8 頭が高い

 腐臭を放つ泥を全身にまとい、黒い液体を滴らせている。その背はピィの二倍はあり、腕は泥で作られた剣と一体化していた。


「キョオキョオ、キョオキョオ」


 口にあたる部分にぽっかりと空いた穴から、耳を塞ぎたくなるような声が漏れる。その眼窩にはギョロギョロとした目玉が埋め込まれ、不規則に動いていた。

 ――人と呼ぶには、あまりにもかけ離れた存在。ただ、瞳の色だけは、あのヴェイジルと同じものだった。


「……クレイス、ちょっと我慢してろよ!」


 ピィはクレイスを小脇に抱え直すと、大きく右に走る。

 それをケダマが刺さったままの剣が追う。しかし剣の腹がピィの胴体を刎ねようとする直前、彼女はしゃがみこみ頭上を薙ぐ剣に手を伸ばした。

 瞬きするほどの間。その間に、彼女は黒い血でピンク色の毛を染めた魔物を取り返していた。


「……ケダマ、すまない。後でちゃんと治療をしてやるから、今はここに隠れていてくれ」

「みょー……」

「うん、返事して偉いぞ」


 ピィは自分の口に含んでいた薬草をケダマに塗り込み応急処置とすると、クレイスの服の中に押し込んだ。

 そして、ヴェイジルに向き直る。奇しくも、奴もこちらを見下ろしていた。


「キョオ」


 すると突如、さっきまでバラバラに動いていた両の目玉がピィに焦点を合わせた。――ゾクリと肌が粟立つ。その目には、確かな知性と悪意が宿っていたのだ。

 そしてヴェイジルもまた、ピィの怯みを見て取った。彼は足の竦んだピィ目掛けて、突進してきたのである。


「……ッ!」


 恐怖で判断が遅れた。だがすんでの所で、彼女は身を捻り直撃を避ける。


「ぐっ!」


 が、焼けるような痛みが横腹に走った。……どうやら、僅かに掠ってしまったらしい。傷を押さえ、ピィは後ろに数歩跳ね飛んで距離を取った。

 ――やはり、クレイスを片手に抱えている状態では満足に動けない。いっそ逃げるか? 可能ならそれがいいに決まっている。

 ……しかし。


(……目を、逸らせない)


 ヴェイジルの目は、なおも弄ぶような殺気を孕んで自分に向けられていた。そこから僅かでも視線が逸れようものなら、彼はあっという間に距離を詰めてくるだろうと容易に想像できるほどに。

 嫌な汗が額を伝う。寒くもないのに寒気がする。無表情にこちらを窺う目玉が、恐ろしくて堪らない。

 ――なんだお前は。

 ――本当に、お前は人間なのか。


「……なぁ、ヴェイジル」


 名を呼ぶ。ヴェイジルは、死刑を焦らす執行人のように首を傾げる仕草をした。

 時間を、時間を稼がねば。クレイスを庇いながら、かつ魔力を封じられた今の自分ではヴェイジルを倒し切ることはできない。ならば、ヴェイジルが何らかの形で隙を見せるその時まで耐えなければならないのだ。

 でも、どうすれば。


「お前、えーと、その」

「……」

「あの……えっと」


 一歩一歩、ヴェイジルは迫ってくる。まるで、今のピィが無力であることを知っているかのように。

 そんな彼に向かって、ピィは咄嗟に叫んだ。


「お前! 生まれはどこだ!?」


 ヴェイジルの足がぴたりと止まる。届いた、と思ったピィは、急いで畳みかけた。


「じ、実は吾輩元々は人間でな! 訳あってこうして魔物になったんだ! どうだ、初めて知ったろ!? びっくりだろ!」

「……」

「で、吾輩の故郷なんだがな! ちょっとマリリンに調べてもらったら、ヨロ国の外れにある村っぽくて……あ、マリリンってのは、吾輩の友達なんだがな! そういやお前マリリンを痛めつけてたな! あれ全然許してないぞ!」

「……」


 よし、足が止まってる。ピィは、心の中でグッと拳を握った。

 ――自分には、百枚も千枚も舌は無い。だが、一生懸命たくさん喋ることぐらいならできる。

 そして、今はその悪あがきで十分なのだ。


(今のうちに、コイツの弱点を調べられないか)


 口で適当なことを喋りながら、意識を魔力感知に集中させる。ガルモデに散々叩き込まれたというのに、これだけはまだ苦手な分野だった。ピィは、かつてガルモデに言われたことを思い出していた。


『だーかーらー! ものすげぇ目に力を込めたら、体の中に流れる魔力ぐれぇ見えるっつってんだろ!』


 ……いや、ガルモデの教え方にも難がある気がしてきたな。

 けれど、やらねばならない。しかしそうやって魔力を目に集めていたピィは、突然あることに気づいてしまった。


(……あれ?)


 ヴェイジルの体内を巡る魔力の流れ方に、ピィは違和感を覚えたのだ。

 そもそも人間は、空気中に漂う魔力を取り入れ溜め込んで、自分のものとして使うことができる。一方魔物は、コアから自力で魔力を生み出している。例えるなら、人間の魔力はバケツに溜めた雨水で、魔物の魔力は池の湧き水といった所だろうか。

 だが、今のヴェイジルは前者ではなかった。人間であるはずの彼は、心臓にあたる部分から染み出すように魔力が漏れていたのである。


「……そうか……」


 この時、ピィは自分がどんな顔をしていたか分かっていなかった。ただ、頭だけは霞が晴れたようにスッキリとしていて。

 そして、目の前の腐った泥のバケモノに向かって、ぽつりと言ったのだ。


「――お前も、もう人間には戻れないのか」


 そのピィの言葉が届いた瞬間、ヴェイジルは咆哮を上げた。壁が揺らぎ、自身の傷がビリビリと痺れる。

 まるで悲鳴のようだった。初めて、ピィはヴェイジルが感情を剥き出しにしていると感じたのである。

 声は止まない。止まぬまま、彼は腐った泥を撒き散らし、がむしゃらにピィへと襲いかかってきた。


(そうか。そうなのか)


 しかし単調な動きは、読みやすい。ピィはあっさりと攻撃を躱すと、ヴェイジルを撹乱するように部屋を走り逃げ始めた。


(恐らくは、この黒い泥のせいだろう。泥と同化して、“主人に願われ”魔物に変えられてしまったのだ)


 キョオキョオ、キョオキョオ。

 耳障りな咆哮は既に恐ろしくなく、むしろ哀れさえ誘っていた。

 ……人を殺して、殺して、殺して尽くして。なのに自分は常に権力者の影に隠れて英雄を名乗っていた、卑怯者。そんな彼が、今まさに魔物に変化しようとしている、とは。


(……ならば)


 そうだ、お前が魔物となるのなら、自然と立場は決まってくるではないか。……滑稽だな。結局お前は、人の身から魔物になっても上に立つ者の影に隠れるのだ。

 ピィは足を止める。ヴェイジルは、そんなピィを追って泥の巨大で押し潰そうとのしかかってくる。

 しかし小柄なピィは体下をすり抜けると、高く跳躍した。


「……吾輩の名を知らぬか、新しき魔物よ」


 ヴェイジルに狙いを定める。


「吾輩はピィフィル=ミラルバニ。“魔物”を統べる王なのだ。故に……」


 クレイスを背負いながら、ピィは空中で一回転する。そしてそのまま、足を突き出した。


「――頭が高いわ、無礼者めが!!」


 強烈な踵落としが、ヴェイジルの脳天に炸裂した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る