第77話 Caballero y caballo -騎士と馬-
アントニオのタクシーがエンストで停止した頃、フランチェスカはサン・フアン礼拝堂に続く石段を上るところであった。
「大丈夫か、フランチェスカ」
「はい、なんとか……」
なだらかな石畳を三十分ほど歩き、石造りの階段を上るのだから、いくら運動神経抜群の見習いシスターと言えど体力的には厳しい。
「これも試練だよ。フランチェスカ」
もう少しだから頑張れと手を貸してやる。
フランチェスカは渋々とだが、結局父の手を借りることにした。
数段上がってからふぅと一息つく。
その時、気が緩んだのか次の段を踏もうとして踏み外し、そのままバランスを崩す。
「わっ!」
「フランチェスカ!」
あわや石段に叩きつけられる寸前のところで従者の修道士が屈強な肉体で彼女を支えた。
「お怪我はありませんか?」
「あ、ありがとう……」
「フランチェスカ大丈夫か!?」
父が駆け寄る。
「大丈夫です。ごめんなさい」
「そうか、次は気をつけるんだぞ」
「はい」
やがて礼拝堂が見えてきた。白い石造りにオレンジ色の屋根をしたぽつんと建った小さな礼拝堂の扉を開ける。
内部は他の礼拝堂と同じく正面に祭壇、左右に長椅子が配置されており、十字架の掛かった壁にはまったステンドグラスからは陽光を受けて柔らかな色彩の光を床に落とす。
「疲れたろう。儀式が始まるまでこの部屋で休むといい」
アルフォンソが傍らの扉を開ける。そこは小部屋であるものと言えば窓と書き物机のみだ。
フランチェスカは部屋の中へと進み、椅子に腰を落としてようやくほっと息をついた。
「準備が出来たら呼ぶからね」
そう言いおいてぱたりと扉が閉じられ、部屋にはフランチェスカひとりとなった。
「ついに、この時がきたのね……」
これまで運命から逃れようと
ふと見上げると、壁に十字架が掛かっていた。
あなたも、あたしと同じ心境ってところかしら……?
だが、物言わぬ像は口を開くことがなければ、言葉を発することもない。
ふ、と溜息をつき、机に両肘をついて祈りを。
神さま。もし本当にいるのなら、あたしの一生のお願いを聞いてください……。
†††
その頃、安藤はあいかわらずエンストしたタクシーの傍らに立っていた。
親指を立ててヒッチハイクを試みるが、もともと交通が少ないので停まってくれる車は皆無だ。おまけにタクシーもなかなか捕まらない。
アントニオのほうを見ると公衆電話で大声で相手とやり取りをしていた。
十分前からこの調子だ。アントニオが受話器に向かって怒鳴ると、荒々しくがちゃんと戻してこちらに戻ってくる。
「すまん。俺の会社に電話したんだが、代わりのタクシーはよこせねぇときやがった。レッカー車も自分で電話しろとさ!」
首を振りながらぶつぶつと愚痴をこぼす。
「まだつかまらねぇか?」
「はい……」
親指を上げたまま、安藤は通り過ぎる車を見送るしかなかった。
「すまねぇ。ちゃんと整備してりゃ、こんなことには……」
どすんとボンネットに腰かけ、ふたたび首を振りながら。
電車で行くにしてもここから駅まではかなり離れているうえ、時間通りに乗れたとしても目的地の最寄り駅に着く頃にはもう儀式は終わっているだろう。
悔しいが、いまの安藤には車しか交通手段は残されていない。
また一台、続いてもう一台の車が通り過ぎた。この間もタイムリミットは刻々と近づきつつある。
「こうなったら、俺が体で止めるしか……」
腕まくりして道路に出ようとするアントニオを安藤が止める。
「やめてください! 危ないですよ!」
「どいてくれ! 男にはどうしてもやらなきゃいけねぇ時があるんだ!」
その時、黒塗りの高級車がふたりのそばをすれすれで通り過ぎた。
「危ねぇな! おい! どこ見てやがる!?」
「アントニオさん、まずいですよ……」
「心配するな。腕にはちったぁ覚えがあるんだ。ふたりくらいなら足止めできる。だからお前はそのあいだに」
安藤を背にしてファイティングポーズを取ると、運転席のドアが開いた。
出てきたのは見るからにマフィアの小柄な男だ。
「あ、あの人、もしかして……」
小柄な男は後部座席に回り、ドアを開けてやる。
すると、そこからぬぅっと出てきたのはサン・セバスチャンを裏で牛耳る男――――ドン・サンチェスその人であった。
「見覚えのある顔だと思ったら、やっぱりお前か」
上着のポケットから葉巻を取り出し、吸い口を噛みちぎってぺっと吐き出す。
そこをすかさず小男の部下がライターで火をつけてやる。
二度三度すぱっすぱっと吹かすと美味そうに煙を上空へ向けて吐き出す。
反対側のドアから愛人のエステルが顔をのぞかせ、ぱっと顔を輝かせる。
「アンジロー! ここでなにを?」
「エステルさん、彼女の居場所がわかったんです! でも車がエンストしてしまって……」
いきなりドンががはははと笑った。
「これはこれは。
「やめてよ! ドン!」
だが、サン・セバスチャンの帝王はどこ吹く風だ。葉巻を咥えたまま、のそりとタクシーへ。
そしておもむろにボンネットを開けるとエンジンルームをひととおり眺める。
「ふん……こんなオンボロでよく走れたもんだな。こいつはもう寿命だ」
「あんた、わかるのか?」
「これでも自動車修理工のせがれだ」
ふふんと自慢気に。
「そんな……なんとかならないんですか!?」
安藤の言葉を部下が翻訳し、聞き終えたドンはぷかりと大きな煙を吐く。
「無理だな。死んだ人間がどうやっても生き返らないのと同じことだ」
「お願いドン! 彼をたすけてあげて!」
エステルが悲痛そうに声を上げる。
ドンはふたたび葉巻を咥え、しばし安藤のほうを見てからふーっと煙を吹かしてから灰を落とす。
そしてそのままくるりと背を向けて高級車のほうへ。
「おい」
「へいっ、なんでやしょう?」
呼ばれた小男がととと、と前に出る。
「車のキーをよこせ」
「わかりやし……へっ!?」
「同じことを二度言わせるな! キーをよこせ!」
「へっへいっ!」
小男がキーを渡し、次にドンがアントニオに渡す。
「俺が整備してるから安心していい。それと車は適当なところで乗り捨てて構わんぞ」
「ありがてぇ!」
キーを受け取ったタクシー運転手はすぐに高級車の運転席へと向かう。
「あ、あの、ありがとうございます……!」
ぺこりと頭を下げる安藤にドンがふんと鼻を鳴らす。
「昨日、美味いメシを食わせてくれた礼だ。礼を返さねぇやつはバスク人じゃねぇからな」
エステルが駆け寄ってドンに抱きついて頬に口づけを。
「ありがとう! ドン!」
それに、とドンが続ける。
「姫を救う騎士には、馬が付きものだ」
にやりと笑みを浮かべながら葉巻を咥え、ウインクをひとつ。
「おい、さっさと乗れ! 時間がないぞ!」
アントニオが窓から顔を出して言う。
「いま行きます!」
「頑張るのよ!」
エステルから声援を受けて安藤が助手席に乗り込むなり、車は急発進してあっという間に見えなくなった。
「すこし見ない間にいっぱしになりやがって」
おい帰るぞとくるりと背を向ける。
「で、でも、ここからアジトまでは結構歩きますよ!」
「たまには歩いて運動するのもいいぞ。お前は少し太り過ぎだ」
「そんなぁ〜」
愛人と腕を組みながら、がははと笑うドンの後を小男が慌てて追いかける。
タイムリミットまで、あと一時間半――。
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