支配完了

「り、えん……? それって、つまり――!?」


「文字通り、夫婦としての縁を切るということです。ありがたいことに私は側室ですので、正室であるよりかは簡単に離れることが出来ます。まあ、それでも面倒なことに変わりはないでしょうが……落ちぶれて世の中から見向きもされないあなたが相手なら、特に問題もなく別れられるでしょう」


「ど、どうして!? 僕がこんなに辛い状況なのに、それを見捨てるっていうのか!?」


「どうして? どうしてですって……? 笑わせないでください。私は、鷺宮家があなたから恩恵を受けるために差し出された生贄のようなもの。愛ある結婚などした覚えはなく、ただの利害の一致によって交わされた婚約だったでしょう? ……それに、あなたは私がどれだけ辛い目に遭っていようとも、他の女性の尻を追いかけて私のことなんて見向きもしなかった。それなのに、自分が辛い時に助けてもらえるとお思いですか?」


「そ、そんな、そんなぁ……」


 状況をまるで呑み込めていない内に、百合姫側からの離縁の申し立てを受けたタクトは、その言葉の内容と彼女の冷たい態度に大きなショックを受ける。

 自分に残された唯一の存在である百合姫すら、自分の下から去っていこうとしている状況の恐怖にわなわなと震えた彼は、枯れ木のようになってしまった腕を伸ばし、必死に彼女を呼び止めようとした。


「い、行かないでくれ……! もう僕には、君しかいないんだ……!!」


「お断りします。ようやく、こうして自分の幸せを掴めるようになったのです。不幸になるとわかっていて、わざわざ地獄に留まる馬鹿はおりません」


「お願いだ……! これからは心を入れ替えるから、いい夫になるから、だから――!!」


「くどい! もう私はあなたに何の情も抱いておりませぬ! 男ならせめて、最後くらいは潔い態度をお見せなさい!!」


 ぴしゃりと縋りつくタクトを叱りつけた百合姫は、彼を跳ね除けると大きな溜息を吐いた。

 小柄で非力な老人と化した彼が畳に蹲ってすすり泣く様を目の当たりにして、再び溜息を吐いた彼女がぼそりと小声で呟く。


「本当に、醜いお方。燈さまとは大違いですわ……」


「え……? な、なんで、あいつの名前が……!?」


「あいつ? 随分と大きな口を叩きますね。今や大大名の一角となった燈さまをあいつ呼ばわりとは、タクトさまはいつからそんな偉くなったのですか?」


「だ、大大名……!? なんであいつが、そんなポジションに……?」


 あの燈が、大嫌いなヤンキーが、誰からも敬われる立場に就いている。

 そのことを伝える言葉に愕然とするタクトに向け、もう何度目か判らない溜息を洩らした後、百合姫は懇切丁寧に燈の現状を教えてやった。


「燈さま……いえ、蒼天武士団はあれから破竹の勢いで功績を挙げ、幕府のお抱え武士団へと相成りました。そこでも頭角を現した燈さまたちは大名としての立場と領地を与えられ、今や大和国の重要な土地を任せられる立場にあるのですよ? そんなことも覚えていないのですか?」


「あ、あいつが、そんな……!?」


「一国一城の主となり、かつての仲間であった女性たちを妻として迎え、平和な人生を謳歌する燈さまと、何もかもを失って落ちぶれたタクトさま……同じ世界の出身なのに、どうしてここまで差が開いてしまったのでしょうね?」


「ぼ、僕とあいつに、そんな差が……!? ど、どうして、どうして……?」


「……ふぅ。まあ、もうどうでもいいことですわ。私もようやく、長年の想いを遂げられる日が来たのですから……」


「えっ……!?」


 今までで一番、嫌な予感がした。

 もうこの世の不幸を全部煮詰めて浴びせられたような絶望が心を満たしているのに、それ以上……いや、以下が存在していることをはっきりと感じさせる百合姫の言葉に、喉の奥からしわがれた声が出る。


 そうやって、認めたくない現実から逃げたいのに、どうしてもそこから視線を外せないでいるタクトの目を真っ直ぐに見た百合姫は、彼にとっては死刑宣告にも等しい言葉を口にした。


「私は、これからとなります。今の私の窮状を知った燈さまが、鷺宮家への援助と領民の生活の保障を確約した上で、私を妻として迎えたいと申し出てくださったのです。他の男のお手付きなど、本来は側室として迎えることなどしたくないはずですが……あの日より、燈さまは私のことを気に掛けてくださったと、タクトさまと共に落ちぶれていく私を見るのが心苦しかったと、そう申した上で、自分の下に来いと言ってくださいました。その度量に敬服しつつ、甘えさせていただくつもりです」


「あ、ああ、あああ……」


 百合姫の話を聞いているはずなのに、それが何処か遠くから響いているように感じる。

 それが現実のものとは思えなくて、だけど夢とも思えないで半開きになっている口から嗚咽を漏らすだけになっているタクトを置き去りにして、百合姫はおんぼろの邸宅から去っていった。


「さようなら、タクトさま。もう二度と、お会いすることもないでしょう」


 忌々し気な捨て台詞が、彼女の感情を物語っていた。

 五年もの月日を経て、英雄としての立場を利用してまで彼女を手にしたというのに、最後まで自分は彼女の心を掴むことが出来なかったのだ。


「う、うわぁぁぁ、わあああああ……っ!!」


 得られるはずの名誉も、愛も、地位も、何もかもを失った。

 最後に残っていた百合姫すらも自分を見捨て、全てを得た燈の下へと去っていく。


 ここから大逆転するだけの力なんて、今の自分にはない。

 明日の命すら知れず、なんの力も、助けてくれる人もいない自分が、燈を越えることなんて出来っこないではないか。


 こんなはずじゃなかったのに、この大和国で自分は、いじめられっ子だった過去を捨てて、英雄として生まれ変わるはずだったのに。

 それがどうして、また何もかもを奪われている? 自分が欲したものを、最後まで残っていたものまで、燈に全て奪われなければならない?


「おおおおおおぉ、おおおおおおおっ!!」


 慟哭……悲痛な叫びがこだまする邸宅の中で、タクトを慰める者など誰もいない。

 ただ、ただ……こんな人生を送るはずじゃなかったと、後悔と悲嘆にくれる彼が延々と泣きじゃくる中、再びあの声が聞こえてきた。


『わかる、わかるとも……嫌だよな、こんな人生は。何もかもを失い、落ちぶれるだけの人生など送りたくはないよな?』


「い、嫌だ! 僕はこんな惨めな人生を送りたくなんかないっ!!」


『ああ、誰だってそう思うさ……! だが、わかってるんだろう? このままじゃ今の幻が、現実のものになるってことを……!』


 いつの間にか、やよいや百合姫の幻影は消え失せていた。

 しわがれていた自分の体も元に戻り、周囲の光景もおんぼろの邸宅から豪勢な鷺宮家の客室に変化している。


 今、自分が見たものが幻であったことに安堵したタクトであったが、謎の声が言う通り、このままではそれが現実になることを確信していた。

 その惨めな人生を回避すべく、必死になって声の主に縋る彼に向け……悪魔が、甘い囁きを口にする。


『変えて、やろうか? お前の惨めな、人生を……!! それが出来るだけの力を、くれてやろうか?』


「ち、力……? それさえあれば、虎藤にも勝てるのか?」


『勝てるとも。お前から全てを奪うあいつを倒し、逆にあいつの手にしているもの全てを奪い尽くせ。女も、富も、婚約者の心も……力さえあれば、全てお前の望みのままだ』


「力……! 力、力、力っ!! それさえあれば百合姫も、やよいも、大名の座も、全部僕のものだっ!! あいつが僕から奪ったもの、全部取り返してやるんだっ!!」


 完全に、タクトは狂っていた。

 正体の知れない謎の声を信奉し、嫉妬と怨嗟の感情を燈へとぶつけ、自分の行動は正当な復讐であると自身の行動を正義と思い込み……そして、彼にとっても、この家の人々にとっても最悪の決断を下してしまう。


「くれ、僕に力を……! 全てを手に出来るだけの、力をくれっ!!」


『ひ、ひひひ……っ! あははははははははっ!!』


 狂ったタクトの叫びと、狂ったような何者かの笑い声が、高らかに響く。

 力を求め、謎の存在に屈したタクトを包むように生み出された黒い煙が大きく開いた彼の口から、鼻の穴から、目から……じわじわと、内部に入り込んでいく。


「あがっ!? が、ががががが……っ!!」


『あはははははははっ! はーーっはっはっはっはっ!! まったく、馬鹿な男だ! こうも簡単に我が手中に堕ちるとは……!!』


 本当に……自分はツイている。まさか、こんなにも魂の波長が合う人間と巡り合うことが出来るだなんて、思ってもみなかった。

 しかもこいつは真白を我が物にしようと手を尽くしていた自分の邪魔をする連中を排除してくれた。

 あの蒼天武士団とかいう連中もじきにこの領地から去るようだが……タダで帰しては、自分の気が済まない。


 もう、遠慮する必要などない。真白だけを残し、この土地の全てを滅ぼしてやろう。

 我が宿願を果たす手助けをしてくれた連中はこの男と同じ操り人形とし、残りの連中は皆殺しだ。


 そのために、あとほんの少しだけ時間がいる。

 それまでの時間稼ぎは、この男に任せるとしよう。


「い、ひひひひ……! ゆり、ひめ……! やよいぃぃ……! ぜんぶ、ぜんぶ、ぼくのものぉ……! じゃまするやつは、みんなころすぅ……!!」


 精神を弄り、欲望を剥き出しにして、ついでに人体の制御機能リミッターを外してやる。

 これで、この操り人形も多少は使えるようになったはずだ。あとは、好きなようにやらせればいい。


 まあ、碌な末路は迎えないだろうが……この男のことなど、どうなったって構いはしない。

 あの日からずっと続く、五百年の悲願を果たすために、利用出来るものを利用するだけだ。


『待っていろ、真白……! すぐに、迎えにいくからな……!!』


 黒い靄の中に潜む何者かは、それだけを残して再び虚空へと消え去る。

 ゆらり、ゆらりと覚束ない足取りで歩みながら、完全に意識を乗っ取られたタクトもまた、部屋を出ていくと妖の望みのままに行動を開始するのであった。




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