第73話 それぞれの前夜 -アンジロー編-
「う……?」
カサ・マルガの二階にて安藤は目を覚ます。
あ、そうか……あの後眠ってしまったんだっけ。
突っ伏していたテーブルから半身を起こし、んーっと伸びをひとつ。背骨と腰がぎしりと
無理もない。昨夜からほぼ不眠不休でドンとの対決に備えていたのだから。
そして対決に勝利したいま、ドンが今夜フランチェスカの居場所を知る人物を連れてきてくれることになっている。
「とにかく下に行かないと……」
とんとんと腰を叩きながら階下のバルへと降りていく。
バルは相変わらず常連客でごった返しており、マルガとぺぺの夫婦は大わらわだ。
客のひとりが安藤に気づき、指差す。
「みろ!
それを皮切りにして、他の客たちが歓声をあげて安藤を迎える。
ある者はジョッキを片手に、ある者はワイングラスを手にして「アンジロー! アンジロー!」と連呼するので、当の本人は困惑顔だ。
そこへマルガがもう大丈夫なのかと駆け寄り、「もう大丈夫です。それより、この騒ぎは……?」と逆に聞くとドンを負かしたことがすっかりサン・セバスチャン中の噂になっているそうな。
「はは……ありがとうございます……」
照れくさそうにぽりぽりと頬を掻きながら頭を下げると、バルはふたたび歓声に包まれた。
握手や記念写真を求められ、しまいにはサインを求める者も出た。
「まだ疲れが取れてないなら休んでもいいんだよ」
「ありがとうございます。でも今日がここで働く最後の日なんで、少しでもここにいたいんです」
「そうかい……それじゃ頼むよ」
コックコートのまま厨房の裏へまわり、調理補助にかかる。
ラケルの姿が見えないが、今日は非番だろうか。いずれにしても父親との再会に水を差すのは野暮というものだ。
トントントンとリズミカルに包丁を動かし、フライパンに火を通し、ピンチョスやタパスに最後の仕上げを施していく。
そのあいだも常連客から感謝の言葉が絶えることはなかった。
フランチェスカの居場所を知る人物が現れるのをいまかいまかと入口のほうを見るが、まだその姿を現さない。
入口のドアが開くたびに顔をあげるが、いずれも待ち人ではない。
時間が経つにつれ、店内の客たちも減っていき、同時に焦りが出始める。
それでも安藤は調理の手を休めない。こういう時はなにかしていないと不安になるものだ。
「そろそろ看板だから出てっとくれ!」
ついにマルガが最後に残っている客を追い払おうとする。
客は文句を言うが、結局は渋々とバルを出た。
ぺぺが「先に上がるぞ」と言い残して二階へと消えると、店内は安藤とマルガのみとなった。
「ついに来なかったね……」
マルガが客がいなくなってがらんとしたバルを見回しながら。
「やっぱり騙されたんだよ」
「そんなことは……!」
ないと言い切れない自分が悔しかった。ドンは確かにマフィアのボスだが、義理は通す人物だと思っていたのだ。
だが、所詮マフィアはマフィア。そんな男の言うことを信じた自分は馬鹿だったと呪いたくなる。
「誰もあんたを責めるひとはいないよ。あんたはよくやったんだからさ」
ぽんと肩に手を置き、「さて、店じまいだよ」とドアにかかったプレートを『閉店』に変えるべく、入口のほうへと向かう。
ドアを開けてぱたりと閉まると、安藤はひとり溜息をつく。
人ひとりいない店内では余計に響いた。
片付けしないと……。
皿やグラスを流しに運ぼうとした時、ドアがいきなりばんっと勢いよく開かれた。
何事かと見ると、マルガが嬉しそうにこちらを見ていた。
「アンジロー! 来たよ!」
そしてドアを抑えて来訪者を中に入れる。
最初に入ってきたのは今日の美食クラブにも来ていた小男だ。
誰かに肩を貸しているらしく、苦労しながらもやっと店内に入る。
いったいどんな人物なのかと安藤はごくりと唾を飲む。
「ほら、着いたぞ! 頼むからしっかり歩いてくれ!」
「飲み過ぎだぞ!」ともうひとり支える男。
小男ともうひとりの部下の間に支えられながら、千鳥足で歩くその男はここに来るまでしこたま飲んできたらしく、顔を真っ赤にしていた。
「俺ぁ、酔ってねぇよ。二、三軒まわったらけらぁ」
呂律の回らない舌で文句を言い、どう見ても五、六軒はまわってきたであろう顔を上げる。
その顔を見るなり、安藤は落胆した。
それもそのはず、その来訪者はタクシーの運転手――――アントニオだった。
ふたりの部下はなんとかアントニオをカウンターに座らせ、その場を去ろうとする。
安藤が慌てて呼び止める。
「ま、まってください! この人はフランチェスカさんの居場所は知らないと言ってました!」
「俺はボスにこいつを探してここに連れてこいと命令されたんだ。文句があるならボスに言え!」
部下の小男が肩を揉みながら悪態をつき、もうひとりの部下と店内を出る。
ドアが荒々しく閉められ、店内にはマルガ、カウンターに突っ伏すアントニオ、そして泥酔した彼を困惑顔で見つめる安藤の三人だけとなった。
マルガが溜息をつき、厨房にまわってコップに水を注いでアントニオの前に出す。
それを「ありがてぇ!」と言ってがぶがぶと飲み干す。
ふーっと酒臭い息を吐き出し、顔を上げるとはじめて安藤が目の前に立っていることに気づいた。
「おー……アンジローじゃねぇか! 奇遇だなぁ」
大仰な身振りで再会を喜ぶ。
「アントニオさん……」
「アントニオでいい! 俺らはもう兄弟だ。わかるか? アミーゴよ」
ひっくとしゃくりあげ、水をもう一杯と頼んだので、今度は安藤が水を注ぐ。
「
ことりとコップをカウンターに置く。
この様子ではまともに聞き出せないだろう。それでなくても彼は居場所を知らないのだ。
それでも念の為にと、ズボンのポケットからスマホを取り出して彼女が写った画面を見せる。写真を見せるのはこれがはじめてだ。
「あの、この子知りませんか? この子を探しているんです」
アントニオは緩慢とした動きでスマホの画面に現れたそれを見る。
「お、おおー……知ってる。どこにいるかも知ってるぞ」
「やっぱり知らないか……って、知ってるんですか!?」
思わずカウンターから身を乗り出す。
タクシーの運転手はもちろんだと芝居がかった動きで頷き、スマホをひったくる。
そしてとろんとした目をしながらも真剣な表情になった。
「いいか、よく聞け」
「はいっ」
ついに彼女の居場所がわかるのだと思うと、安藤は気が気でない。
それは後ろに立って布巾をぎゅっと握りしめているマルガも同様であった。
アントニオはスマホの画面の中の彼女を安藤に向け、指差す。
「彼女は天使だ。天使は天国か、教会にいるものだ」
間違いねぇと大きく頷き、ひっくとしゃくりあげる。
緊張の面持ちで聞いていた安藤とマルガはがくりと肩を落とす。
やっぱり酔っ払いはあてにならない。
スマホを返すと赤ら顔の運転手はそのまま突っ伏し、たちまち
「あきれた! ドンのやつ、ちゃんと義理を通したかと思えばこんな酔っ払いを連れてくるなんて!」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、カウンターにまわってアントニオを起こしにかかる。
安藤はスマホを手にしたまま、呆然と立ったままだ。画面にはピースサインで屈託なく笑うフランチェスカの姿が。
画面に指を触れ、トントンと操作する。やがて目当ての動画を見つけ、再生をタッチ。
彼女がスペインに帰ってから送られた動画メッセージだ。
三人しかいないバルで彼女の声が響く。
「――――でも、しょうがないの。先祖代々続いていることだから……誓願式を終えたら、シスターとして暮らさないといけないから……」
次第に画面の中の彼女は涙ぐみ、やがて日本の思い出を話す。
「あたし、ホントは日本に帰りたい。アンジローと、まいまいのいるところに帰りたいよ……」
彼女の部屋の外から教会の鐘が鳴る。その荘厳な音は店内でも静かに響いた。
マルガに揺り起こされ、アントニオがむにゃと寝言を。その次に「良い鐘の音だ」と頷く。
「うーん……良い音だ。やっぱりマグダレーナ教会の鐘の音はキレイだなぁ」
そう言ってふたたび眠りにつこうとしたアントニオを安藤がカウンター越しに激しく揺り起こす。
「な、なんだ!?」
「いま、なんて言ったんですか……!?」
いきなり真顔でそう問われ、アントニオは目をぱちくりとさせる。
「教会って言いましたよね? どこの教会ですか!?」
「ま、マグダレーナ教会だよ……ナバラ地方にある」
サン・セバスチャンに来て9日目。ついに掴んだ手がかりに安藤は思わず大声をあげた。
「そこに連れてってください!」
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