第74話 旅立ちの朝 後編


 顔をのぞかせた太陽がサン・セバスチャンの街並みを照らす。

 この日、8月31日通りにあるカサ・マルガの前では安藤の前にマルガとぺぺの夫婦ともうひとり若いコックが立っていた。

 安藤がサン・セバスチャンに来て十日目。つまり今日がタイムリミットの日であり、そしてそれは彼らとの別れも意味する。

 

「短い間でしたが、本当にお世話になりました」

 

 バックパックを背負った安藤がぺこりと頭を下げる。


「こっちこそ、あんたがいてくれて助かったし、楽しかったよ」


 マルガがぎゅっと安藤を力強く抱きしめ、我が子にするかのように頭をぽんぽんと優しく叩く。


「いつでもいいから、またここに来なさいよ。あんたはあたし達の息子同然で、ここはあんたのカサでもあるんだからね」

「はい……」


 マルガが名残惜しそうにしながらも離れ、今度はぺぺが手を差し出す。

 バスク語だが、感謝の言葉だということはわかる。だから安藤はそれに対してバスク語で返す。


「Eskerrik asko(どうもありがとうございました)」


 バスク語での返礼にぺぺは目を丸くしたが、すぐに破顔して手を握る。

 「あ、あの……」と遠慮がちに前に出たのは、カサ・マルガの斜め向かいにあるオープンしたばかりのバルの若きオーナー兼コックだ。


「本当にありがとうございます……! 僕なんかのためにドンと対決してくださって……」

「閉店をまぬがれたそうですね。料理を出せることが出来て良かったです!」

「またサン・セバスチャンに来たら、ぜひうちにも来てください。その時はご馳走しますよ!」

 

 ふたりの若きコックは互いに手を握る。


「それじゃ、もう行かないと。タクシーを待たせてるので……」

「アンジロー! アンジロー!」


 安藤が踵を返すところへ、同時に彼を呼び止める声がふたつ。

 見ると、おーいと手を振るエンリケとラケルの父娘がこちらへと駆けてくるのが見えた。


「アンジロー、おめぇもう帰っちまうんだってな」


 安藤の元に着くなり、ふぅふぅと肩で息をつきながら。


「はい。フランチェスカさんの居場所はわかりましたし、もともと今日までしかここにいられないんです」

「そうか! ついにお嬢ちゃんを見つけたんだな!」


 良かった良かったと頷く。


「エンリケさんはこれからどうするんですか?」

「いやぁ、ラケルと一緒にまたいちから始めようと思ってな。おめぇのおかげだ。ありがとな」

「いえ、俺もエンリケさんと出会ってなかったらここまで来れなかったです。本当にありがとうございました」

 

 ぺこりと安藤が頭を下げたので、エンリケが「よせやい」と照れくさそうに笑う。

 

「アンジロー、アンジロー!」

 

 エンリケの傍らでラケルが何度も名前を叫ぶ。


「ラケル先輩にもお世話になりました」


 小さな先輩が手をこっちに来いとでも言うように振る。

 安藤がしゃがんで彼女と同じ目線になるようにする。

 だが、彼女は何か言いたいことがあるらしく、指をもじもじさせていた。

 やがて意を決したのか、口を開く。


「ア、アリガト……」


 たどたどしい日本語で礼を言うラケルにくすっと微笑み、安藤もバスク語で礼を返す。


「マルガさんと先輩には料理のことをいろいろと学ばさせてもらいました」

「う、うん……」


 エンリケの通訳を聞き終え、ふたたび指をもじもじさせているといきなり抱きついてきた。


「せ、先輩?」


 だが、小さな先輩は何も言わずに抱きしめるだけだ。細い腕を首の後ろに回して抱き、小さな手でぽんぽんと頭を優しく叩いてくれる。

 肩が震えているのは涙を流すまいと堪えているのだろう。

 少ししてからラケルが体を離し、じっと安藤の顔を正面から見る。


「あの、先輩……?」


 すると戸惑う安藤の顔に自らの顔を近づけたかと思うと、ほほに口づけを。


「おいおい! とうちゃんがここにいることを忘れてないか!?」


 娘の大胆な行動に慌てる父をよそに、ラケルが「ん」と腕を突き出す。フィストバンプだ。

 ごつんと拳を合わせ、次にハイタッチ。ぱちんと小気味良い音が響く。


「それじゃ、エンリケさんもラケル先輩もお元気で……」

 

 手を振って別れを告げる安藤にマルガとべべの夫婦や若いコックが手を振り、エンリケが敬礼を。ラケルは姿が見えなくなるまでひたすら手を振り続けた。

 やがて角を曲がって完全に姿が見えなくなり、マルガがずっと鼻をすする。

 

「さて、開店の準備だよ! あの子がいなくなった分、忙しくなるからね!」



 角を曲がり、安藤はタクシーの待つ車道へ向かうべく歩く。

 一歩一歩の足取りが重い。まるで足首に重りをつけられたような感じだ。

 だが、それでも前に進まなければならない。この旅の目的は彼女、フランチェスカに逢いに行くことなのだから。

 だから決してここで立ち止まってはいけない。頭ではわかっていても胸の中で思いが込み上げてくる。

 突然、頬に何かが伝ったので触れてみると涙を流していたことに気づいて、ごしごしと袖で拭う。

 よし、と奮い立たせるようにしてバックパックを背負い直してふたたび歩き出す。

 程なくして車道に出た。そしてそこには路肩に停められた一台のタクシーが。

 そしてドアにもたれかかるようにして立つ男がひとり――――


「タクシーはご入用で?」


 そう言ってぐいと親指でハンチング帽のつばを押し上げ、アントニオがウインクを。



誓願式のタイムリミットの正午まで、あと五時間――――。


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