が届かないため、『僕』だけ幼児用の椅子を使っている。この短い手で箸やカップを持つのも、すっかり慣れた。

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