第78話 LIMIT OF LOVE
コンコンとドアをノックする音でフランチェスカは、はっと組んでいた手から顔を上げる。
「フランチェスカ様、私です。入っても構いませんでしょうか?」
「はい、構いませんわ」
入室の許可を得て開かれたドアから姿を現したのは案の定、ベネディクト司祭だ。
「いやはや、この年になると階段がきつくなってきました。いま御父上がマヌエル
頭に
「ありがとうございます。わざわざ私のために……」
椅子から立ち上がって典雅な仕草で一礼し、ベネディクト司祭がなんのなんのと手を振る。
「フランチェスカ様の誓願式を執りおこなうことはとても神聖で名誉なことです。たとえ、火の中であろうと水の中であろうといつでも馳せ参じますぞ」
フランチェスカが椅子を運んできたので、ベネディクト司祭が礼を言って腰かける。
そして腕時計を見やりながら。
「正午まであと一時間といったところですな。それまでは私が話し相手を務めましょう」
「ありがとうございます……」
物憂げな表情を浮かべる彼女に、司祭はじっと眺めたのちに声をかけた。
「失礼ながら、なにか思い詰められているご様子。誓願式で誓いを立てる不安もありましょうが、それだけではないようにお見受けします」
見習いシスターは思わず自分の顔に手を当てる。
「私で良ければ相談に乗りますぞ」
「そんなことは……」
「心のなかにしこりがあれば、吐き出すのが一番です。“神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい”と聖書にもあります」
「……ペテロの第一の手紙第5章7節ですね」
司祭がこくりと頷く。
「話してくださらなければ、さすがの
茶目っ気にウインクする司祭にフランチェスカはふふと微笑む。
「ありがとうございます司祭様。でも大丈夫です。これから誓願を立てるのに、悩みを持つなど……!」
力強い口調ではあるが、その顔にはまだ迷いがあるのをベネディクト司祭は見逃さなかった。
だが、この頑固な見習いシスターには何を言っても無駄であろう。
ベネディクト司祭はふたたび頷き、胸の前で十字を切る。
「……では、あなたに神の加護があらんことを」
彼女の頭に手を添え、祈りの言葉を唱えるなか、フランチェスカは目を閉じて手を組む。
「――――願わくば、困難や試練に立ち向かう力を
アーメンと締めくくる。
†††
その頃、安藤とアントニオのふたりは今まさしく困難に立ちはだかっていた。
目の前では黒の制服の警官が道路を背にして、合図灯を手に車の列を右や左へと捌く。
やがてアントニオの運転する高級車に警官が近づいてきた。
こんにちはと運転席の窓から制帽の
「良い車ですね。どちらへ行かれるんですか?」
「サン・フアン・デ・ガステルガチェに行きたいんだが」
すると警官は申し訳さなそうな表情を浮かべた。
「すみません。あいにく道路を封鎖しておりまして……回り道をお願いします」
「いったいなにがあったんだね?」
「申し訳ありませんが、職務上の機密ですので……回り道をお願いします」
では、とふたたび鍔をつまんで会釈すると後方の車へと。
「……だとさ」
「ほかに道はないんですか?」
「あるにはあるが、この道が一番近いんだ。回り道なんかしたらそれこそ日が暮れちまう」
「そんな……」
「もうここまでだな……まさに八方塞がりってやつだ」
アントニオから目の前の光景に目を移す。
サン・フアン・デ・ガステルガチェへ。そして彼女へと続く道には『Carretera cerrada(通行止め)』と書かれたバリケードが行く手を阻むように並んでいた。
安藤は腕時計に目を落とす。すでに正午まで一時間を切っている。
ここまできて……!
「アンジロー」
アントニオから呼ばれ、はいと顔を上げる。
「ひとつ、思いついた手がある。お前、お嬢ちゃんに会いてぇか?」
タクシー運転手はこちらを見ず、ハンドルを握ったまま正面を見つめているだけだ。
質問の意図がわからなかったが、彼女に会いたいという気持ちは確かだ。
「会いたいです」
サイドミラーにさっきの警官が映った。こちらへ向かってきている。車が動かないので不審に思ったのだろう。
それに構わずアントニオが続ける。
「いまから俺がやろうとしてることは少々危険がともなうやり方だ。その覚悟はあるか?」
覚悟を見定めようとこちらを見る。いつになく真剣な表情だ。
覚悟はもとより出来ている。そうでなければスペインに来ていないし、ここに来るまでに色々な人に助けられてきた。
彼らの恩に報いるためにもここで立ち止まってはいけない。
「はい! お願いします! 行かせてください!」
するとアントニオが破顔し、ギアをニュートラルからドライブに切り替える。
「いい返事だ! 気に入ったぜ!」
エンジン音が響き、車はゆっくりと前進を。
サイドミラーに映った警官は首を傾げ、くるりと背を向けようと――――
衝突音がした。
警官が振り向いたとき、車はすでにバリケードを破って道路を急スピードで走り抜けていた。
「ざまあみろ! 俺だってやるときはやるんだ! 叩けよ、さらば開かれんってやつだ!」
あっけに取られている安藤のほうを向き、にかりと笑う。
「スペインの警察はぼんくらだが、無能じゃねぇ! 飛ばすからしっかりつかまってろよ!」
安藤が窓の上のグリップを握り、もう片手はアームレストを掴んで体を固定させる。
アントニオが「景気づけだ!」とラジオのつまみを回すとスピーカーから軽快な音楽が。
「さすがはドンの車だ! 性能がハンパないぜ! これならギリギリで間に合うぞ!」
ハンドルを握りながらリズムに合わせて首を上下に振る。
タイムリミットまで、あと四十五分――。
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