領域・認識不可【イグノレア】
ゴールデンロッドシティホテルの優雅で落ち着いた雰囲気のロビー。ゆったりと並べられた煌びやかな刺繍の施されたソファに、華やかな
「――ところで、こんな格好をする必要はあるのかしら?」
紫色をした艶やかな髪を腰の辺りまで伸ばした白い肌の少女――ノエはシックなネイビーブルーの
「だって、こんな一流ホテルへの潜入だよ――? 普段着じゃかえって目立っちゃうよ」
明るい水色模様のオーガンジードレスをふわりと身に纏い、青い髪をツインテールに束ねた少女――塚本瑞穂は、小柄なその身体に高級感のある大人っぽさと背伸び感のあるあどけなさを同居させたような装いで、短くひらひらと手を振りながらノエへと応える。
「でも、
「ノエさん――戦闘中に素っ裸になったりしたら、フォローしきれないもの。ただでさえ翔真さんだっているのに――ねえ、翔真さん」
唐突に話を向けられた少年――天王寺翔真は困ったように眉を寄せた。
「それを僕に言われても、どう答えていいものやら――それより、本当にここで待っているだけで大丈夫なの?」
翔真の問いに、ノエはその微動だにしない表情を上下させる。
「ええ、ティマニタがこのホテルを中心に網を張っているのは間違いない――ほら、話しているうちに、どうやら来たみたい」
何かに気づいたノエは瑞穂へと目配せする。瑞穂は小さく頷くとすっと立ち上がり、ノエが視線を送った先へ――ふらふらとした足取りでフロントへ向かおうとしている若い女性へと早足で近づいていく。
「あの人が――そうなの?」
訝しげに呟く翔真に、ええ――と言葉を繋ぐノエ。
「ティマニタは実験のため、比較的魔力の高い人間を集めるための網を張っている。あの
翔真は気付かれないようにさりげなく、瑞穂が後を追う若い女性の様子を伺った。ふらふらとした足取りはおぼつかなく、まるで何かに引っ張られているかのように、ただ前へ前へと歩いていくだけ。顔に張り付いた表情は人形のように無機質で、その瞳は焦点が合っていなかった。
「確かに――何かに操られているようにも見える――かな」
翔真が独りごちるのとほぼ同時に、女性はフロントの前に立ち止まる。その背後を尾けていた瑞穂も静かに歩みを止め、女性の視界に入らないよう注意を払いつつ、前方の様子を伺った。
「当たりね」
ノエは音もなく立ち上がると、側にいる翔真ですら聞き取れない程の小さな声で呟いた。
「――扉が開くわ」
若い女性はフロントカウンターに立つ受付係の真正面に、ゆらゆらと陽炎のように立ち、そして口を開いていた。
「……
女性の口から放たれたのは、まるで呪文のような意味不明な言葉。
その時だった。
女性のちょうど真上にあたる部分の天井が、ぬるりと飴細工のようにとろけ落ち、彼女の頭上へと落下したかと思うと、その全身をすっぽりと飲み込んでいた。
それは、あまりにも一種の出来事。まばたきする暇も無く、ロビーにいる他の客にも一切気付かれる事なく、女性の姿は透明なベールに包み隠されるように、消えて――。
「――今よ、
響き渡る鈴の音のようなノエの声を合図に、瑞穂は腰に付けている剣化の魔術を帯びたキーホルダーに手をやり、僅かに反りのある片刃の刀剣として一気に振り抜いていた。
瑞穂の青いツインテールが、その刹那、白銀の光彩を仄かに帯びる。握り締めた刃から放たれる一閃が掠めるのは、女性の全身を飲み込んだどろりとした飴細工のようなものと、それが伸びる天井との繋がりにあたる中間部分。
次の瞬間、どろりとした飴細工は水風船のように弾ける。ざぱぁんという衝撃と音とが響き、粘性を失ったそれは、飲み込んだ女性を吐き出すようにして流れ消えた。
「こっ――ここは、どこ――あたし――何をして――?!」
ふらふらと
「――その天井を斬って――! まだ【閉じて】いないなら、
瑞穂はキッと天井を見据える。とろけ落ちてきた飴細工のような何かがべったりと張り付いて、しかしそれは断ち切られたことで異変を察知したのか、ずずずっと天井の中へと吸い込まれるかのように、まるで退こうとしているかのように見えた。
ノエの言葉のままに、第2斬を放たんと瑞穂は握り締めた刀剣に力を込める。
「――イ――
不意に聞こえる、電子音のような声。ちらと横を見た瑞穂は、フロントに立つ案内係がまったく無表情のまま腕を突き出し、その先端を――魔術によって変化した銃口のようなものを自身へと突きつけていることに気付いた。銃口には光が満たされ、今にも放たれかねない何かしらの攻撃のその矛先は、瑞穂の頭部へと定められている。
ドンッ――。
つんざく銃声。その頭部は
「――それは防衛用の
脳天をぶち抜かれて倒れた案内係の残骸を、呆気にとられた表情で見つめていた瑞穂は、ノエの言葉でふと我に返った。ロビーにて離れて立つノエは、手を伸ばし、指先をピンと張って、その先から硝煙のように白い煙を立ち昇らせている。案内係に偽装した防衛用の
「あ、ありがとう。ノエちゃん」
「いえ、こんなことに巻き込んでしまった以上、
瑞穂は口元をふと緩ませて頷いて見せると、即座に性格を切り替えたように鋭い目つきで上方を見上げた。
「あれが――結界の一端――!」
天井に吸い取られるかのように消えつつある、どろどろの飴細工のような――空間の歪み。
「そう――ティマニタがこのホテルを拠点にするために展開した
ノエが言い終える前に、轟音と共に天井が崩壊する。白いツインテールの少女が薙ぎ放った閃刃が、天井に張り付きそのまま消えつつあったどろどろの歪みを、根こそぎ掻き切るかのように斬り裂いていた。
「――そう、唯一の例外は、領域外への干渉時。
斬り裂かれた天井から、滝のような音を立て、水飴のような透明でどろどろとした異物が溢れ出て流れ落ちる。その異様な音と光景にロビーにいた人々は、ホテルの従業員も客も関係なく皆、悲鳴を上げて一目散に逃げ出していく。
ノエは出口へと殺到する人々の隙間を縫うように、軽やかな足取りでエレベーターホールへと歩いて行きボタンを押す。間も無くエレベーターの到着を知らせる音が鳴り、扉が開くと同時に、彼女は瑞穂たちへと振り返った。
呆気にとられたように異物の溢れる天井を見上げていた瑞穂は、そして彼女に寄り添うようにその背後に近づいていく翔真は、こちらを振り返って佇むネイビーブルーの
人形のように精緻で美しい白皙の少女は、こくんと首を横へと揺らし、開き切ったエレベーターを指し示していた。
「40階スカイラウンジ――
感情の見えない白い面持ちで、しかしその眼差しに不安を滲ませて、ノエは鈴の音のように澄んだ声で、そう告げていた。
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