第204話 愛唯と呼ばれる日
「電気、消しますね」
部屋の電気の権利すら水上さんに奪われた僕は、くんずほぐれつのあれこれを経て、僕が水上さんにあすなろ抱きされるような形に。背中には水上さんのそこまで大きくはないけど確かにある女性特有の膨らみが押しつけられている。落ち着け、落ち着けよ。しっかりと耐えろ、ゆっくりでいい、ゆっくりでいいからちゃんと耐えろよ。
ここでピクリとでも反応すると水上さんの思うつぼというか、負けな気がするので、頭のなかで羊ではなく、知っている作家さんを五十音順に並べるという虚無な作業を始めた。
は、いいけど。
「ひぅぅっ、みっ、水上さんっ?」
突如、僕の耳にフッと息を優しく吹き始めて、井野さんもびっくりのリアクションを取ってしまった。
「……心ここにあらず、みたいな雰囲気を感じたので」
電気を消したと言っても豆球は残っているので、振り返って水上さんが子供っぽい笑み半分、ちょっと大人っぽい笑顔半分、という表情が目に入る。
「そ、そっか……あははー……」
えーっと、五十音はどこまで行ってたっけ……。あいうえおか……はい、次はきで、えーっと、えっと。あ、井野さんのお父さんのペンネームが「き」で始まったなあ。
「ほわっつ」
綺羅野亜衣という文字を浮かべた瞬間、今度は耳たぶに生温かい感触がする。ぬるめのお湯のお風呂に入ったときくらいの心地よさが、耳たぶという局所に発生する。
こ、これは……甘噛みってやつですか……? 数秒ほどして、彼女の口は僕の耳から離れた。どこか温く湿った感覚が抜けないけどね。
「……こんなすぐ近くにいるのに、意識されてないって思うと、ちょっと悔しくなるんですよね……」
見えていないけど、恐らく今彼女の口は僕の背中を突き刺す勢いでとんがっていることだろう。
「……そ、そういうわけじゃなくて……意識しているから意識していないっていうか」
どういうことだよ。自分で言うのもなんだけどどういうことだよ。
「……それはつまり、今私で興奮しそうなのを我慢している、という認識でよろしいですか?」
大体正解です、はい。
図星を突かれたので、僕は力なく水上さんに背を向けたままコクリと首を縦に振る。いや、寝そべっているからこの場合は横なのかな。……どっちでもいいや、もう。
「それを聞いたら、ちょっと満足しました」
すると、一転安心したように水上さんは穏やかな声で呟き、今度は優しい動きで両の手を僕の手に繋いできた。
「……み、水上さん?」
「……本当は今すぐ八色さんと繋がれたら一番いいんでしょうけど……、今こうしているだけでも、私は満足です」
繋がるっていうのはつまりあれをああでああすることなんですよね。それは本当に勘弁してください。(まだ)彼女でもない子にそんなことしたら罪悪感で死にたくなるし倫理的にどうなの? 成人しているとはいえ。
さっきの耳たぶとは違って、じんわりと、ゆっくりと、水上さんの体温が手のひら越しに伝う。指一本一本まできちんと絡める恋人繋ぎまではいってないけど、確かに、確実にシーツの温度は上昇している。
「……そうだ。井野さんもいないことですし、この機会に水上さん、から愛唯って呼んでいただいてもいいんですよ?」
調子が出たのか、さらに水上さんは優しい口調でされど攻勢は強める。……なんだろ、この真綿で首を絞められるような感覚は。
「いや……それは……その、ハードルが……」
「でも井野さんには円って名前で呼べるんですよね……?」
「え、えっと、ご両親の前だと必然的に名前で呼ぶことになるから仕方ないみたいな……?」
「では、八色さんも私の親に会いますか? 『いい人見つかった?』ってたまに実家からかかってくるんですけど……」
聞きかたが二十代後半の結婚適齢期を迎えた娘さんに対するそれ、な気がするんですが。あと、「彼氏できた?」ではなく、「いい人見つかった?」って聞くあたりが水上さんのご両親らしいというか。いや、会ったことはないんですけどね……。
「ちょ、ちょっとそれは心の準備が必要かと思うので……」
本気で婚約指輪用意して行かないと東京に帰れなさそう。
「じゃあ、今から練習しちゃいましょう」
「え、えっと……。あ、あーちゃんじゃ駄目でしょうか……?」
「私はそれでもいいですけど……私の親の前でもあーちゃんって呼ばれるんですか?」
幼馴染かよ。それか長年の友達か。初対面の親御さんの前で娘さんをあだ名で呼ぶなんて普通じゃあり得ない……。
あれ? これ誘導されてない……? 愛唯って名前呼びもさせられるし、親にも会いに行かされそうになってない?
「そ、それは……」
誘導尋問(果たして尋問なのか? これは)の怖いところって、表向きは正論だから頭が真っ白になると何も反論できなくなるんだよね……。
「……それに、彼女じゃない女の子の名前呼べないって言い訳も通用しませんからね? 今日、井野さんのこと名前で呼んだんですから。ご両親の前でもないのに」
「うっ……」
こうなるんだったら、もっと別の方法を探して井野さんを起こせばよかった。
「どうしても呼んでくださらないなら、またキスマークが増えちゃいますよ……? そうですね……次は頬っぺたとかにしましょうか……?」
キスマークだったら平気な顔で増やしそうだ……。朝起きたら全身痣だらけ……ではなく、キスマークだらけ……。そっちのほうが軽くホラーだ。
「わ、わかった、わかったから。ちょ、ちょっとだけ待って……って、え……?」
僕がベッドの上で覚悟を固めていると(こう書くと意味深)、僕の体がくるっと水上さんによってひっくり返されて、顔と顔が見つめ合う形になった。お互い横になったままで。
「せ、せっかく名前を呼んでくださるのに、顔が見えないのはもったいないって思って……」
豆球は残っているので、至近距離であれば顔もはっきりと目に映る。普段水上さんがお化粧をしているかどうかは知らないけど、確実にすっぴんの顔が間近にあって、僕の心拍数は急上昇。
「んんんっ……」
「……八色さん、顔真っ赤ですね。そんな八色さん見られるのもなかなかレアです」
ニコっとふんわりした笑顔を浮かべる。……そ、その笑顔は反則……。普段大人っぽいのにこういうときだけ笑顔幼くなるの反則。
「……あ、……あ……」
「……あ?」
あと一文字なのに、なかなか音にすることができない。……やっぱり、それだけ女の子の名前を呼ぶのには覚悟がいるし、緊張もする……。
「……ご、ごめん……や、やっぱり許してください……」
駄目だ、口から内臓が飛び出そう……。
残りの一文字を言う前に心臓がはちきれそうになり、僕はギブアップの声をあげる。
水上さんは肩で息をつき、「……仕方ないですね。八色さんのレアな表情を見れたのでこれで許してあげます」と言って、流れるように僕の唇に彼女の唇を合わせて、僕の胸元に顔を埋めた。
「……おやすみなさい、私はもう寝ますね」
う、うん。の一言も上ずってしまいそうで、僕はなすがままになっていた。
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