第十九章 借りを返せ

 クリスに「暇な人」と呼ばれた男は、今、連邦首都星にいた。

「今日はこのままでいけば、定刻に帰れるな」

 いい男がしょうもない、だらしない? いや、だらしなくはないが、にやけた? にやけたでもない、表現しにくい表情をして廊下を歩いていた。

 この男、れっきとした妻子持ちの健康男児である。

 執務室にいることを良しとしない性格で、報告書を持ってきた担当官を追い出す、決裁書を放り投げる、挙句の果ては執務室の窓から逃げ出すなど器用なことをしている男だが、なぜかチーム員に気に入られて追放されることなくリーダーの位置に収まっている。

 チームワン・レッドの司令、グラントである。

 任務明けの波乱万丈? の強制休暇を終え、通常勤務に復帰していた。


「なになに、今日はビーフシチューだから、生クリーム買って帰ってきてね、か。フムフム……」

 この男、一部の人間には「愛妻家」を通り越して「恐妻家」として知られている。

 この文章は恐らくプライベート用に持っている通信機に送られてきたメールだろう。

「ということは、クレソンのサラダが付くのかな?」

 まだ勤務中だというのに、もう気分は夕食のことになっている。

「あいつの作るシチューは、お肉はトロトロ、ジャガイモはほくほく……。旨いんだよなぁ」

 気持ちが完全に別世界に飛んでいる。

「奥様の手料理が食べたかったら、この書類の決裁をお願いします」

 グラントの主席司令補が容赦なく現実の世界(仕事)に気持ちを戻した。

 グラントは年甲斐もなく、むっとする。

「もう少し浸っていてもいいではないか」

「これを処理していただいた方が、『浸っている』ではなく、自宅に早く帰れてしっかり『浸れます』が、いかがでしょう」

 この辺り、この主席司令補(ビューもだが)、上司の扱いが上手かった。

 複数の書類を机に並べ、その上に万年筆を置いた。

「そうか……そうだよな。自宅で浸ることにする。よし、サクサク書類を片付けてしまうか。サイン必要なものは持ってこい!」

 今日は書類仕事が捗りそうだ。

 デスクワークが嫌いな上司を動かす、主席司令補の作戦勝ちだった。


 主席司令補の補佐もあり、苦手な書類関係の仕事を「今日の分は」片付け、グラントは帰路についた。

 妻に頼まれていた生クリームを、帰りにスーパーに寄り道して買い(この辺りもクリスと同じで庶民的)自宅に向けて歩いて帰った。

 すると……。

 自分が向かおうとするその先で騒ぎがある。

 ざわざわというより「さわさわ」と騒がしい。

 ちょっとどうしよう、可哀そう、との声もある。

 一体なんだ?

 どれどれと覗いた先には、自分の可愛い双子の娘が居た。

 その向かいには、ガラの悪そうな男三人。

「おいおい、どうしてくれんだよ、こいつ肩が外れてしまったみたいだぜぇ」

 男その一が言う。

「いてぇよお」

 男その二がわめく。

「治療代貰わなきゃな、お嬢ちゃん」

 男その三が金をよこせと訴える。

 見え透いた芝居だ。こんなの通るわけがない。

 でも、ガタイの良い男三人では少女たちは不利だ。

「そっちが勝手にぶつかってきて、腕が少し触れただけで、肩が外れた? 何馬鹿な事言ってんのよ。トレーニング不足を人のせいにしないでほしいわね」

 グラントの娘は父親に似て勝気だった。

「おいおい、良いのかい、そんなこと言って」

「ぶつかって、こいつがこんだけ痛がってんだぜえ。治療費出すのが筋ってもんだろうが」

 男たちが凄む。だが、少女たちにには通じていなかった。

「だから、自分の体が軟(やわ)なことを他人のせいにしないでよね」

「あほらし。帰ろ」

 少女たちは完全無視。男三人を置き去りにして帰ろうと歩きだす。

 この態度に男が逆上した。

「これ見てもそんなことが言えんのか、嬢ちゃんよ」

 男その一がナイフを出す。

 遠巻きに見ていた女性達から悲鳴が上がる。

 それでも、グラントの娘は全く無視。

「大の男が私みたいな小娘相手に、ナイフ使わなきゃ何もできないわけ? それこそ馬鹿じゃない」

「同感」

 娘たちは相手にもしない。

「こんな男相手にして、夕飯に遅れる方が大変だわ。早く帰ろ」

「うん」

 完全無視。男たちをバカ扱い。もしくは、転がっている石扱い。

「そんなにナイフの切れ味を感じたいか?」

 男が逆上してナイフを振り上げた。

 巻き添えにはなりたくない、でも……と遠くから見つめている観客は。ひッと悲鳴を上げた。

「これで正当防衛。やっちゃおう」

「うん」

 この娘たちは動じていなかった。

 一人がカバンを振り上げて男の手に当てナイフを落とす。

 もう一人は派手に足を振り上げ、股間を蹴り上げる。

 男の急所に、クリティカルヒットだったらしい。

 男その一は泡を吹いて気絶した。

 見事な連携だった。

 他の男も黙っていない。

 男その二がこぶしを上げた。

「馬鹿にするんじゃねえ」

 そう言って殴りかかる。

 振り上げた腕は、さっき「痛い」と騒いでいた方の腕。

「なんだ、その腕外れてないじゃない。『馬鹿にするんじゃねえ』って言っておいてバカはどっちよ」

 その言葉に、脇から見ていたグラントはぶふっと噴き出す。

 殴りかかってきたところをさっとよけて、鳩尾を膝で蹴り上げた。

 前のめりになっていた男その二はよけきれない。

 そこへ顔面に向かってカバンが直撃。

 こちらもクリティカルヒットの攻撃を受け、鼻血を出しながら失神して倒れた。

 男その三はというと……。

「何なんだ、この娘たち……」

 腰を抜かしていた。

 そんな状態の男に、娘は男その一が落としたナイフを男その三の股間のすぐそばの路面に投げて突き刺した。

「ぎゃああああ!」

 男その三は絶叫して失禁し、気絶した。

「ナイフ刺さってないのに、おもらししちゃった……だらしない……」

「あ~あ、これでまたマムに怒られるかなぁ。夕食時間に少し遅れちゃうもんね」

 娘たちはどこまでもマイペースだった。

 そこへパトカーがやってきた。

 警察官が駆け付ける。

「大丈夫だったかい?」

 少女たちに、一応声をかけた。

 この現場を見る限り、大丈夫じゃないのは男たちの方だった。

「うん、大丈夫」

「この人たち、頭の検査した方が良いよ。どう考えてもおかしいもん」

 警察官は苦笑する。

「本当はここまでする前に呼んでほしかったな」

 警察官の一人が言った。

「え? 絡まれ始めた時に連絡入れたよ?」

「遅かったのはそっちのほうでしょ?」

 その言葉に警官はさらに苦笑する。

「すまなかったね。今度はもっと早くに駆け付けるよ」

「そうしてね」

 娘たちは警官と握手した。

 その姿にくすくす笑い、グラントは娘たちに声をかけた。

「お前たち、少しは『手加減』っていうものを覚えろよ」

「ダディ!」

 二人は父親に駆け寄った。

「見ていたなら手伝ってくれたらよかったのに」

「私たちばかり働いてずるい」

 二人が一斉に言い出す。

「邪魔しちゃ悪いと思ったんだよ。ちゃんと撃退したじゃないか」

 ここで褒めていいのか、グラント。

 でも、娘バカにはこれが普通。

「ダディ、帰りが遅くなった理由話すとき、一緒にいてくれる?」

「マム、絶対怒るもん」

 男三人を撃退しておきながら、母親の怒りの方が怖いとは、やはり少女だった。

「ちゃんと見たことを伝えてあげるよ。さあ、帰ろうか」

「うん」

 グラントは愛娘を連れて、今度こそ自宅へと足を向けた。


 グラントが自宅に着いた時、妻が心配して玄関先で待っていた。

「マム!」

 娘たちが駆け寄る。

「いつもより遅いから心配したじゃない」

 そう言って娘たちを抱きしめた。

「今日遅かったのはその子たちが遊んでいたわけじゃない。ちゃんと理由があるんだから聞いてくれよ」

 そう言って、グラントは説明した。

 グラントの妻は、グラントが語り終えるまで黙って聞いていた。

 そして……。

 娘たちに対しては改めて抱きしめた。

「危ないことしちゃだめじゃない。護身術を習ったからと言って、過信しちゃだめよ」

「はい、マム」

 子供たちに関してはこれで済んだ。

 だが……。

 グラントに対しては容赦なかった。

「あなた。子供たちが絡まれているとき『見ていた』とはどういうことなの?」

「いや、それはだな、その……」

「あの子たちが怪我したらどうするつもりだったの?」

「だからだな……」

「あの子たちは『女の子』なんです」

 グラントは何も言えない。

 その『女の子』たちが、普通じゃないことを。

 そこらのチンピラを軽くのしちゃうほど強いんです、ということを……。

「紳士たるものが、レディが危ないところを助けないでどうするの!」

 だから、「レディ(淑女)」じゃあないんだ、その子たちは!

 なんて、こんなこと、口が裂けても言えない。

 娘たちは妻の前では巨大な猫をかぶっている。

 この子たちは、母親の前ではお淑やかなレディでいたいのだ。

 普通は逆で、父親の前でこそレディでいたいと思うような気がするのだが。

 愛娘家のグラントは二人の娘の視線を感じて、忍に徹した。

 妻に玄関先で怒られる夫。

 そこには、職場で見せる「司令」の姿はなかった。

「しばらく反省していただきます。今日は貴方の分の夕食は無しよ!」

 そんな!

 帰り道に娘と遭遇し、楽し気に帰ってきたその時に、この言葉は効いた。

 一家団欒を楽しみに、激務? の仕事を片付けてきたのに、これはない。

 思わず言い返そうとして、妻の顔を見て、言葉をごくりと飲み込んだ。

 これは怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる。

 下手に言葉を出すと、逆鱗に触れる。

 そこには「恐妻家」の姿があった。

 玄関の前で仁王立ちして立腹する妻。

 それを超えて玄関に入る勇気はグラントにはなかった。

 そこに助け舟を出したのは……。

 妻を怒らせる原因になった愛娘だった。

「マム、夕ご飯、ダディと一緒に食べたい」

「今日、危なくなかったんだよ。ちゃんと警官呼んだもん」

 二人が交互に言って、グラントをかばう。

 妻は、それは深~いため息を吐いた。

「分かったわ。『今』は許しましょう。とりあえず家に入りましょう」

 グラント家の主導権は、大黒柱の夫ではなく妻にあった。


「マムの作るシチューって、やっぱり美味しい!」

「生クリームのアクセントが上手だね!」

 娘たちが母親に言う。

「マムはちょっとおっちょこちょいで、生クリーム準備するのを忘れたんだ。メールでヘルプのお願いをされてね。それはダディが買ってきたんだよ」

 グラントの言葉に、ふーん、と娘たちは聞いている。

「だからあの道歩いてたんだ」

「いつも通る道と違うでしょう?」

 おーっと。

 グラントは冷や冷やだ。

 先ほどの話を蒸し返されたらたまらない。

 そこで慌てて話題を変えた。

「お前たち、今どんな勉強をしてるんだ?」

「えー、夕ご飯の時に勉強の話?」

 娘たちが不満を言う。

「ダディはあまり貴女たちとの時間が取れないんだから、教えてあげたら?」

 妻が言った。

 この言葉に棘を感じたのは自分だけだろうか、とグラントは思う。

 女性陣三人は、そんな自分をスルーして会話に花を咲かせる。

「今日は宇宙について『ちょっと』勉強したよ?」

「ちょっと、なのかい?」

 グラントが面白そうに聞いた。

「だって、『ちょっと』でしょう?」

 二人は顔を見合わせた後、そろって首を傾げた。

 か、可愛い!

 親バカ、娘バカのグラントには目の保養である。

 だが、次の言葉を聞いた瞬間、盛大に咽ることになる。

「シアに比べたら、全然、ちょっと……なんてもんじゃないよね?」

 ゲホ、ゴホ、ガホ……。

 シチューが別の器官に入り涙目になった。

「確かにクリスちゃんの知識に比べたら、『ちょっと』なんでしょうね」

 妻は考えながらそう言う。

 娘たちはみんなと同じように呼びたくないと、クリスのことを「シア」と呼んでいた。

「なんかさー、授業中、サッサと次のことやれって思わなかった?」

「だって、今日の授業の内容、全部『シア』から聞いたことあること、習ったことのあることばっかりだったもん。はっきり言って時間の無駄だったよね?」

 クリス、俺の娘にいったい何を吹き込んでいるんだ?

 クリスがこれを聞いたら、「吹き込んだとは失礼な!」と言うだろう。

 聞かれたから答えた。

 分からないと言われたから、かみ砕いて教えた。それだけだ。

 元々、クリスは航宙士。

 宇宙の航行に関することが、彼女の本来の仕事なのだ。

 自分はそれをすっかり忘れていることに気が付いた。

「そういえば彼女は『航宙士』だったな……」

 ぽろっと言ってしまった。

 が、その言葉が、娘らに火を吹かせた。

「ダディ、何言ってるの? シアが宇宙に戻ったら、私、航宙船に乗せてもらうんだから」

「そうだよダディ、私たち、初の宇宙旅行はシアの船って決めてるんだから!」

 その台詞にグラントは青くなった。

「ちょっと待て! お前たち、クリスの操縦する航宙船に乗るつもりか?」

 グラントの頭の中では、クリスは連邦特別司法官。

 法律の超専門家だ。

 航宙船を操縦するクリスの姿が想像できない。

 それどころか……彼女の操縦する船って怖くないか?

 そんな父親の姿を見て、双子は大いに怒った。

「シアは『航宙士』なの! 本当は宇宙にいるべき人なのに!」

「宇宙にいる方がかっこいいのに!」

「そんなことにも気づかないダディなんて……大っ嫌い!」

 すでに食事を終えていた娘たちは、そう言い捨てるとテーブルの上の食器を片付けて、ダッシュで自分たちの部屋に行ってしまった。

 呆然としている自分の夫に、妻はそれはそれは同情した。

 溺愛と言っていいほどの愛情を娘たちに注いでいる。

 その二人から「大っ嫌い!」と言われたのだ。

 立ち直るのには時間がかかるだろう。

 それをわかっていながら、妻はさらに追い詰めた。

「あの二人にとって『シア』はカッコいい憧れの『航宙士』のお姉さん。それも『アカデミー出身』の。あの子たちはアカデミーを進学先の一つに考えていて、彼女は二人の目標になっているの。あの二人の中では『シア』は法律家じゃないの、目標の航宙士の先輩なのよ。そのところ、間違えたわね」

 いまだ、固まったままの夫にそう言うと、妻も自分の食器を片付けてしまった。

 テーブルに残ったのは自分一人。

 ワイワイ賑やかに過ごすはずの時間が、自分の不用意な発言により霧散した。

 この打撃は大きかった。

 クリス……君は我が家に話題を振りまいてくれたが亀裂も入れてくれたようだ。

 どうもありがとうよ~。グラントはなかば投げやりになっていた。

 これをクリスが聞いたら、亀裂を入れたのはそっちだろうと、すかさずツッコミを入れてくるところだ。クリスから見れば完全に八つ当たりと言える。

 グラントは自分の気持ちをなだめながら食事を終え、食器洗い機に食器を入れると、夫婦の部屋に移った。


「娘たちは、アカデミーが目標なのか?」

 先ほど初めて聞いた言葉に衝撃を受けながら、妻に聞いた。

「ええ、そうよ。アカデミーの話、仕事の話を聞いたら興味を持ったらしくて……。自分たちも目指してみようかって話をしていたようなの」

「そうか、アカデミーか……」

 アカデミーは超難関校。目標に上げる子も多い。だが……。

「あの子たちには、危ないことをしないでほしいなぁ」

 親バカ、いや、普通の親なら思うことをぽそりと言った。

 宇宙に関しては、未開な部分もいまだ多く、航宙士には危険が伴った。

「今は、まだ憧れ。それがこの先どうなるかわからないわ。私たちは見守ってあげるだけ。そうでしょう?」

「……そうだな」

 夫婦そろってしんみりになりそうなところで、妻が「ところで……」と言い出した。

 なんだい? と先を促すように彼女を見つめる。

「先ほどの話、まだ終わっていませんでしたね」

 先ほどの話? どの話?

 グラントには思いつかなかった。

「娘たちを助けなかった件です」

 また蒸し返すのか? 冗談じゃない。グラントは焦った。

「さっき許してくれたんじゃなかったのか?」

「いいえ、『今』は許しましょう、と言っただけです。まだ、許していませんからね!」

 続きをやるのか?

 いささかげっそりしそうな感じで、ベッドに座り妻を見上げた。

「あの子たちが『クリス』から基本的な護身術を習っていることは知っています! けれど、でも、女の子なんですから……」

 そこまで言って、言葉がなくなった。

 グラントがキスしたからだ。

「君が言いたいことはよくわかっているよ、奥さん」

「ほんとに?」

「ああ、ホントに」

 そう言って、また口づけた。

「この部屋では『マム』ではなくて、俺の『奥さん』に戻ってほしいんだけど……」

 その言葉に、妻は何か言おうとしたけれど、グラントはそれをさせないようにバードキスを続けた。

 結局根負けしたのは奥さんの方。

「もう、しょうがないわね」

 そう言ってグラントの首に両腕を回した……。

 押すところでは押す、引くところでは引く。

 これが夫婦円満の秘訣なのかもしれない。


 翌日、子供たちが心配そうに言ってきた。

「あの男の人たち、学校行く途中に居たらどうしよう……」

 別に怖かったわけではない。通学に邪魔されてら困るという意味だ。

 その意味が分かって、グラントは苦笑した。

「大丈夫だよ」

 グラントが言い切ったその言葉に、娘たちは反応する。

「ほんと?」

「どうしてわかるの?」

 実は昨日警察から連絡をもらっていた。

 男三人とも、病院送りになったそうだ。

「お前たちには手が出せない場所にいるから、大丈夫」

 それを聞いて、二人は顔を見合わせ、うんと頷いた。

「ダディが言うなら、安心だね!」

「ダディ、ありがとう」

 そう言うと、元気に玄関を駆け出して行った。

「行ってきまーす」

 それを夫婦で見守って、俺もそろそろかなとグラントはコートを取りに行った。

「俺も行ってくるよ」

 コートを羽織って玄関先でそう言うと、妻は夫の頬に軽くキスをした。

「行ってらっしゃい」

 こうして、また、グラント家の一日が始まる。


 昨日「ダディなんて大っ嫌い!」と言われたにもかかわらず、今朝はすんなりと普通の生活に戻っていて、グラントは上機嫌だった。

 それは仕事にも表れる。

 デスクワークが捗っているのだ。

 主席司令補はこれ幸いとどんどん書類を渡してサインを求めては、チームの状況報告を行う。

 グラントはうんうんと頷き、書類を捌いてはチームの動きが完全に復帰したことを喜んだ。

 そんな時……。

 一通の通信が入る。

 ――のちにグラントの青歴史(黒まではいかない)

 と呼ばれる一件になることも知らず……。


「おはようございます」

 通信の相手はクリスだった。

 時差を考えてのことだろう。こちらの時間の状況を考えて挨拶を選んだのはさすがだった。

「お久しぶりです。その後、奥様との関係はいかがですか?」

 さらりと聞いてくる。

「おお、その件では助かった。まぁ、色々あるが、何とかうまくやっているよ」

 グラントはそう答えた。

「そうですか。奥様の努力がうかがえますね」

 グラントは「なにおぅ!」と思った。

「俺の努力は無視か?」

「貴方以上に奥様の方が努力していると思ったのでそう言ったまでですが?」

 どこまでも「クリス」だった。

「ところで、君、今『秘書』しているんだってな?」

 グラントが茶化すように言う。

「ええ、やっていますよ」

 クリスは事実だから否定せず素直に肯定した。

「そんな『可愛らしい仕事』が君に出来るとは驚きだな」

 正直な感想だった。

「それはビューにも言われましたが、そんなにおかしいでしょうか?」

 クリスには、他人がそう思う理由がわからない。秘書は可愛らしい仕事なのだろうか?

「君は、他人のバックアップよりも、自分で引っ張っていくタイプだと思っていたからな。隠れた一面発見……というところかな?」

 グラントはチャーミングにウインクして見せた。

「そうなんですか?」

 クリスはグラントのウインクを無視してそう言った。

「ところでグラント司令」

「何だ?」

「貴方のチームは今とりかかっていることはありますか?」

「?」

 グラントにはクリスの意図が分からなかった。

「いや? 特に依頼は来てないし、通常の情報収集段階だな。俺はそろそろジムに行こうと思っていたんだ」

 平和な証拠だ。

「では、私のチームを手伝っていただきたいのです」

 クリスがそう切り出した。

「何だ? 君の手に余る案件とは、実に興味深いな?」

「引き受けていただけますか?」

「やることが無いっていうのも、給料泥棒しているようで具合が悪い。強制休暇明けでまだフル回転して仕事できるような状態じゃないが、体慣らしにもいいだろう」

「それは安心しました」

 クリスがにっこり笑う。

 通信機器の横で通信を見ているビューは、背中に冷たいものを感じた。

「では、この件、お願いしますね」

 そう言って、クリスはエストンにまとめさせていた『ウイグラス星系』の案件のデータを暗号に変えて送信した。

 それを受信して解読させ、通信機の隣の機器に表示させた。

 内容を見ると、どんどん顔色が変わってくる。

「おい、クリス、これは……」

 とんでもない内容だった。

「体慣らしとおっしゃいましたよね」

 クリスが再度にっこり笑う。

 送られてきた通信文の内容は……とても「体慣らし」で出来るようなものではなかった。

「ちょっと待て! これは!」

 グラントの慌てように、グラントの首席司令補も通信文を覗き込んだ。

 その内容に、表情が青ざめる。

 確かにとんでもない内容だった。

「俺はこういうの、苦手なんだ!」

 グラントが声を張り上げる。

「苦手であって『できない』ではないでしょう?」

 クリスが微笑みながら畳みかける。

「君が本腰入れて捜査すればいいじゃないか。今の捜査を終えてから次に捜査してもいいのではないか?」

 そう言いたくなるのは仕方のないことだ。誰がこんなややこしい事件を扱いたいと思う。

「私のチームは、サンザシアン星系の件に集中させていただきます。お見せした件は、時期を逸しては取り逃す可能性があります。ですから、そちらをお願いします」

 クリスはばっさり切った。

「をい……」

 グラントは声が裏返っている。

 この案件、下手すれば「深海魚」をひっかけるかもしれないという予感があった。

 それはもちろんクリスも感じているだろう。

「君は先輩を労わろうとか、尊重しようとか、そんな思いはないのか?」

 この言葉にクリスは動かないと分かっている。分かっているが、言わずにはいられなかった。

「仕事に『妥協』はありません」

 クリスはいっそ清々しいとまで言えるように言い切った。

「クリス……」

 グラントががっくりと肩を落とす。

「何でよりによってこの『俺のチーム』なんだ? 他にもチームはあるだろう」

 愚痴を言いたい。

 この件引き受けたら、またしばらく自宅には帰れないかもしれない。

 いや、絶対帰れなくなる。

 グラントは泣きたい気分だった。

 だが、クリスは甘くない。

 そんな先輩の姿を見ても、笑ったまま動かなかった。

「他のチームも今動き始めていて、完全にフリーと思われるのはチームワンだけだったんです。今回動かした諜報部と経済査察部、そのままそっくりお渡ししますので、よろしくお願いします。逃げることはできませんので、諦めてください」

 画面の向こうで、クリスがにこにこ笑う。

 今この場に、真正面に実物が居たら、冗談半分に首を絞めていたかもしれないとそう思う。

 俺には家族と居る時間が何よりも必要なんだ!

 キッと通信画面を見て、グラントは口を開いた。

「君は俺の『家族団欒の時間』を手放せというのか?」

 これはグラントにとってとても大きな問題だった。

 恐妻家? 愛娘家? として、家族の問題は大きい。

 だが、グラントはある意味「禁句」であるその言葉を言ってしまったことに気づいていなかった。

「その『家族団欒の時間』の危機、誰が救ったと思います?」

 ギク!

 グラントの背に冷や汗が流れた。

 あの件は忘れていない、忘れていないが……。

「家庭崩壊して離婚に話が移らなかったのは、どういった経緯ででしたっけ?」

 グラントの引きつり笑いが止まらない。

 その表情を、画面を通じて見ているクリスは、さらに笑った。

 怖い!

 それは本能的な恐怖だ。

 クリスの笑みが柔らかいものから氷の笑みに変わっていた。

「私は貴方に『貸し』があるはずです。私の司令補のビューにも『借り』があるはずです。私の分については、ここで返してもらいましょうか」

「クリス……」

 グラントは言葉が出ない。

 しばらく沈黙が続いた。

 自分の主席司令補の視線が痛い。

 ゴクリと唾を飲み込んだ。

「……」

 無言で画面のクリスを見る。

 観念したその姿を見て、クリスは不敵に笑った。

「了承とのことで、よろしいですね」

 そう言葉を残し、氷の笑みのままクリスはブチっと双方向通信を切った。


 その後には、白く灰と化したグラントとその主席司令補が取り残された……。

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