悲劇と始まり
その瞬間まで、玄武も真白も気が付かなかった。
自分たちだけしかいないと思っていたこの洞窟の中に、もう一人の人物が姿を現していたことに。
黒と灰色の婚礼衣装を纏い、それを降りしきる雨でぐっしょりと濡らしたその男性は、絶望的な表情を浮かべながら何度も首を振り、今しがた真白が口にした台詞について問い詰め始める。
『私と結婚しない? 夫婦にならない……? どうしてだ? 約束したじゃないか!?』
『龍興、落ち着いて。私の話を――』
『私はこれまで君のために尽力してきた! 戦いだって、政治のことだって、慣れないながらも必死に勉強して、君の役に立とうとしてきたんだ! それも全て、真白……君を愛していたからこそなのに……!!』
『わかってる、わかってるわ! あなたにはとても感謝してる。だから落ち着いて、龍興!』
すらりとした、背の高い美男子。
それが燈たちから見た、黛龍興の第一印象だった。
平然としていれば真白とお似合いの男女なのであろうが、今はその美しい顔立ちを絶望と苦しみの色に染め上げており、美貌の半分を無駄にしている。
服や履物の汚れ具合から見ても、彼がこの場に急いで駆けつけたことは明白であり、それだけ真白のことを心配していることが判るだろう。
子供の頃からずっと想いを寄せ、互いにその想いを確認し、夫婦となる婚礼の日。
その日に妖に花嫁を連れ去られただけでなく、愛している人の口から自分との結婚を拒否されたと思い込んでしまえば、その絶望にも納得がいく。
真白を愛しているからこそ、ずっと信じ、彼女のためを思って協力してきたからこそ……その一言は、龍興の心を深くまで抉った。
今にも泣き出しそうな顔をしている彼の姿に声を詰まらせた真白であったが、これぞ絶好の機会であると思い直し、龍興を落ち着かせるような静かな声で、自分の思いを告げる。
『ねえ、龍興……! 今のあなたは戦いに憑りつかれているの。私は、もうこれ以上の戦乱は望まない。一つになった鷺宮領のみんなと、あなたと一緒に、平和な日々を過ごしたいだけよ……!! もう戦なんて止めましょう。戦いなんて、必要無いじゃない』
戦争の準備を、次なる戦いの計画を、もう止めてくれという真白の願い。
その言葉の裏には、かつての優しかったあなたに戻ってくれという龍興への切実な祈りも込められていたのだが――
『真白、真白……!! 君は勘違いしている。君の望む平和で幸福な世界を作るためには、私たち以外の全てを排除しなきゃ駄目なんだ! 君だって理解しているだろう!?』
『龍興……』
――その願いは、龍興に届かなかった。
愛する人に捨てられたという絶望と、それでも彼女の長年の夢を叶えたいという思いの板挟みになりながら、龍興は大声で真白へと叫びかける。
『私たちの土地が豊かになればなるほど、それを狙う者が現れる! そいつらを打ち払い、領地を守り、そうやって戦い続けるくらいなら、敵になる者を全て排除してしまった方が早いんだ! 全ては君の夢のため、君の理想を実現させるためなんだよ!!』
『私は……私はそんなこと、望んでない! 私はただ、あなたと一緒に――』
『真白ぉ!! ……わかってくれ、真白。これが唯一の道なんだ。平和で、幸せで、何者にも脅かされない日々を送るには、自分たち以外の全てを滅ぼすしかないんだよ!!』
『違う……! そんなの違うわ、龍興!! あなたは間違ってる! そんなことしても、誰も幸せなんかになれはしない!』
『っっ……!?』
はっきりとした真白からの否定の言葉に、龍興が眼を見開く。
驚愕と、絶望と、悲しみと……そんな負の感情が入り混じった表情を浮かべる彼へと、涙を流しながら真白が言った。
『どうして、わかってくれないの……? 私は、私はただ! 優しかったかつてのあなたと、共に人生を歩みたいと思っているだけなのに……!』
『かつての、僕……?』
『そうよ! 子供の頃のあなたは、誰よりも優しく、人を思い遣れる人間だった! そんなあなただからこそ、私は一生をかけて愛する人だと思えたの! でも、今のあなたは違う! ねえ、お願い。あの頃のあなたに戻って。優しくって、人を傷つけることなんて嫌だときっぱり言い切れた、あの頃の龍興に……!!』
自分の愛していた龍興は、幻想などではなかった。
子供の頃からずっと見てきた、優しくて暖かい彼の姿を思い返しながら、真白が必死の懇願を口にする。
だが……龍興は、涙を流しながら首を横に振ると、震える声で彼女へと言った。
『もう、戻れないさ……! もう僕は、私は! あの頃の私じゃないんだ! 君を! この鷺宮領を! 君の夢を! 守るために強くなった! 幾度となく手だって汚した! もう子供の頃の僕には戻れないんだよ、真白……!!』
『龍興、そんな……!?』
『……その妖だな、真白? 君を攫い、君を惑わせたのは、後ろにいる大亀なんだな!?』
『!?!?!?』
膨れ上がった狂気が、爆発した。
腰の物を抜き、その刃を銀色に光らせ、武神刀を構える龍興が、真白の背後で座す玄武を睨み、こう吐き捨てる。
『貴様が真白を惑わせたんだ。お前が、嫉妬に狂って、真白を惑わせた。全ては私たちの婚姻を邪魔するため、そうなんだろう!?』
『違う! 彼は関係ないわ! 彼はこの地の守り神で、私の相談に乗ってくれただけよ!!』
『守り神だって? 君は、守り神は八岐大蛇だと私や他のみんなに伝えていた! だが、目の前にいるそいつはどう見たって巨大な亀だ! 君は操られ、幻覚を見せられているんだ! それが何よりの証拠じゃないか!』
『そうじゃない! そうじゃないの! 私の話を聞いて、龍興!』
『君は下がっていろ! 真白、君はこの妖に洗脳されているんだ。今、すぐに……私が君の目を覚ましてみせる!!』
『ああっ!?』
気力を込め、刀を振るいながら叫ぶ龍興。
その一閃によって宙を舞う斬撃が玄武へと飛び、彼の甲羅の一部分を砕いた。
自分の手の中に飛んできた黒い鉱石のようなそれを握り、愛する人と恩人とでも呼ぶべき玄武が争おうとしている光景に、真白が悲痛な叫びを上げる。
『龍興! 龍興、止めて!! 彼は関係ないの! もうこんなことは止めてっ!!』
『君は、こいつを庇うのか? 君の私への想いは、その程度のものだったのか!?』
自分の想いや真白を思い遣る心を否定された龍興が、冷静さを失って錯乱してしまっていること。
真白が玄武の正体を偽り、守り神は八岐大蛇だと皆に伝えていたこと。
互いの想いが行き違い、お互いを愛しているからこその真白と龍興の行動が、お互いの想いを否定し合っていること。
それら全ての条件が、見事なまでに悪い方向で噛み合ってしまっている。
龍興からすれば、全ては真白のために行っていたことだった。
よく言えば優しいが、悪く言えば頼りない自分を変えたのも、残忍で悪辣な方法を使ってでもこの鷺宮領を守るための戦いに身を投じたのも、その先の平和な未来を創るために次なる戦いを起こそうとしたのも……全ては、真白のことを思ってのことである。
だが、真白はそんなことは望んでいない。
龍興の中に在る真白の願いと、本当の真白の願いには、大きな乖離が存在しているのである。
『そうだ、真白は今、正常じゃない。真白が私を否定するはずがない。どれもこれも……お前のせいだ!!』
子供の頃からずっと傍にいた自分こそが、真白の最大の理解者。
その自分の理解と、真白の願いが行き違うはずがない。自分以上に真白のことを理解している者がいるはずがない。
真白が自分以上に大切に想う誰かなど、存在するはずがない。
彼女が自分を否定したのも、今、妖に斬りかかる自分を止め、妖を守っているのも、全てあの大亀の奇妙な術のせいだ。
そう思い込むことで何とか自我を保ち、憎しみを募らせる龍興は、武神刀を構えると一直線に玄武へと駆けだしていった。
『駄目っ! 龍興っ!!』
『死ねぇ、妖ぃぃぃっ!!』
その顔面を貫くように、武神刀の切っ先を突き出す龍興。
玄武もまた、それを防ぐための術式を組み上げていたのだが――
『あ、ぐっ……!?』
『……え?』
『!?!?!?』
――その、両者の間に飛び込む影があった。
玄武を庇うように、龍興を止めるように、二人の間に割って入った真白は……その腹を、鋭い切っ先に貫かれ、苦悶の声を上げている。
『たつ、おき……!』
『あ、あぁ……あああああああぁぁっっ!?』
瞳から涙を、口から鮮血を……悲しみと苦しみの表情を浮かべ、感情と共に溢れさせながら、真白が龍興へと手を伸ばす。
しかし、その手は途中でぴたりと止まると……彼女の体ごと、力なく後方へと倒れていった。
『ま、真白? 真白……? ま、しろ……?』
自らの手で愛する人を斬ってしまった龍興は、呆然としながら数歩後退った。
自分が今、何をしてしまったのかを理解することを恐れているような……そんな表情を浮かべ、倒れた真白へと視線を向ける彼を見つめる玄武の瞳に、徐々に怒りの炎が燃え上がっていく。
事故とはいえ、目の前で娘のように思っていた存在を斬られた彼は、芽生えていた感情を押し殺すことが出来なかった。
その怒りを、憎しみを、真白を殺めた龍興へと向け、黒炎として吐き出す玄武。
それこそが、彼の最大の失態にして、五百年に渡る呪いの始まりとなることを、この時の彼は知る由もなかった。
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