第75話 母の想い
サン・セバスチャンからナバラ地方までは車でおよそ一時間の道のりだ。ハイウェイを走る車のなかには一台のタクシーが。
アントニオの運転するタクシーの助手席には安藤がガイドブックの地図に目を落としている。
「みろ、もうすぐナバラに入るぞ!」
アントニオが指差す先には、なるほど『10 km hasta Navarra(ナバラまであと10km)』と表記された看板が。
「いやぁ驚いたぜ。まさかビデオレターで流れてた鐘の音が手がかりになったとはな」
昨夜、アントニオが教えてくれたマグダレーナ教会はパンプローナという町にあるそうだ。
そして安藤は教会の近くにあるであろうフランチェスカの屋敷へと向かっていた。
「本当にありがとうございます。アントニオさんがいてくれて助かりました!」
「礼を言うのはまだ早いぜ。お嬢ちゃんがまだそこにいるとは限らねぇからな」
「そ、そうですよね……」
確かにそうだ。彼女がいるとは限らないし、手がかりだってアントニオが聴いた鐘の音がマグダレーナ教会であるというだけなのだ。
だが、残された手がかりはもはやこれだけで、タイムリミットも刻々と迫っている。
「ナバラに入ったぞ!」
運転席でアントニオがそう声を上げたので顔を上げると看板が見え、すぐに通り過ぎた。
『Bienvenido a Nabarra!(ナバラへようこそ!)』
タクシーはハイウェイから一般道へと進路を変えた。
†††
パンプローナはナバラ県のほぼ中央に位置しており、牛追いで知られるサン・フェルミン祭で有名な街だ。
アントニオの運転するタクシーは年季の入った建物が並ぶ旧市街に入り、マグダレーナ教会めざして石畳の細い道路を巧みなハンドル捌きで進んでいく。
「懐かしいな。俺はサン・セバスチャンに来る前はここで流しのタクシーを運転してたんだ。あのときと全然変わらねぇ」
ここまで来ればもうすぐだとハンドルを切り、安藤は助手席の窓から街並みを眺める。
三階建ての色とりどりの住居にバルが並んでは過ぎていく。
ここが、フランチェスカさんの住んでいる街か……。
やっと彼女の住む街にやってきた。そしてもうすぐ彼女の住む家にも。
そこまで考えてはたと気づいた。
彼女に会ったら、なんと言おう?
むろん必死で彼女を探すのに夢中でそこまで頭が回らなかったのもあるだろうが。
会ったら、きっとびっくりするだろうな……。
会った時、彼女はいったいどんな顔をするのだろう。
笑顔で迎えてくれるだろうか。それとも、どうして来たのかと怒るのだろうか。
そう思うと胸がどくどくと高鳴る。
もうここまで来たのだからあとには引けない。
「見えたぞ! あれがマグダレーナ教会だ!」
はたしてゴシック様式の教会が見えてきた。安藤がフロントガラスから見上げると、
ついに手がかりの教会まできた。だが――――
「それで、お嬢ちゃんの家はどこなんだ?」
そうだ。教会に来たからといって彼女の家まではわからない。
「それは……わかりませんが、たしかにこの近くに住んでるはずなんです……そうだ!」
ふと思いついてズボンのポケットからスマホを取り出して画面をタッチして操作を。
アルバムから目当ての動画を探し出す。フランチェスカからのビデオレターだ。
彼女の部屋が映っている。そして窓には鐘楼が――――。
「この鐘楼ってあの教会のですよね? どの方角かわかりますか?」
「どれ見せてみろ。この角度だと……あっちだ!」
そう言うなりアントニオはアクセルを踏み、次にハンドルを切った。
†††
「奥様、お加減はいかがでしょうか?」
「ありがとうセバスチャン。もう大丈夫よ。カップを下げてもらえる?」
失礼しますとセバスチャンがフローレンティナの膝上に載せられたカップをトレーごと下げる。
「それでは失礼します」
老執事が頭を下げ、トレーを持ったまま寝室を出ると廊下を進む。
大階段を降り、一階に着くと同時に玄関のドアからノッカーの音が。それもごんごんと激しく何度も叩く。
はて? この時間に来客の予定などないはずだが……?
きっと郵便か宅配便だろうと思い、トレーを傍らの年代物のコンソールテーブルに置いてから来訪者に対応すべく、ドアを開けた。
「すみません! あのっ、ここにフランチェスカさんはいますか?」
来訪者はドアが開くなり、そうまくし立てた。老執事はいきなりのことで面食らったが、すぐに平静を取り戻す。
「フランチェスカお嬢様のお知り合いの方でしょうか?」
「友人です! 彼女に会うために日本からきました!」
「
「お願いします! 彼女に会わせてください!」
安藤は頭を下げながら何度も「お願いします!」と懇願する。
だが、どこの馬の骨とも知れない者を入れるわけにはいかない。
「申し訳ございません。友人であろうとフランチェスカお嬢様に会わせるわけにはいきません。どうかお帰りを」
「セバスチャン、どうかしたのか? 騒がしいぞ」
見るとフリアンが部屋から出てくるところだった。
「ぼっちゃま、申し訳ございません。日本から来られた方がフランチェスカお嬢様のご友人だと申されまして……」
「なに?」
つかつかと来訪者のほうへ寄って顔を見るなり、フリアンは顔を強張らせた。
「お前……! 日本の教会でフランチェスカと一緒にいた男だな? こんなところまで来たのか!?」
「ええと、確かお兄さんですよね? お願いです。フランチェスカさんに会わせてください!」
「馬鹿を言うな! 部外者のお前に教えられるわけがないだろう!」
警察を呼んでもらうよう、セバスチャンに向き直ったとき、階上から声がした。
「フリアン? どうしたの?」
フローレンティナだ。騒ぎを聞きつけてきたのだろう。
「母上! 起きては身体に
だが母は息子の制止も聞かずに手すりに手をかけて慎重に階段を降りていく。
「奥様! どうかお部屋にお戻りを」
老執事に静かにするようにす、と手をあげ、日本から来た若き来訪者のほうを見る。
「あなた、もしかしてアンジロー……かしら?」
「え、あ、はい!」
ああやはりとフローレンティナがにこりと微笑む。
「あなたのことはあの子からよく聞いてましたわ。良いお友だちだと」
「そうなんですか……あの、彼女はどこにいるのですか?」
「残念ですが、あの子はもうここにはいません。すでに教会へ出発しました」
「そんな……!」
やっとここまで来たのに……!
「そういうことだ。儀式の邪魔をしないでさっさと帰ってくれ!」
「やめなさいフリアン!」
「し、しかし!」
なおも抗議しようとする息子に母はふるふると静かに首を振る。
そして安藤に向き直りながら。
「アンジローさん」
「はい」
「あの子は今まで友だちらしい友だちがおらず、そのことで寂しい思いもさせました。でも」
手を伸ばし、安藤の手を握る。
「私にはわかります。あの子は本当に良き友人を持ったのだと。あなたならあの子の居場所を教えても構わないでしょう」
彼女のいる場所の名前を口にする。
「急いだほうがいいですわ。誓願式は正午に行われますから」
「あ、ありがとうございます!」
礼を言うと安藤はすぐに踵を返した。フリアンが止めようとするのを母がやめなさいと制する。
「母上!?」
「行かせてあげなさい。大丈夫よ。あの子なら……」
フローレンティナは玄関からタクシーに向かって走る少年の背中を見送り、そして微笑んだ。
「あの子を、よろしくね……」
「おう、どうだったんだ? お嬢ちゃんには会えたのかい?」
助手席に乗り込んだ安藤に尋ねる。
「いえ、いませんでした。でも彼女がどこにいるか教えてくれました!」
「そうか! それでどこなんだ?」
すうっと息を整えてからその場所の名前を口に――――
「サン・フアン・デ・ガステルガチェです!」
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