第73話 それぞれの前夜 -フランチェスカ編-
その日の夜。ザビエル邸の食堂ではフランチェスカの父、アルフォンソと兄フリアンがベネディクト司祭とマヌエル
母のフローレンティナは体調が優れないので、寝室で休んでいる。
「いよいよ明日ですな」
「さよう。誓願式のリハーサルも滞りなく済んだことですしな」とマヌエルが合いの手。
「明日はよろしくお願いいたします。ワインをもう一杯いかがでしょうか?」
「いただきましょう」
「私が注ぎましょう」
フリアンがそれぞれ三人のグラスに注ぐ。
ボトルにはあと一杯分ほど残っていた。傍らに座る妹――――フランチェスカのほうを見るが、グラスにはまだ半分以上残っている。
「まだいいよな? というか、飲みすぎるんじゃないぞ」
「わかってる……ちゃんと抑えて飲んでるから。明日早いんだし」
そう言う見習いシスターの彼女の頬にはほんのりと朱が差していた。
これまでの失敗や前回にやらかした失態から学んだのだろう。
「ちょっとごめん。夜風に当たってくるね」
少し失礼しますと離席を詫び、食堂を出て、廊下に面した窓を開けてバルコニーへと出た。
八月の暑い季節とは思えない心地よい風がひゅうっと頬に当たり、金髪を
頭上には満月が夜空にぽかりと浮かぶのみ。
見習いシスターは石造りの手すりに手をかけてふぅっとため息をひとつつく。
いよいよ明日、か……。
正確には明日の正午に行われる誓願式にて正式に修道女として暮らすことを誓えば、晴れてシスターとなる。
そうなれば……
「もうあの日々には戻れないもんね……」
ふぅっともう一度ため息をつき、手すりに両腕を乗せ、その上にもたれると石造りのひんやりとした冷たさが伝わってきた。
屋敷の外、街では民家やバルに明かりが灯っており、
常連客はバル巡りや談笑したりと日々の営みを過ごしていることだろう。
自分のいる場所とはまるで別世界だ。
フランチェスカはそんな彼らの暮らしを羨ましく思う。
そういえば、昔の映画で人間になりたい主人公の天使が人間界に降りる話があったわね……。
あの映画の結末はどうなったのだろう。主人公はそのまま人間になれたのだろうか? そもそも人間界で人間らしく過ごせたのだろうか?
ピノキオは人間になれたのにね……。
「大丈夫か? フランチェスカ」
いきなり後ろから声をかけられ、どきりとする。振り向くと兄がいた。
「フリアン兄さん……」
「父上が心配していたぞ。お前がなかなか戻らないから」
「ん、大丈夫。ちょっと考えごとしてただけ」
「そうか。明日いよいよ誓願式だもんな……無理もないが」
兄のほうを見てから景色の方へと視線を戻す。
「ね、兄さん」
「ん、なんだ?」
「その、兄さんはさ……こう考えたことはない? もしかしたら自分には別の道が、別の生き方があるんじゃないかって」
首をめぐらして兄を見る。するとフリアンは何を言っているのかと言わんばかりの顔だ。
「そんなこと考えたこともないな。僕にはこの道しかないし、他の生き方なんて考えられないよ」
それにと付け加え、妹に向き直る。
「僕らは由緒正しきザビエル家の子孫だからね。昔から続く伝統や血筋は守っていかなければ」
兄であり、牧師であるフリアンはしっかりと見据える。それはまるで自らの揺るぎない決意を表すかのように。
「…………兄さんって、やっぱり頭の固い“クソ兄貴”ね」と『クソ兄貴』の箇所だけ日本語で言ってくすっと笑う。
「頭の固いは余計だ! それよりそろそろ戻ったほうがいいぞ。長く外にいると風邪ひくぞ」
「ん、わかった……そうする」
バルコニーから戻ろうとするところへいきなりフリアンが立ち止まった。
「そういえばフランチェスカ」とくるりとこちらへ向き直る。
「なに?」
「日本に行ったときも聞いたが、その『クソアニキ』というのはどういう意味なんだ?」
「あー……」
なんて言おうかと考え、結局意味は伝えないことにした。
「日本語で『お兄ちゃん』って意味よ!」
にっといたずらっぽい笑みを浮かべる。
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