§049 「『恋人のふり』はこれで終わりよ」
「カ~プ♪ カープ♪」
俺と希沙良は市内のカラオケ店に来ていた。
通された部屋はいかにも老舗のカラオケ店という感じで、煙草のにおいが鼻につくような狭めの部屋だった。
「あはは、カープの応援歌をカラオケで歌うとかマジでウケる! しかも、ちょっとうまいところが逆にツボ」
希沙良はソファで足をバタバタさせながら、いかにも愉快そうに笑い転げている。
「うげぇ……さすがに張り切りすぎた。もう声出ない」
「確かにちょっと飛ばしすぎたかもね。私も喉が痛くなってきた」
希沙良はうんうんと頷きながら、笑いすぎによって溢れ出してる涙を指で拭う。
俺と希沙良は既にたっぷり2時間ほど歌いまくっていた。
その結果、ストレスが発散されたのと引き換えに、喉は潰れかけ、体力はかなりの割合で使い果たしてしまっていた。
「あれ? 次は希沙良の番だけど曲入れてないのか?」
俺は希沙良にマイクを渡す。
「ねえ、歌い疲れちゃったから、せっかくだしちょっとお話しない?」
希沙良は受け取ったマイクをそのままテーブルの上にコトンと置くと、俺の反応を確かめるように意味深な表情を浮かべる。
「話って?」
「うん……これからの話をしようと思って」
そう言うと、希沙良は体操座りをするように足をソファの上にあげ、テーブルで汗をかいていたオレンジジュースにチューチューと口をつける。
「おい、その体勢だとパンツ丸見えだぞ」
「紳士の未知人くんならこっちを見ないでいてくれるでしょ?」
「俺が希沙良のパンチラを見逃すとでも?」
「ふふ、ちゃんとわかってるよ。未知人くんはそんなことを言いつつこっちを見ない」
「お前、段々と俺の扱いに慣れてきたよな」
そう言うと、俺は身体の向きを変えて、希沙良から視線を逸らすように座りなおす。
「伊達に毎日あなたのことを見てないわ」
希沙良の声が少し感慨深げに聞こえる。
俺だって毎日希沙良を見ているんだからわかるよ。
今お前は俺を馬鹿にしたようにクスっと笑ったはず。
なぜだか今なら心が読めるのではないかと思うくらい、希沙良に目を向けていなくても行動が手に取るようにわかった。
さて本題ね、と希沙良が口を開く。
「『恋人のふり』をするときに決めた約束は覚えてる?」
「……もちろん覚えてる」
「あの日ふたりで決めた約束は2つ」
希沙良がスッと人差し指を立てたのがわかる。
「一つ目は『相手を恋人と思って完璧に振る舞うこと』」
「そうだったな……そして二つ目は……」
「「『期限を夏休みに入るまでとすること』」」
俺と希沙良は同時に二つ目の約束を口にする。
このルールは希沙良が言い出したものだ。
元々『恋人のふり』はクラスの男どもから希沙良を守るためのもの。
だから、本来であれば期限なんて設ける必要はないのだ。
しかし、この『恋人のふり』を始めるときに希沙良は言った。
いつまでも俺に頼ってはいられないと……。
ある程度時間が経ったら自分でなんとかしなければ前に進めないと……。
確かに、夏休みというのはカップルが別れるにはおあつらえ向きな条件だ。
夏休みは長い。
人の噂も七十五日というぐらいだ。
夏休みを挟めば、俺と希沙良に関する噂も少しは沈静化しているのではないかと思う。
それに、昨日までラブラブだったカップルが今日になっていきなり別れたとなると現実感もないし、それこそ逆に話題の中心になってしまうかもしれないが、夏休みの期間にひっそりと別れたということであれば、何の違和感も抱かれないだろう。
希沙良は本当にいろいろと考えていると思う。
そして、本当に真面目な子だと思う。
だからこそ、俺はその条件を承諾した。
俺は正直なところ、希沙良をあのクラスに一人で解き放つのは心配だった。
『恋人のふり』をするくらいなら俺は迷惑じゃないし、むしろ俺にも責任があることだから、別に期限なんか設けなくてもいいのではないかと思っていた。
でも、希沙良は「大丈夫」だと、「頑張りたい」んだと言って聞かなかった。
そこまで言われてしまったら、俺は彼女の気持ちを尊重するほかなかった。
「梅雨は明け、期末テストは終わり、もうすぐ夏休みが来るわ……」
希沙良はすべてを理解しているかのように、淡々と言葉を紡ぐ。
「だからね……」
「…………」
「『恋人のふり』はこれで終わりよ……」
俺はその言葉に思わず顔を上げて、希沙良の方を見る。
すると、彼女はさっきまでソファに上げていたはず足をいつの間にか下しており、真っすぐに俺のことを見つめていた。
希沙良の吸い込まれそうなほどに澄んだ瞳と目が合う。
「私のことを彼女にしてくれてありがとう。本当に楽しかった……」
希沙良は髪を耳にかけながら、ニコリと笑ってみせる。
彼女の見せたその笑顔は……どこまでも……寂しい笑顔だった……。
左耳には俺が初めてのデートのときに買ってあげたイヤリングが輝いていた。
希沙良はこれ以上言葉を発することはなかった。
彼女にしてくれてありがとう……。
本当に楽しかった……。
俺は希沙良の言葉を何度も何度も反芻する。
わかっていた……。
ちゃんとわかっていた……。
夏休みが来たら『恋人のふり』が終わってしまうことを……。
でも……いざこの瞬間が訪れると、こんな気持ちになるなんてことは……わかって……いなかったのかもしれない。
俺はいま途方もない喪失感に襲われていた。
さっき希沙良が見せた表情が頭から離れなかった。
ああ、俺は本当にバカだ……。
希沙良はちゃんとわかっていたんだ……。
この瞬間にどういう感情になるのかを……。
『恋人のふり』が終わるということが、俺たちの関係にどういう変化をもたらすのかを……。
俺はどこか勘違いしていたのかもしれない。
所詮、俺と希沙良の関係は『恋人のふり』であって『本当の恋人』じゃない。
別れると言っても、元々が偽物のような関係だったのだから大きな変化は訪れないだろうと、これからも二人で出掛けたり、一緒に帰ったりできるのだろうと勝手に思い込んでた。
でも、冷静に考えてみたらそれは違う……。
『恋人のふり』が終了するいうことは、希沙良が『独り立ち』するということだ。
ということは、俺と希沙良はもう関わるべきではないんだ。
俺と希沙良が『恋人』として過ごせるのは、本当にこれが最後だったんだ。
希沙良はそれがちゃんとわかってた。
だからこそ、無理を押してでもカラオケに誘ってくれて、こうやって『彼女』としてのけじめをつけようとしてくれてる。
それなのに……俺は……。
まだ希沙良の『彼氏』として何もしていない……。
俺は……俺は……。
「なあ……希沙良」
俺は気付いたときには希沙良の名前を呼び、彼女の瞳を真っすぐ見つめ返していた。
「……なに?」
俺の問いかけに希沙良の瞳が揺れる。
「ちゃんと約束は守るよ」
「……うん」
「でもまだもう1つ約束が残ってるだろ?」
「……もう1つ?」
希沙良は不思議そうに小首を傾げる。
「ほら……」
「…………」
「俺が期末テスト50位以内に入ったら希沙良が俺の望みを1つ叶えてくれるってやつ」
その言葉を聞くと、希沙良は驚きを隠せないとばかりに目を見開いて口元を手で覆う。
「もし俺が本当に50位以内に入れたら……」
「…………」
「恋人の期間を花火大会まで延長してくれないか?」
「……っ」
希沙良から感情を押し殺したような嗚咽がかすかに漏れる。
「……花火大会のこと……覚えててくれたんだ」
「希沙良が行きたいって言ったんだろ」
「そうだけど……あのときはなんというか……」
「俺は約束を守らせる主義なんだ。それで俺の望みを叶えてくれるのか? 俺は希沙良と花火大会に行きたいんだ」
希沙良はギュッと唇を噛み締めて俯く。
「…………ばか。約束なんだから仕方ないじゃない。その代わり……」
「その代わり?」
「これだけ期待させておいて、50位以内に入れなかったら本当に許さないから」
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ。追い込まれると信じられない力を発揮するタイプの未知人様だぞ」
「追い込まれるって……テストはもう終わっちゃってるけどね」
「もう少し俺を信用しろって」
「わかったよ」
そう言って、希沙良は覚悟を決めたように顔を上げると、目を細めてくしゃりと微笑む。
「……花火大会、楽しみにしてる」
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