第210話 持つべきものは
〇
お店から家に帰るまでの三十分間は、何も覚えてません。口のなかに広がっている去り際に飲み干したコーヒーの苦みと、瞼の裏に苦しそうな表情で話す八色さんの姿が残っているだけです。
十二月の凍えるような寒さは、何もかもを凍らせてしまったみたいで、家に入るまで、不思議と涙は流れませんでした。……いえ、東京の道のど真ん中で泣きだしたら、それこそ泣きたくなるようなことになるから、なんとか我慢していただけ、っていうのが正解かもしれません。
凍みなんてできるはずがない歩道のアスファルトだけを見つめ続けて、逃げるように暖かい自宅に入ります。
「おかえりー円。お昼ご飯はー?」
リビングからお母さんのそんな声が聞こえてきますが、正直今はご飯なんて気分じゃないです。
「……た、食べてきたからいらない」
「あら、そうー?」
そもそも誰かにこの顔を見られたら、何かあったの? って余計な心配をさせてしまいます。……コミュ障ぼっちは人に心配されることを恐れるのです。
まっすぐパタンと自分の部屋の扉を開けて、するするとへたりこむように勉強机につきます。
「……ちゃんと、覚悟してきたはずなのに……」
頬を天板に擦るように机に突っ伏して、ひとりごとを呟きます。もはや、何の意味もない。
「……私のほうが、先に好きになったはずなのにな……」
早さなんて関係ないのは、漫画で嫌というほどわかっているのに。
「……もうちょっと、早く勇気を出してたら……何か変わっていたのかな……」
想像するだけ無駄なのに、たらればのあったかもしれない未来を頭に思い浮かべてしまいます。
「……うう……」
考えれば考えるほど、後悔とか嫌悪感とか、そういったマイナスの感情ばかりが押し寄せてきて、何もかも、放り投げたくなります。
「……ぅぅぅ……」
そんな気持ちが幾重にも積まれて、もうどうしようもなくなったとき、机の上に置いていたスマホが元気よく着信音を鳴らし始めました。
それにハッとなった私は、慌てて時計を見ます。
うっ、浦佐さんとの約束の時間だ、ど、どうしよう、まだ何も準備してないよ。
「もっ、もひもひっ」
けど、悲しいかな普段のバイトで電話を持つときに、三コール以内で出るように習慣がついてしまっているので、見切り発車で私は応答してしまいました。
「あ、円ちゃん、どうもっすー。ちょっと早いけど電話しちゃったっすよー」
「うっ、うん、ちょ、ちょっと待ってね」
忙しなくバタバタと机の上に筆記用具だったりルーズリーフだったり、赤本を置いたりして始められるようにします。
「あれ? 珍しいっすねー。円ちゃんが電話してから準備するって。どこか出かけてたんすか?」
スピーカーモードに切り替えて手元から話したスマホから、浦佐さんのそんな声が聞こえる。
「え、えっと……えっと……」
別に、ただ八色さんと会っていた、そう言えばいいだけのはずなのに、なかなか口がそう開いてくれません。それ自体に、何もやましいことなんてないのだから。
「えと……えと……」
言ってしまったら、堪えていたものが、溢れそうな気がして。
「……? どうかしたっすか? なんか変っすよ? 円ちゃん」
「い、いや……な、なんでも、ないよ……?」
ふいに、鼻の奥が、ツンと痛くなります。……辛い、とても辛いものを食べたあとに来る、あの痛みだ。……鼻を強くかんだときに感じる、あの痛み。
……思い切り、泣いてしまうときに抱いてしまう、あの痛みだ。
必死に普通のままでいようとするけど、どうやらそれは浦佐さんには通用しないみたいで。ちょっと怒った調子の声が、耳に入る。
「……どれくらいの仲だと思ってるっすか? 円ちゃん。あまり自分を見くびらないで欲しいっすね。……さては、太地センパイと何かあったんすね? 涙我慢しているの、バレバレっすよ」
うう……。どれだけ誤魔化していても、浦佐さんには一瞬で気づかれちゃうよ……。
「大体、円ちゃんが笑うのは漫画かセンパイ絡みっすけど、円ちゃんが泣くのはバイトでミスをするか、センパイ絡みって決まってるっす。……バイトなんて入ってない円ちゃんが泣く理由は、もうひとつしかないっす」
「……ひっぐ……うう……」
私のことを、一番わかってくれているのは浦佐さんだと思う。……私の唯一の友達だからっていうのも、あるんだろうけど……。
「……センパイと、何があったんすか?」
そんな、唯一無二の友達が、そっと優しく私に尋ねてきます。
「……や、八色さんに……振られちゃって……」
私よりずっと小さいのに、私より色々なことを考えていて、勉強はちょっと弱いところもあるけど、頭はよく回って……賢くて……。
「……へ? ふ、振られた……って、へ?」
でも、浦佐さんでもすぐに私の言葉を理解はできなかったみたいで、少しの間、通話のノイズだけが、私の部屋を漂った。
「……そ、そうなんすね……。そっか……センパイは、そういう、選択をしたんすね……そっかそっか……」
すると、電話口の向こう側から、何やらごそごそと動き回る物音がし始めた。カバンのチャックが開く音だったり、筆箱や参考書をしまう音だったり、そんな音が。
「……う、浦佐さん? ど、どうしたの?」
「今から、円ちゃんの家行ってもいいっすか?」
「え、え……? で、でも……」
「いいっすね? どうせもう予定ないんすよね?」
有無を言わさぬ勢いで浦佐さんは、スマホから出かける支度を整える様子を音声で中継し続けます。
「う、うん……」
「友達が泣いているのに、ああそうっすかで済ませるはずないっすよ? 着替えも持っていくっすから、今日は泊まりっす」
「えっ、え? と、泊まり? そ、それはさすがにお母さんに聞かないと──」
「──それじゃっ、一時間でそっち向かうっす。待ってるっすよー」
「ちょっ、うっ、浦佐さんっ……あ、き、切れてる……」
私がスピーカーモードのスマホにそう言ったときには、既にロック画面が映し出されていて、通話は終了していた。残されたのは、呆けた私の涙ぐんだ顔だけでしょうか。
ちなみに、浦佐さんは宣言通り、一時間ちょっとで私の家に押しかけてきた。両手には、途中で買い込んで来たのか、お菓子やジュースのたくさん入ったレジ袋を提げて。
……多分、私を励ますためだけに、わざわざ一時間かけて、私の家に来てくれたんだと思う。玄関を開けたときの浦佐さん、肩で息をして、ぜえぜえになっていたし。
……浦佐さんが、友達でよかったって思える、一番の瞬間でした。
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