第79話 Fin del camino(旅の終わり)


 バリケードを突破したアントニオの運転する車は右側にビスケー湾を眺めながら、サン・フアン・デ・ガステルガチェ目指して走る。

 通行止めのおかげで車は一台も見当たらない。


「こりゃ最高だ! まるで貸し切りだぜ!」

「あ、アントニオさん。できるだけ安全運転でお願いします……!」

「まかせろ! こちとらお前が生まれる前から運転手やってるんだ!」


 車内に響く音楽のリズムに合わせて首を振りながら運転するので安藤は気が気でない。

 それもそのはず。安藤の席、つまり助手席側はガードレールすれすれでなおかつ、高速で走っているのだ。

 ガードレールの下は断崖絶壁で、荒波が絶え間なく打ち寄せる。

 その絶景にたまらずごくりと唾を飲む。

 途端、助手席のドアがガードレールとこすれて火花を散らす。


「ちょ、擦れましたよ!」

「悪ぃ! まだこの車のクセが掴めてないんだ! 大丈夫だ。あと少しすれば慣れるさ!」

「前! 前みて!」

 

 目の前にいきなり急カーブだ。


「つかまってろ!」


 急ブレーキとハンドルを目いっぱい回してカーブを曲がる。だが、それでも曲がりきれなかったのか、ドアががりがりと削られていく。


「ひぃいいいっ!!」


 安藤が叫ぶなか、アントニオはすばやくハンドブレーキを利用し、反対側にハンドルを切ってS字カーブを越えた。


「この分じゃパトカーが来るまでは時間がかかるな!」


 パトカーの手配とバリケードの撤去にかかる手間も含めれば、さらにその倍時間はかかるだろう。


「これじゃ命がいくつあっても足りないっすよ!」

「命はひとつしかないから、みんな必死で生きてるんだ。みろ! 見えてきたぞ!」


 アントニオが指差す方を見ると、確かにビスケー湾に突き出るように浮かんだ小島――――サン・フアン・デ・ガステルガチェが。


「あれが、フランチェスカさんのいる場所……!」

「あと少しで着くぞ! 飛ばすからしっかりつかまってろ!」


 グリップに捕まりながら安藤は腕時計に目をやる。

 正午まであと二十分。だが、時間ぴったりにシスターになるわけではない。

 彼女自身が終生シスターになることを誓ってはじめて正式にシスターとなるのだ。

 問題はどのタイミングで誓いを立てるのか……。


 そうなれば、彼女とはもう……


 うだうだ考えてもしかたない。なんとしても彼女が誓いの言葉を口にする前に辿たどりつかなければ……!

 ぎゅっと歯噛みして遠くの小島を見つめる。


 †††


 コンコンとノックの音がしたのでフランチェスカはドアの方を見る。

 入ってきたのは父のアルフォンソだ。ベネディクト司祭はすでに準備のために部屋を出たので、部屋にはフランチェスカひとりだ。


「フランチェスカ、そろそろ時間だよ」

「はい」

 

 わかりましたと席を立ち、部屋を後にする。

 ふたりの従者である修道士が頭を下げ、父がこちらへと指し示す。

 絨毯じゅうたんが敷かれた先には祭壇が。それを背にしてベネディクト司祭が立ち、その傍らにはマヌエル枢機卿だ。

 ゆっくりと、一歩ずつ前へと進む。

 やがて司祭の前に辿り着いた。


「フランチェスカ・ザビエルよ。これより、誓願式を執りおこなう」

「はい」

「お待ちを。儀式の前にスペイン国王陛下から祝電の電報を預かっております」


 マヌエル枢機卿が一枚の電報を取り出し、こほんと咳払いしてから読み上げる。


「フランチェスカ・ザビエル殿。我が国の最も偉大な聖職者のひとり、フランシスコ・ザビエルの意志を継いで、シスターとなること、心の底よりよろこび申し上げる――――」


 †††


「着いたぞ! 教会はあの岩山の上だ!」

 

 アントニオの声を背中で聞きながら安藤はドアを閉める間も惜しく、一目散に小島に向かって走り出す。

 すでに腕時計の針は正午を指している。もはや一秒も無駄には出来ない。

 案内所の傍らを通り過ぎ、本土とサン・フアン・デ・ガステルガチェを繋ぐ水道橋へ――――。


 

「よし。これで終わりっと!」


 案内所でパンフレットの整理を終えたラウルが額の汗を拭って一息つく。後ろでなにか音がしたかと思い、振り向いたときは誰もいなかった。


「いま、誰か通りませんでした?」


 案内所の管理人ホルヘが地元紙から顔を上げる。


「そんなわけねぇだろ。ここに通じる道は封鎖されているんだ」

「ですよねぇ……あ、パンフの整理終わりましたよ!」

「ご苦労。次は看板の修理だ。そこの工具箱を持っていきな」

「はいはい」

「はいは一回でいい!」

「はい!」


 工具箱を手に案内所を出るラウルを見送り、ホルヘはやれやれと首を振って地元紙に目を落とす。


 まったく、最近の若いもんは……。


 †††


「――――ザビエル家の血を継ぐものとして、その務めを果たすことを期待せしそうろう

 

 スペイン国王からの電報を読み終えたマヌエル枢機卿は丁寧にポケットにしまう。

 

「では、儀式を」

「お待ちください。ナバラ市長からも電報を頂戴しております」


 もう一枚の電報を取り出して、さっきと同じ調子で読み上げる。



 ――――その頃、安藤は水道橋の真ん中で手すりに手をかけて肩で息をしていた。

 顔を上げると、岩山の上にオレンジ色の屋根をした礼拝堂が見えた。

 その礼拝堂にいたるまでの石段まではまだ距離があり、石段も途方もなく遠いように思われた。おまけに礼拝堂が小さいので、よけい遠くに感じる。

 

「急がないと……!」


 心臓が早鐘を打つかのようにどくどくと高鳴り、それ以上前に進むことを許してくれない。


 くそ……!


 自分の体力のなさを呪う。それでも前に進まないといけない。

 頭ではわかっているのだが、このペースではとても間に合わない。礼拝堂に着いた頃には儀式は終わっているだろう。

 

 とにかく、前に進まないと……!


 体を起こして歩き出そうとした時、後ろから音がした。



「ったく、人使いの荒いジイ様だぜ……」


 工具箱を荷台に取り付けた自転車を漕ぎながら、ラウルはぶつぶつと愚痴をこぼす。

 期間限定とはいえ、このアルバイトは給料が安いうえに思ったより重労働だ。

 

 こんなことなら、ほかのバイトにしときゃ良かったぜ……。


 溜息をつきながら漕ぐと、前方に誰かがいるのが見えた。


 観光客か……? どこから入ってきたんだ?


 いずれにしてもこの先にある礼拝堂は一般人は入れない。


「おい、そこのあんた!」


 注意しようとした時、がらがらと何かが落ちる音。

 ブレーキをかけ、止まって振り向くと固定が甘かったのか、工具箱が荷台から落ちて中身が散らばってしまっていた。

 舌打ちして自転車を手すりに立てかけ、落とした工具を拾いにかかる。

 

「ツイてねぇ!」


 悪態をつきながらも拾い上げ、すべての工具を工具箱にしまうと自転車のほうへくるりと踵を返す。

 だが、そこに自転車はなかった。

 前方を見ると、さっきの観光客らしき男が自転車を漕いでいた。


ドロボー!ラドロン! おれの自転車を返せ!」

「すみません! あとで返します!」


 謝りながらも安藤は石段めざしてペダルを全力で漕ぐ。




「――――フランシスコ・ザビエルの生誕地の市長を務める身として、これ以上喜ばしいことはなく……」


 ナバラ市長からの祝電を読み上げ、マヌエル枢機卿が電報をしまうのを確認してからベネディクト司祭が頷く。


「お待たせしました。では誓願の儀式を――――」

 

 

 石段のところまできた安藤は自転車を地面に下ろして見上げる。

 礼拝堂までは実に237段の石段を上らなければならない。

 迷っている暇などなかった。安藤は一段目に足をかけ、そのまま駆け上っていく――――。



いつくしみたまうイエス・キリストよ。天にまします我らの父よ。この娘のみそぎをはらい、いま誓願のちぎりを……」


 祭壇を背にベネディクト司祭がとつとつと唱えるなか、フランチェスカはひざまずいて胸の前で両手を組む。



「痛っ……ぅ!」


 安藤はつまずいて石段に打ちつけた膝をさする。

 ジーンズの膝頭に血がじわりと滲む。

 だが、ここで立ち止まっている場合ではない。今の安藤には痛みにうめく時間も手当をする時間も残されていない。

 痛みをこらえながらも前へ前へと進む。


「負けるもんか……!」


 

「嵐のときも、病めるときも、岩の如き信仰をもつて」


 一拍間を置いて、さらに続ける。

 そしていよいよ最後まできた。


「フランチェスカ・ザビエルよ。父と子と精霊の御名みなにおいて、なんじ、いまこの時この瞬間より、生涯修道女となることを誓うか?」

 

 ベネディクト司祭が唱え終わり、フランチェスカがゆっくりと顔をあげる。

 礼拝堂の入口付近では父のアルフォンソが頷き、従者の屈強な修道士は涙を流していた。

 今まさに全員が、彼女が見習いシスターから正式にシスターにる瞬間を心待ちにしている。

 顔を上げたフランチェスカが誓いの言葉に応えるべく、口を開こうと――――



「フランチェスカさんっ!」



 いきなり扉が開かれ、全員がそのほうを見る。

 そこには肩で息をしながら立つ少年が。

 ざわざわと礼拝堂がざわめくなか、安藤は口を開く。

 それは日本語だった。

 その場にいる全員には伝わらなかっただろうが、ただその意味が伝わったのがひとり。



 『好きだ』



 フランチェスカは驚きのあまり、口を両手で覆う。

 信じられないことだが、目の前にいる少年は確かに彼だ。

 別れを告げてからひと月くらい会っていない彼が、もう一度会いたいと思った彼が、目の前にいる。

 それも日本からはるばるスペインに。

 

 ばか……どうして来たのよ……。


 だが、その思いとは裏腹に涙がとめどなく溢れ出る。そして彼の名前を口に――――


「アンジロ――――!」

 

 彼が手を差し伸べている。

 そう気づいたときには走りだし、そして彼の手を握った。

 突然のことに一同は呆然としていたが、アルフォンソが我に返り、従者の修道士に命じる。


「何をしている!? 娘がさらわれたんだぞ!」


 連れ戻せと命じられた修道士はすぐに礼拝堂を出た。ふたりは石段を降りているところだ。



 石段は上りより下りの方がずっと楽でおまけに早い。

 後ろから怒号が聞こえたので、振り返ると修道士が怒気をあらわにして追いかけてくるのが見える。

 やっと平らな石畳に到着し、地面に置かれた自転車を起こす。


「逃げましょう! 車があるんです!」

「うん!」


 フランチェスカを荷台に乗せてペダルを力強く踏む。


 

 安藤の後を追いかけていたラウルは膝頭に手をつきながらぜぇぜぇとなんとか呼吸を整える。

 ふと前方から騒がしい音がするので顔を上げると、さっきの自転車泥棒が通り過ぎた。ラウルはふたたび叫ぶ。


ドロボー!ラドロン!

 

 

 自転車に乗ってふたりは風を受けながら本土を目指して走る。

 

「ほんとにアンジローなのね……?」

「はい!」

「……会いに来てって頼んだ覚え、ないわよ……バカ」

「すみません! でもどうしても会いたくて来てしまいました!」


 後を追う修道士やラウルの怒声はすでに遥か後ろで聞こえない。ただ、きこきことペダルを漕ぐ音や波の音が聴こえてくるだけだ。


「バカ……あんたって、ほんとにバカよ……」


 ぎゅっと後ろから安藤を抱きしめる腕に力が込められる。


「でも、嬉しい……」


 頭を背中にとすんと預けると、懐かしい彼の匂いがした。


 †††

 

 アントニオは運転席に座ったまま、安藤が戻ってくるのを待っていた。

 

 まだか……?


 トントンと指先でハンドルを叩きながら、奥の方を見るが、まだ姿は見えない。

 車から降りて彼を探しに行くかどうか迷っていると、後方からサイレンの音が。

 パトカーだ。


「クソ! もう来やがった!」


 まだなのかと視線を戻す。すると、自転車に乗ったふたりがこちらに向かってくるのが見えてきたので、アントニオはたちまち破顔する。


「無事会えたみてぇだな! 早く乗れ! パトカーが来るぞ!」


 ギアをドライブに入れてエンジンを吹かす。

 


 案内所の管理人ホルヘはサイレンの音で読んでいた地元紙からがばっと顔を上げる。


「いったいなんだ!?」


 椅子から立ち上がって窓の方へ。すると、自転車に乗った若い男が通り過ぎるのが見えた。

 いや後ろに誰かが乗っている。目を凝らすと白い修道服スカプラリオに身を包んだ少女はまさに――――

 

「えれぇこっちゃ!!」

 

 ホルヘは管理人を務めてからはじめての大事件に思わず十字を切った。



「フランチェスカさん、こっちです!」


 自転車を乗り捨て、彼女の手を取りながら安藤が走る。

 その瞬間、すべてがスローモーションのように緩慢な動作で流れる。

 サイレンの音が近づいてきている。

 目の前ではアントニオが早く乗れと手を振りながら。

 車に辿り着いた安藤が後部座席のドアを開けて乗り込む。


「すぐに乗って! このまま空港に行きます!」

「空港? どこへ行くの?」

「日本です! 俺と一緒に帰りましょう! さぁ早く!」


 日本? またあの国に帰れるの?


 ごくりと唾を飲み込む。


 この車に乗れば、あたしは自由に……。


 開けてくれたドアの奥へと踏みこもうと――


「ごめん、アンジロー。あたし、やっぱり行けない」

「え?」


 ばたんとドアが閉じられた。

 目の前でドアが閉められたことに安藤は驚きを隠せなかった。


「どうして……!」

 

 ドアを開けようとするが、ロックが掛かってしまっているのか開かない。


「アントニオさん! ロックを外してください!」

「これ以上は無理だ! パトカーがもうそこまで来てる!」


 見ると、青のランプを点けたパトカーがサイレンを鳴らしながら、こちらにやってくる。

 ぺたりとフランチェスカが両のてのひらを窓につけた。

 ガラス一枚を隔てて、見習いシスターは顔を見つめる。

 

「フランチェスカさん! フランチェスカさん!」


 がちゃがちゃとレバーを何度も引き、窓ガラスを叩く。

 

「アンジロー」


 そう呼ばれた気がした。

 ガラスの向こうの彼女は寂しそうに微笑む。口が開いたかと思うと、ゆっくり一音ずつ発するように口を動かす。

 


 『すきだよ』



 唇の動きはそう言っていたように思う。彼女に問いかけようとした時はすでに車は発進した。

 後部ガラスに身を乗り出すようにして彼女の名を何度も叫ぶ。次第にガラスの向こうの彼女が遠ざかっていく。

 サイレンの音が一層大きくなったのと同時に、彼女の背後でパトカーが停車を。

 そのパトカーをこれ以上行かせまいとフランチェスカが腕を伸ばして立ちはだかる。


「アントニオさん、止めて! 止めてください! 彼女を乗せないと……!」

「無理だ! ここで止まったら俺もお前も警察に捕まるぞ! お嬢ちゃんの覚悟を無駄にするんじゃねぇ!」

 

 ふたたび彼女の名前を叫び、ガラスを何度も叩く。すでに彼女の耳には届かない距離だとわかっていても安藤は叫ばずにはいられない。

 やがて彼女の姿が小さくなり、ついには見えなくなった。


 ――――こうして真夏の十日間の旅は終わりを告げた。


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