第16話 たいへんな状況になりました

 翌日。この日のシフトは僕、水上さん、井野さんの三人の予定だ。そろそろ水上さんの研修も終盤に差し掛かって、いつ昇給させるか、ということを考える段階にまで来ていた。大体三十から四十回出勤して研修が終了するのが普通のペースのなか、四月頭から入って週四勤務で五月半ばの段階でここまでくるのはかなりのスピード出世だ。大学生だし今後夜番の核となるスタッフになることはほぼ間違いない、と思う。


 ……仕事はできる子だから……水上さん。

 とりあえず、今日ひと通りちゃんとオペレーションをこなせているかざっと確認しちゃって、できているようならパパっと上げちゃおう。こなせる仕事に対していつまでも昇給できないと、バイトのモチベーションも下がっちゃうし……。

 なんて、出勤前に考えていると、何やら電話で話している宮内さんがスタッフルームに戻ってきた。


「ええ、ええ、わかったわ、風邪なら仕方ないわ。太地クンには私から伝えておくから、お大事に」

「どうかしたんですか?」

「水上さん、風邪で熱が出たらしいのよ。だから今日はお休み」

「……宮内さん。今日何曜日か知ってます?」

「うーん、銀曜日?」


「きん、曜日です。とぼけないでください。金曜に夜番ふたりで回せって、正気ですか?」

 休憩後のアイドルタイムはどうとでもできる。やれないこと(補充)を切り捨てて売り場を守ること(レジと買取に専念する)に徹すればいい。それならカウンターにふたりもいれば十分だ。


 しかし、休憩前のピークタイム、午後六時から七時前後はそうもいかない。単純に人が足りない。しかも今日は客入りが激しくなる金曜日だ。

「大丈夫大丈夫、今日の中番はひとりだけど小出こいでクンよ。小出クンと太地クンのふたりで実質四人いるみたいなところ」


「ないです。僕も小出さんも体はひとつしかありません。ってか中番もひとりなんですか? じゃあ今日宮内さん込みで売り場はマックスで四人? 殺す気ですか」

 ……いや、まあこれを宮内さんに言ってもしょうがない。別に宮内さんが悪いのではないのだから。


「……お、お疲れ様です……」

 なんて生産性のない文句を僕が言っていると、制服を着た井野さんがスタッフルームに入ってきた。

「それじゃあ、ワタシは売り場に戻るわ。朝は人がいるから、今のうちに加工と補充を先行して進めておくから、太地クンは売り場を守るプラン立てといてちょうだい」


 そう言い、宮内さんはそそくさとまた売り場に戻っていく。まあ……わかりましたよウダウダ文句言っても始まりませんからね……。

「あ、あの……八色さん……どうかされたんですか?」

 少し怒った僕の話し声も聞こえていたのだろう、井野さんは心配そうに僕を見つめている。


「あー……水上さんが風邪を引いたらしくて……今日はお休みみたいなんだ」

「え……で、でも今日金曜日ですよね?」

「うん」

「……店長は閉店まではいないんですよね」

「うん」

「……ラスト、ふたりってことですか?」

「うん」


 すると、井野さんも状況を理解したのか、胸元に咲く制服のリボンがそっと俯いた。そして自信なさげな小さな声で、

「あ、あの……もし私ヘマをしたら……」

「大丈夫大丈夫、そんときは僕がどうにかするし──最悪宮内さん売るから」

「え」

「……それくらいの条件じゃなきゃ働いてられないよ」

 最後にひとつ、毒を吐いて来る人手不足の地獄絵図を想像して軽く身震いをした。


 予想通り、四人じゃ回るはずもなく、その日の夜はまさに猫の手も借りたい状況だった。レジも並ぶ、買取も止まらないという状況では、まあ何もできるはずはなく。僕と宮内さんでせっせと機械のごとく買取を捌いていき、井野さんと中番で勤続七年目と小千谷さんよりもベテランの小出さんにレジを守ってもらうことに。


 宮内さんもああは言ったけど仕事はできる店長だ。僕と小出さんに「ふたりぶん」を要求するなら自分は「三人ぶん」働く人だ。バイト経由で社員に成り上がったたたき上げの現場のスキルはやはり伊達ではない。


 客入りが激しいとまあトラブルも起きるものだけど、そもそもカウンターに店長・七年目のバイト・四年目のバイトと経験豊富なメンバーが揃っていて、いちゃもんつけたがりなおばちゃんが井野さんを狙ってみるも、まず隣にいる強面の小出さんに対応され、とりあえずクレームをつけたいおっちゃんもキャラと口調が濃ゆい宮内さんに対応され、と完全防御。……これ井野さんイメチェン効果が裏目に出てない? 目立っちゃってるよ。


「……混迷の極みだなあ……」

 と、そのお客さん・スタッフのバトルの様子を見る僕がぼそっと呟くくらいの余裕は残っていた。


 僕と井野さんが交互に休憩を取り、とうとう閉店までのふたり体制の時間になった。

 ただ、幸運にもその時間になると客足は引いてきて、カウンターで雑談をすることさえできる状況になる。


「……店長と小出さん、凄かったですね」

 漫画の加工をしながら、ふと井野さんが話しかける。

「うん……あの圧は僕には出せないよ。というか、むしろあの時間に来てくれて助かった……僕には無理……」

「八色さんがあんな怖いオーラ出すの、想像つきません」


 少しおかしい、というように目を細めて口元を押さえる井野さん。……普通に笑っても可愛い……。

「あ、いらっしゃいませー」

 そうしていると、緩やかになった時間のなか、ひとりの男性客が「ひぃ」とぼやきながら一冊の文庫本をレジに持ってきた。僕がレジを打っていると、


「いやー、雨ひどいねー、いきなり降ってきて災難だったよ」

 と話しかけてくる。たまーにこういう気さくなお客さんもいて、それはそれで楽しい。長くなるとちょっとあれだけど。

「え? 今降っているんですか?」

「そうそう。なんなら電車が一部止まっていたりもする」

「そうなんですね……」


 なるほど、だから混み具合が穏やかになったのか……。金曜の閉店前にしてはガラガラだと思った。

「ありがとうございましたー」

 そのお客さんも会計を済ませるとまたすぐに「ひぃ」と言いながらエスカレーターを降りていく。


「……八色さん。大変です。中央線……止まってるみたいです」

 レジも終わって井野さんのいる加工スペースに戻ると、売り場に設置しているパソコンで電車の運行状況を調べていた彼女が、顔を青くさせてそう告げた。

「……え?」


 有線だけが鳴り響く店内。今勤務している僕と井野さんの路線は……どっちも中央線だ。

 どうやら、この災難な金曜日はただでは終わってくれないみたいだ。

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