第130話 前途多難

 そのまま水上さんは僕の隣に座って、気難しい顔で何やらスマホの画面を眺めている。

「……な、何見てるの? そんな表情して」


「いえ……今月の給与予想です……ちょっと今月出費がかさんでいるのに、さらに増えそうなので大丈夫かな……って」

 レンタルバイクに昨日の宅配だけでかなりの支出ですものね……。


「……まあ、八色さんのためでしたら多少赤が出ても……」

 ん? その赤ってマイナスってこと?

「いや、そんな企業の会計じゃないんだから月間の収支がマイナスになるのはいくらなんでも……」

「いいんです。今度のも、八色さんのためですから」


 今度、のも……? 聞いちゃったよ? 聞いちゃったよ? 今度も何かするんですね? 予告牽制球されちゃったよ。

 口を半分開けて呆然とする僕に対して、水上さんはどこか不敵な笑みを浮かべている。


 ……今度、ってことは、きっと井野さんとのキャンプってことだよね……? その日は水上さん出勤のはずだけど……でもこの間のお見合いでバイクレンタルして突撃するような子だし……。また同じようなことをしても……。

 考えただけで寒気がする。


 なんか、こう、これだったら下着見せつけられたり胸を押しつけられたりするほうがまだマシなのではないかと思えてきた。……さすがに襲われるのは嫌だけど。

 感覚が麻痺しているんだろうな……。きっと。


「あらあ水上さん。何のサイト見ているの?」

 そういえば久し振りに顔を見たかもしれない。宮内さんが売り場からスタッフルームに戻ってきた。まあセールが終わった後は研修とかエリア会議でお店にいない日も多かったからね。仕方ない。


「……ちょっと、まあ」

 ん? どうして顔を少し赤らめさせた。宮内さんは画面を覗きこんでは、少しだけ表情を緩めさせて、


「あらあらまあまあ。でもねえ、ハタチ前後って一番持て余すものねえ」

 ……いやーな予感がするんですけどこれ大丈夫? っていうかナチュラルに話に入っているけど宮内さん男性だよ一応。っていうかこの一瞬で見ているサイト変わったの?


「そういうのは、ほどほどにしておいたほうがいいわよお。さ、ワタシちょっと他店に行って在庫貰ってくるからお店空けるわね。何かあったら社員の携帯にかけてね、太地クン」

「……は、はい……わかりました」


 もう何の話をしているかは大体察しがついたけど、ほんとに踏み込むと戻れなくなりそうなのでそれだけ返事をしてあとは聞かないでおくことにした。


 出費って……それの出費もあったりするんですか? やっぱり、さっきの下着とか胸とかのほうがマシって話は、なしの方向で……。

 色々発散してこれ、ってことらしいから……。やっぱりタガが外れるとまずい。


 と、まあそれからのバイトや日々はある程度平穏に過ぎていった。いや、うちのお店の平穏とは、仕事中に鼻血を出す店員がいても、仕事中に煽りあって喧嘩をする店員ふたりがいても、平穏と定義することになっているのでもはや毎日がエブリデイってくらい平穏だ。……最近僕疲れている気がするんだよね。つい最近夏休みを取ったはずなのに。それくらい労働環境が酷いってことのなのかな……。


 そんなふうにして迎えたキャンプ当日。僕は井野さんに午前十時に武蔵境駅で待っていて欲しい、ということだった。


 動きやすい格好にリュックサックを背負って、迎えの車が来るのを待っていると、軽くクラクションが鳴らされた。音のほうを見ると、運転席の窓が開いて、

「ごめんごめん、お待たせー」

 陽気な様子で僕に声をかける井野さんのお父様の姿があった。


 僕はお父様が運転するミニバンに近寄っては、後部座席に乗せさせてもらう。運転席の後ろでは、井野さんが青白い顔で窓の外をボーっと眺めていた。

「やっぱり普段行かないところだと道に迷っちゃってね。少し遅くなっちゃったよ」


 ……そう言いつつきっかり約束の時間ピッタリには来ていましたけどね。というか。

「空調どう? 寒くない? 暑くない?」

「いえ、これくらいで平気ですけど……」

 ねえ……軽くデジャブな気がするんですが……。


「よし、じゃあ八色君も拾ったことだし、出発しますかー」

「いやっ、えっ……」


 運転席の後ろであなたの娘さんが今にもリバースしそうな顔色をしているんですが大丈夫ですか?


「あっ、円。吐きそうになったら備え付けのビニール袋にお願いねー。レンタカーだから汚すと大変だから」

 ……通常運転だというのか。これで。

 車は動き出して、カーナビの音声案内に従って走行している。


「いやー、円よっぽど今日が楽しみだったみたいでね、朝からあくびばっかり。そうしたら案の定こうなるよ」

 寝不足なところまで全く同じだと言うのか……。


「大丈夫……?」

 グロッキーにグロッキーを重ね合わせてその上にさらにグロッキーを塗ってみましたってくらい顔色は死んでいる。力なく顔を僕のほうに振り向いて、

「だ、大丈夫です……た、たぶん……」

 もう絶対に大丈夫じゃないだろって声色で返事した。


「ち、ちなみに今日はどこまで行くんですか……?」

「奥多摩だよ」

 まあまあ距離のあるところ! それまで井野さんはもつのか……?


「ひぅっ……」

 ……駄目そうだ。これ。前途多難だよ。


 とりあえず井野さんの背中をさすってあげて、どうにかして車内リバースだけは回避する方向で行きます。……お父様も車止めないあたり、きっとトイレでゆっくり吐いても変わらないことを知っているのでしょうね。きちんと船の穴を塞いでから川を渡るより、オンボロの舟にモーターを無理やりくっつけて全速力で川を渡ったほうがいい、というか、

「……多分船の穴が塞がらないんだろうなきっと……」


「ん? 何か言ったかい八色君」

 ミラー越しに映るお父様の屈託のない笑顔。……多分これは伝わっているな。


「円は小さいときからこんな感じでね。楽しみなイベントの前日は眠れないんだ。それで、乗り物に乗ると酔って吐きそうになるっていうのがお約束。僕もお母さんも慣れちゃったんだ」

「いえ、僕ももう知っているので……」


「あれ? 円って八色君の前でももう吐いたことあるの? ごめんね、びっくりしたよね」

 吐いたことあるというかむしろそれ以上というか……。はい。井野さんの汚物処理はもう経験しております……。


「ぅぅ……」

 なんて話していると井野さんが丸めた背中をうねらせる。


「ってちょ、井野さんストップ、ストップっ! 袋っ! 袋おおお!」

「ははは、八色君がいて助かったよ。おかげで運転に集中できる」


 イベント前日はちゃんと寝てくれええええええええ! 井野おおおおおお!


 ……ハンドルがあれば殴りつけたい局面だったけど、ここは後部座席なので仕方なく僕は自分の膝を殴っておいた。……無事についたかどうかって? そんなことはどうでもいいだろう?

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