第121話 八色先生
「め、珍しいですね、このくらいの漫画の出し値だったら、八色さん自分で決めているのに……」
手元に積み重ねられた漫画を数冊見ながら、井野さんは不思議そうに言う。
「……まあ、ちょっと舞台演出に興味が湧いてね……」
「……ぶ、舞台演出ですか……?」
「就職先の仕事が嫌になったら、演出家でも目指そうかなあ」
冗談だけど。根も葉もない冗談だけど。というかこの程度の気遣いで演出を名乗ったら怒られそうだ。うん。
「や、八色さんでも嫌になることってあるんですね……?」
漫画の出し値(販売価格)をパソコンで設定しながら、カチカチとラベルを印刷する井野さん。
「そりゃ僕だって人間だからねー。嫌になることくらいあるよー。収拾のつかないボケの応酬とか、ボケの応酬とかボケの応酬とか」
「……す、すみません……ぅぅ……」
発行したラベルを貼りつけながら井野さんは小さくなる。……わかっちゃいるけどなんとやら、ってやつか。まあ、この子の場合、性癖に正直なだけだからなあ基本。ほんと、とことん性癖に正直。
「まあまあ。もうここの店員がまともじゃないのは織り込み済みだから多少のことじゃなんとも思わなくなってるから大丈夫だよ。基本は」
「そ、そうですか……よかったです……」
「ただまあ、僕に関して根も葉もないことは言わないでもらえると非常に、ひじょうに、ひじょーーーーーーうに助かるんだけどなあ」
「ひっ、ひぃぃん……す、ずみまぜえええん……」
なんだこの半分パワハラみたいなやり取りは。でもまあ、定期的に釘を刺しとかないと、まーた井野さんは変なこと口にするから、これくらいでちょうどいいでしょう。多分。
「……あ、あの、私はいつまでここにいればいいんでしょうか……?」
「演出家がいいって言うまで」
「……八色さんって、いつから演出家になられたんですか?」
「……普段ボケなのにこういうときだけ素で突っ込みを入れるのやめない? 僕が恥ずかしくなるからさ」
「す、すみません……」
というかもとは井野さんも突っ込み役なんだけどさ。
なんて無意味な時間稼ぎをしていると、本当に二巻があったようで、色々な意味でスッキリとした表情をした八木原君がレジへと帰ってきた。
「八色さん、ありがとうございましたっ。八色さんのおかげで、色々解決しましたっ、今度から、先生と呼んでもいいでしょうかっ」
「…………」
「せ、先生と生徒……の禁断の関係……ひゃうぅん……」
「……おいそこの腐女子、場をわきまえろ。あと仕事戻れ」
「……ドS教師と生徒っていうのもありですぅ……」
鼻血をポケットティッシュで押さえながら井野さんは売り場へと戻っていこうとする。……出血したまま売り場に戻る人がいるかよ。もうなんでもいいや。僕は知らない。
「あ、あの……さっきの子は大丈夫なんでしょうか……?」
井野さんを軽く指さしながら、八木原君は僕に聞く。
「ああ、うん。あれはいつも通りなんで大丈夫ですよ。よかったですね、二巻あって」
「はい、それもですけど……全部先生のおかげですっ」
「ああ、いや……僕は別に何も……そ、それに先生って呼びかたはちょっと……」
色々問題がありそう……。確かに僕が二年早く生まれてるけどさ……。二年じゃ先生っていうより先輩だよね? 普通……。
漫画の販売も終えて、レジ袋片手に八木原君はお店を後にしようとする。
「それでは、また新宿に出ることがあればお邪魔します。ありがとうございました、先生」
「あっ、だ、だから先生って呼びかたは……聞いてないし……」
あれか。類は友を呼ぶって要領で、店員がボケならお客さんもボケってことか?
……なんか寒気がしてきた……。今まで普通にレジを打ってきたお客さんも、関わりを持つともしかしたら小千谷浦佐井野なんか目じゃないくらいの痛烈なボケをかますのでは……?
知らなくていい事実を知ってしまったかもしれない……。
今度から特定のお客さんと親しくするのはやめておこう。もう僕のボケの許容量は限界スレスレ。これ以上増やされてたまるか。大して仲良くないのにボケてくるお客さんもいるのに。「通貨はペソでいいですか」とか「大きな声を出すな、組織に見つかるだろ」とか真顔で言ってくる常連さんは何人かいる。……初めて会ったときは面食らったけど。
あれ? やっぱりここの店って普通じゃないのか……?
閉店後、まだ呆けている井野さんはそこそこに放置して、僕ら三人はお店から新宿駅に向かっていた。
「……先生×生徒……定番ですけどそれもまたありですう……。しかもどちらも本物ではないのもポイント高めです……はわわ……」
なんてうわごとが聞こえるけど僕は何も聞いていない。性癖に正直なのは大変すばらしいことだと思います、あとは、それを誰かに迷惑かけないように生きてもらいたいですね。ええ。
井野さんが一番手前のホームすら通過して僕らについていきそうになったので、高円寺に向かう十六番線に上がる階段に放り込んで先を進んだ。……さすがにこれ以上相手していられない。
残った僕と水上さんは、先にある中央線のホームと埼京線のホームを目指す。
すると、ふと、
「……八木原君のこと、元カレって言ったじゃないですか」
「……うん」
僕が使うホームの階段下に到達したときに、水上さんが口を開いた。
「半分嘘みたいなものなんです。あれ」
「……へー」
「……別にお互い好きだから付き合い始めたってわけじゃなくて……」
あー。なるほど。大体言いたいことがわかってきた。
「周りに流されるような感じで……よくあるじゃないですか。ふたりってお似合いだから付き合っちゃいなよ、みたいなノリが出ることって……。私と八木原君って、そんな感じで始まった仲だったんですよね」
たまに聞くわ……。どちらかと言うと少女漫画チックな展開。
それで半分嘘で半分本当ってわけか。
「なので特別これといった何かをしたわけでもなくて、それに受験期だったので、そんなつもりも全くなくて……。今までもちょっとよく話す男友達くらいだったので、何かよくわからないままで」
……関係の名前だけ先に進んじゃったケースか。気持ちが全く追いついていないから、困惑しちゃうやつ。
しかも、それで八木原君のほうは現役で大学入って、水上さんは浪人して、で、足枷だった受験が片方だけ終わってしまったら……。
何が起きるかというとまあもう想像がついたよ……。
「彼は大学生で私は浪人生で、しかも私は地元、彼は筑波で距離も遠くなってで……客観的に見ても、無理に関係を続ける意味もなかったんですよね。結局、自然消滅に近いような形で、八木原君からラインで一言『終わりにしよっか』って来て」
……しかしまあ、そんなのを浪人中に聞かされたらまともでいられる自信がない……。
ああ、それでか……。あーちゃんが水上さんになったっていうのは……。
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