第80話 贈る言葉


 それは3月の初めで、まだまだ肌寒い日が続く時期だった。

 都内に数ある高校のうちのひとつ――体育館では生徒がひとりずつ壇に上がって、校長から卒業証明書を受け取っていく。

 やがて全員が受け取り、校長が式辞を述べる。


「卒業おめでとうございます。皆さんの門出を心からお祝いいたします。皆さんはこれから大学や専門学校へ進学し、または自分の夢に向かって活動していくことでしょう――――」


 最後に吹奏楽部の演奏に乗せての校歌斉唱だ。卒業生のひとり、安藤次郎も三年間の高校生活に別れを告げるように歌う。



「私たちずっと一緒だよ!」

「違う大学になったけど、また会おうぜ!」

「先輩、頑張ってください!」


 式を終え、校舎前では証明書を入れた丸筒を手にした卒業生がそれぞれクラスメイトや後輩に別れを惜しみ、再会を誓い合う。


「ついに俺らも卒業かぁ。来月から大学生だけど、実感がわかないっつーか……」


 安藤のクラスメイトのひとり、桧山ひやまが頭の後ろで手を組みながら。


「お前、ユーチューバーになるんじゃなかったのか?」


 傍らで安藤が聞くと、桧山がいやいやと手を振る。


「もちろんそのつもりだったんだけど、親から大学だけは出てくれと泣きつかれてな……まぁ動画配信は大学に通いながらでも出来るし。見てろよ。いつかテレビでも取り上げられるようなユーチューバーになるからな!」

「懲りないやつだな。お前も」


 トップユーチューバーを目指す友人はこれまたクラスメイトである高木の突っ込みにほっとけとあしらう。


「というか、意外だな。お前が美大に行くなんて」

「前から建築に興味があってな。安藤、お前も希望の料理専門学校に入れたんだろ? よかったな」

「あ、うん……」


 安藤の淡白な反応に桧山と高木が顔を見合わせる。


「まだ引きずってるみたいだな……」

「ああ、でも夏休み明けに会ったときと比べるとだいぶマシなんだが」とひそひそ声で交わす。

 安藤がスペインから帰国して学校に登校した時、桧山と高木が声をかけたときはまるでこの世の絶望のような表情を浮かべ、暗い雰囲気だったものだ。

 何があったのかとやっとのことで聞き出し、フランチェスカを探すためにスペインに行ったのだと聞いたときはさすがに目を丸くした。

 彼女には会えたものの、結局連れて帰ることは叶わず終いとなったそうな。


「おーい、これから卒業祝いにお好み焼き食いに行くけど、お前らも来るか?」


 クラスメイトから打ち上げの誘いだ。もちろん桧山と高木のふたりは頷く。


「安藤、お前もくるか?」

「え、あ、俺はいいよ……俺のぶんまで楽しんでいってくれ」

「そっか、じゃまたな」


 もう行くぞと声をかけるクラスメイトのもとへ「今行く!」と駆けていく。

 安藤はその場でしばしぼうっと立ち、やがて校門から外へ出た。

 ひゅうっと吹く寒風に思わずぶるっと身震いし、筒を脇に抱えてダッフルコートのポケットに手を突っ込んで歩く。

 数分ほどで駅に着いた。IC定期券で改札を通り、定刻通りに到着した車両へ。

 車内には同じく卒業式の帰りと見受けられる学生がちらほらといた。

 安藤は空いている座席のひとつに腰かけ、窓ガラスに頭を預けてふぅと溜息を。


 あれから、半年経つんだな……。


 去年の8月にフランチェスカを探しにスペインへ単身で渡ったのが今では遠い過去のように思える。

 最終日にやっと彼女を探し当て、会えたのだが、彼女は一緒に帰ることを拒んだ。

 今にして思えば、自分はなんと馬鹿なことをしたのかと思う。

 童話やおとぎ話のようにすべてハッピーエンドとはいかない。

 がたんがたんと揺れを感じながら目を閉じる。スペインで彼女と別れてからの記憶が思い起こされる。



「いいか。お前はこのまま何食わぬ顔で飛行機に乗って帰るんだ」

 

 サン・フアン・デ・ガステルガチェでパトカーの追跡を逃れ、最寄りであるビルバオ空港のエントランス前にてアントニオが言う。

 

「俺はこの車を適当なところに捨てなきゃならんからな」

「はい……」


 ぱんと運転席のドアを叩く。バンパーはひしゃげ、ボンネットには凹みが。おまけに反対側のドアは擦り傷だらけで塗装が剥げてしまっている。

 通行人がじろじろと見るのも無理からぬことであった。


「ほとぼりが冷めるまでスペインには来ないほうがいいぞ。間違ってもお嬢ちゃんに会おうとは考えるな」

「でも……!」


 抗議しようとするところへ、運転手がぴっと指を立てる。


「この先、辛いことはいっぱいあるかもしれない。だけどな、くじけちゃダメだ。楽しいこともいっぱいあるんだからな……って、なんだか前にも同じことを言ったような気がするぞ」


 ま、いいかとにかりと笑う。


「すべては神さまの思し召しさ。もし、運命に導かれてお嬢ちゃんとふたたび会うことがあったら、こう言うといい」


 その言葉を口にする。簡単なスペイン語だ。


「なんですかそれ?」

「魔法の言葉だ。覚えておくといい」

「はぁ」

 

 あっけに取られる安藤にウインクし、ギアを入れる。エンジン音がぶるると唸り声を。


「短い間だったが、スリルのあるいい旅だったぜ」


 そう言って太い腕を差し出す。


「こちらこそありがとうございました。本当になにからなにまで……」


 手を握り、軽く上下に振る。


また会おうアスタ ラ ビスタ。アミーゴ」


 アクセルを踏み、ハンドルを切りながら運転席の窓から手を振る。次にサムズアップで別れを告げると車は見えなくなった。



 車内のアナウンスで安藤ははっと現実に戻る。次の停車駅のアナウンスだ。

 降りる駅はまだ先だが、安藤は次の駅で降りた。

 改札を出ると、ここでもひゅうっと寒風が吹く。ここに来るのは久しぶりだ。なにしろ彼女に会いに行く時にしか利用しないのだから。

 駅を出て商店街のアーケードへ向かおうとする途中で見知った顔が。

 神代かみしろ神社の巫女――舞だ。セーラー服に身を包み、やはり証明書入りの筒を手にしている。

 彼女も安藤に気づいて声をかける。

 スペインに出発する前に会ったとき以来だ。お互い受験生の身として勉学に忙しい身なので会うのはひさしぶりだ。


「あ、アンジロー。ひさしぶりだね」

「神代さんも卒業式の帰りですか?」

「うん。いまから家に帰るとこ。アンジローはどうしてここに? 家、こっちじゃないよね」

「あーそれは……」


 ふと思い立って降りただけなのだが、それで理由になるかどうか。


「ちょっと向こうのアーケードにあるラーメン屋で昼飯食おうかなと」

「ふーん……それホント?」

 

 巫女でもある彼女がこちらの顔を覗き込んでくる。その目で見つめられると心の内を見透かされそうだ。


「ほ、ホントっすよ」


 目を逸らしながら言う安藤に舞がふふっと笑う。


「ん、わかった。そういうことにしたげる」


 いったい何がわかったのだと言うのだろう。彼女がそういえばとこちらを見たので思わずどきりとした。


「アンジローは来月からどうするの? 大学?」

「料理専門学校に通うんです」

「すごいじゃん! 夢かなったね」

「いやぁ、これからが大変すよ。神代さんのほうはどうするんですか?」


 突然、彼女がぴたりと足を止める。そしてふっふっふと自信満々に笑う。


「なんと! わたくし、女子短期の外国語学部に合格したのです!」


 びしっとピースサインを出す。


「すごいじゃないですか! 英語苦手だったのに」

「えへへ……とは言っても、ギリギリで合格ラインだったんだけどね」

「それでもすごいですよ!」

「ん、ありがと……」

 

 照れくさそうに頬をぽりぽりと掻きながら。


「やっぱり、あの子のおかげかな……」

「あの子……フランチェスカさんのことですね」

 

 こくりと頷く。


「たぶん……ううん、きっとあの子がいなかったら、ここまで来れなかったと思う。だから」


 顔を上げ、安藤の顔をまっすぐ見るように。


「だから、あの子にはとっても感謝してる……って言いたいとこだけど、ここにはいないし、もう日本に帰ってこないんだもんね」


 日本に帰国してから何度も彼女に連絡を取ろうと何度もメッセージを送った。だが、今でも既読はつかないままだ。

 

「あ、あたしこっちだから……」


 角を指差す。その先は神代神社に続く道だ。


「じゃあここで……卒業おめでとうございます」

「うん。アンジローもおめでと」


 それじゃと互いに手を振って別れを告げる。

 アーケードはもう目の前だ。懐かしい商店街の通路を歩く。

 閉店してシャッターが下りた店舗もあれば、新規オープンした店舗もある。

 昔ながらの喫茶店、ドラッグストア、スーパー、コンビニ、魚屋や八百屋を通り過ぎていく。いずれもフランチェスカの馴染みの店だ。

 最後にラーメン屋の前まで来た。腹はそんなに空いてはいないが、その前にもうひとつ行くべき場所へ寄ってからにすることにした。

 

 その場所はアーケードの出口からそんなに離れていない。

 まもなく建物の屋根に設置された十字架が見えてきた。教会だ。

 木造の両開きの扉の前まで来る。なぜここに来たのかは自分でもわからないが、ここに行かなければならないような気がしてならないのだ。


 もうここに彼女はいないというのに――――。

 

 ぐっと奥歯を噛む。

 そして扉に手を触れ――――


「あれ?」


 予想に反して扉は簡単に開いた。

 がらんとした礼拝堂は人の気配がない。

 もしやと思って奥に進む。

 ぎしりと軋む床を踏みしめながら一歩ずつ奥へと。

 やがて最前列、すなわち祭壇近くの長椅子まできた。

 彼女の昼寝シエスタの定位置だ。

 だが、そこに彼女の姿はなかった。


「やっぱり、いるわけないか……」


 ぽりぽりと頭を掻く。

 もうここにいる必要はない。礼拝堂を出ようと踵を返した時――――


「安藤さん?」


 はっとして振り返るとそこには礼拝堂の隣にある住居スペースへと通じる扉からマザーが出てくるところであった。


「あ、マザーさん。お久しぶりです」

 

 ぺこりと頭を下げる。


「ええ、本当にひさしぶりですね……お元気そうで何よりですわ」

「はい……あの、マザーさんはどうしてここに?」

 

 すると、マザーが表情を曇らせた。


「実はこの教会、閉鎖することになりまして……整理するために来たのです。もともと閉鎖させる予定だった教会ですが」


 細い腕を伸ばして長椅子に手を触れる。


「あの子がここにいた時は、ほんとうに賑やかでしたわ」

「俺もそう思います……」


 彼女と出会った日、楽しかった日々が次々と思い出された。


『迷える子羊よ。よくいらっしゃいました』


『お願い! 今月は寄付金少なかったからお小遣いもピンチなの!』


『このわからず屋! あんたなんかもう知らない!』

 

『あたしね、今アンジローがいてくれて良かったって思ってるの』


 見習いシスターらしからぬ振る舞いに困惑したものの、彼女のお転婆でひたむきな明るい性格は周りの人も明るくさせるような、不思議な力があったように思う。


「……もう一度だけ会いたいな」

「祈りなさい。 そして、“求めよ、そうすれば、与えられるであろう”(マタイ伝第7章7節)」

「はい……ん?」


 違和感を感じた。今の声はマザーの声ではない。それに後ろから聞こえたような気が――――


 そう思ったときは後ろを振り向いていた。


「ハーイ、アンジロー」


 いつの間にか後ろに来ていたひらひらと手を振るそのひとはラフな服装をしており、修道服スカプラリオを着てはいないものの、やっぱり彼女だ。

 最後に会ったときと変わらぬ姿で、いや後ろの髪が伸びている。

 彼女に会おうとしてスペインで別れた彼女が、もう一度会いたいと想っていた彼女が目の前にいる。

 

「フランチェスカさん……? なんで……」

「なんでって、そりゃあんたがあたしを探しにわざわざスペインまで来てくれたんだし……」

 

 スーツケースを傍らに置き、あっけに取られる安藤とマザーを前にあっけらかんとして言う。


「え、や、でもシスターになるんでは……?」

「ほんっとに大変だったんだからね? パパを説得するのに時間かかったんだから……ママと、あとしゃくだけどクソ兄貴にも礼言ってね」


 あの兄貴、あんたのことを見直したんだってと付け加えるとくるりと背を向けて腕を組む。


「ホント、あんたってバカね。あのままあたしを連れて帰れるわけないでしょ? パスポート持ってきてないのに」

「う……それはつい勢いでっていうか……」

「ドン・キホーテじゃあるまいし。いきなり来てもこっちはいい迷惑なのよ」


 ふんとそっぽを向く。

 

「ごめん……でもどうしても会いたくて……」

「口だけならなんとでも言えるわよ。このあたしをスペインからはるばる日本にまで行かせた責任取りなさいよ」


 今の彼女はまさにとりつく島もないといった状況だ。何を言っても聞かないだろう。

 ふと、アントニオが別れ際に話してくれたことを思い出す。


「すべては神さまの思し召しさ。もし、運命に導かれてお嬢ちゃんとふたたび会うことがあったら、こう言うといい」


 教えてくれたこの言葉の意味はわかるが、はたして今の彼女に効果があるのか……。

 

「フランチェスカさん」

「なに?」


 こちらを見ないでぶっきらぼうに言う。

 すーっと息を吸い、口を開いて魔法の言葉を。


「Por qué no haces la tortilla solo para mí?(俺だけのためにトルティージャを作ってくれないか?)」


 流暢りゅうちょうなスペイン語で思わずフランチェスカが振り向く。

 

「アンジロー、あんたその言葉の意味、わかってて言ってるの?」

「え、トルティージャを食べさせてくれって意味ですよね?」

「違うわよ! その言葉はスペインじゃプロポーズの言葉なの!」

「え!?」


 その時、安藤の脳裏ににかりと笑うアントニオの顔が浮かんだ。

 目の前でフランチェスカが顔を真っ赤にしてこちらに向かってくる。恥ずかしさのためか涙目だ。


「もう! あんたってひとはホントに、ホントにバカなんだから……!」


 いきなり飛び込んできた。そしてそのまま安藤に抱きついたかと思うと、唇を重ねる。


「ふ、フランチェスカさん……」

「もうシスターじゃないから、恋愛自由の身よ」


 こほんとマザーが咳払いをひとつ。


「おふたりとも、ここは神聖な場所ですよ。神の御前でそのようなことは……と、言いたいところですが、今回は目をつむりましょう」

 

 マザーが茶目っ気にウインクを。


「ははは……あの、フランチェスカさん。さっきの、そのプロポーズなんですけど……」

「そんなの決まってるじゃない」

 

 ふたたび唇を重ね、じっと安藤の顔を見つめながら。


「イエスよ!」

 

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