第74話 旅立ちの朝 前編


 早朝。太陽がのぼり始める頃――――。

 誓願式当日のザビエル邸は荘重そうちょうな空気に包まれていた。

 玄関ホールに設置されている柱時計の振り子がリズミカルに揺れ、時を刻む。

 かちりと短針が六時を指し、ぜんまいと歯車による仕掛けで時報が厳かに響く。

 食堂では父のアルフォンソと兄のフリアンが朝食を摂っていた。

 執事のセバスチャンがアルフォンソのカップに紅茶を注ぐ。


「ありがとう。フローレンティナにはもう朝食は運ばせたかな?」

「先ほどメイドに運ばせました。それと先ほどお電話があり、ベネディクト司祭様とマヌエル枢機卿様が教会に向かって出立なされたとのことです」

「そうか」

「いよいよ今日ですね。父上」


 フリアンの言葉に父がうむと頷く。


「もうすぐしたら出発だ。フリアン、留守を頼むぞ。母さんをよろしくな」

「心得ております」


 その頃、見習いシスター、フランチェスカ・ザビエルは修道服スカプラリオのまま、鏡の前に座っていた。

 彼女が身に着けている修道服は見習いシスターのそれだ。

 やがて鏡面に映った彼女の背後から初老のメイドが近寄る。手にははさみが。


「よろしいですか?」

「ええ、お願い」


 フランチェスカは無表情のまま答え、メイドがかしこまりましたと言うなり、見習いシスターの腰まで伸びた金髪を手で束ねるようにして、横から鋏を入れていく。

 じょきりと刃と刃が擦れる音がしたかと思うと、ばさりと一房の髪が床に落ちた。

 次に体裁よく整え、最後にブラシをかければ終わりだ。


「終わりました。よくお似合いですよ」


 そう言うメイドの顔は笑顔だが、無理しているようにも見える。


「ありがとう……」


 鏡に映った自分の顔を眺める。耳の下まで切られた髪型をした自らをしばし見つめたのちに、手を後ろに回して髪に触れた。

 腰まで伸びた髪が無くなった分、頭が軽くなったような感覚だが、首元がすーすーとして落ち着かない。

 

 子供の頃から伸ばしてたもんね……。


 その時、コンコンとノックの音が。

 もうひとりのメイドだ。


「修道服の支度が整いましてございます」


 メイドに連れられた部屋にはトルソーに掛けられた純白の修道服――――正式なシスターとしての修道服が持ち主を待つかのようにして立っていた。


「お手伝いいたします」


 初老のメイドと年の若いメイドふたりがフランチェスカから見習いの修道服を脱がし、下着姿となった彼女に新たな修道服を着せていく。

 最後にヴェールを被せ、金の十字架ロザリオを胸元にかける。

 

「本当に、よくお似合いですよ」

「ええ、私もそう思います」


 姿見に映った姿はこれまでのお転婆な彼女とは思えない、まさしくけがれを知らぬ聖女そのものであった。


「本当に、ご立派になられて……」


 初老のメイドがハンカチを目尻に当てる。

 

「そろそろ出発の時間です。階下にてアルフォンソ様がお待ちです」

「まって、その前に寄りたいところがあるの」


 部屋を出て廊下を進み、角を曲がってさらに進んでいくと目的地であるドアの前へと着いた。

 こんこんと軽くノックしてから、「どうぞ」という柔らかな声。

 ドアを開けると、そこは寝室だった。窓から陽光が差し込み、その柔らかい光を受けながらベッドから半身を起こした母のフローレンティナがにこりと微笑む。

 

「おはようフランチェスカ。よく似合ってるわよ」

「おはよ。ママ……」


 本来であれば母上と呼ばなければいけないのだろうが、現時点ではまだ見習いシスターなのだから罰は当たらないだろう。

 なによりフローレンティナはその事を気に留めるような人物ではない。


「ついに今日ね」


 こっちにいらっしゃいと手招きし、膝の上の朝食を載せたトレーをサイドテーブルに置く。


「ごめんなさいね。体の調子がもう少し良ければ見送りに出たのに」


 ベッド脇の椅子に腰かけた娘の頬に手を触れ、申し訳なさそうな顔を浮かべながら。


「気にしないで。あのねママ」

「なにかしら?」

「うん、あのね……」


 言いにくそうにする娘の手を安心させるように握ってやる。


「ね、ママ。あたし、このままでいいのかな……?」

「……誓願式に出たくないのね?」

「うん……行かなきゃいけないのはわかってるんだけど……」


 ヴェールに母の手が触れたかと思うと、頭を撫でてくれた。


「さ、ここに来て」


 ぽんぽんと膝の上を叩く。

 辛いことや嫌なことがあった時にはいつもそうしてくれたように。

 フランチェスカは頭を膝の上に預けた。毛布越しに伝わる母の体温と撫でてくれる掌の感触が心地よい。


「長い髪、なくなっちゃったわね」

「うん……切っちゃった」


 少ししてからふたたび母に問う。


「ね、ママ。あたしの人生って、いったいなんだろ?」

「難しい質問だわ。でもね、それは自分で決めるものよ」


 顔を母のほうへと向ける。柔らかな笑顔を浮かべる母の顔がそこにあった。


「……ママは、あたしがシスターにならなくてもいいの?」

「あなたがどんな道を歩もうと、ママはいつでもあなたの味方よ。悔いのないように生きてね」

「うん……」


 じわりと滲んだ目尻を拭う。

 

「あのね、あたし……」


 そこまで言ってからやめて身を起こす。


「ううん、なんでもない。もう行かないといけないから……」

「行ってらっしゃい。あなたに神の加護がありますように」


 ベッドから見送る母にこくりと頷き、ドアノブに手をかける。


「うん……行ってきます」


 ぱたりとドアが閉じられ、部屋でひとりとなったフローレンティナは閉じたドアをしばし見つめた後に胸の前で両手を組み、祈りの言葉を唱えた。

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