第71話 決戦前夜


 安藤とラケルのふたりを乗せたタクシーは一路、市場メルカードへと走らせる。


「驚いたぜぇ。戻ってくるなり市場に行ってくれって」

「すみません。でももう時間があまりないんです」

「いいってことよ。それよりなにか良いアイデアが思いついたみてぇだな」


 その顔を見れば一目瞭然さとバックミラーに映るアントニオがにこりと微笑む。

 

「ここから市場まで飛ばすからな。シートベルト締めとけよ!」


 †††


 十分ほどでタクシーは最寄りの市場に到着した。

 「ここで待ってるからな」と言ってくれたアントニオに礼を言い、ふたりは市場の奥へと入っていく。

 種々雑多な野菜から目当ての食材を籠にどんどん入れ、鮮魚店や精肉店ではラケルが価格交渉を務めたので手頃な価格で手に入れることが出来た。

 三十分かけて市場を回り、最後にアントニオの乗るタクシーに戻ったときはふたりとも食材を詰めた紙袋を手にしていた。

 

「準備万端ってとこだな。次はどこへ行くんだね?」


 決戦の場となるホテルの名を告げる。


「よし! んじゃ飛ばすぜ!」


 アントニオがアクセルを踏み込んでタクシーを発車させ、これまた十分ほどでホテルの前に到着した。

 安藤が料金を支払おうとするところへ、アントニオが「お代はいらねぇ」と手を振る。


「頑張れよ。お前らふたりなら大丈夫さ。神さまはすべてを見てらっしゃるからな」

「はい!」

「Aitortu dut!(がってんだ!)」


 運転席の窓から腕を伸ばしてサムズアップとウインクを送るとそのままタクシーは闇の中へと走り出す。

 ロビーの中へと入ると、宿泊客だけでなくフロントやボーイの従業員がふたりを怪訝けげんそうな視線で迎える。

 無理もない。買い物袋を抱えたまま入ってくる客など、この高級ホテルにはおよそ似つかわしくないのだから。

 じろじろと見る視線を無視してふたりはエレベーターの筐体きょうたいへと乗り込み、操作盤のパネルの蓋を開ける。

 ドン・サンチェスが作らせた美食クラブの階があるボタンを押すとふたりを乗せた筐体は下へと下降していった。

 その様子を壁の角からうかがっていた人物は周りに誰もいないことを確かめたのちにひょこひょことエレベーターの前まで来るとボタンを押して呼び出す。


 安藤とラケルを乗せた筐体は最下層に到着し、蛇腹状の扉を開けて廊下に出る。

 そして美食クラブの扉を開け、厨房に入ると食材の入った紙袋をシンク横のワークトップに。

 安藤がズボンのポケットからスマホを取り出して翻訳アプリを開き、マイクに向かって話す。


『思いついたことがあるんです』


 日本語からバスク語に翻訳された文章を見せると、ラケルは「ん」と頷く。

 さらに続けようとしたところへ扉からノックの音が。

 安藤とラケルがそのほうを見ると、恐る恐ると扉を開けて入ってきたのは紙袋を手にしたエンリケだった。

 

「噂には聞いていたが、本当にあったとはな……」


 元コックのみすぼらしい格好をしたホームレスがあたりを見回す。


「エンリケさん? どうしたんですか? というか、よく入れましたね」

「裏口からちょちょいのちょいとな」

 

 娘であるラケルが睨んでいることに気づくと、ばつが悪そうにする。

 

「なにか用があるんですか?」

「おお、おめぇらに渡したいものがあって来たんだ」


 そう言うとエンリケは傍らのクロスが掛けられたテーブルにくしゃくしゃになった紙袋を置く。

 そして袋に手を突っ込み、取り出したのは純白のコックコートであった。


「俺がコックだったときに使ってたやつだ。俺とそんなに背丈は変わらないから合うはずだ」


 洗濯され、ぱりっとのりが利いたそれを安藤に渡す。


「いいんですか……? こんな立派なものを」

「誰がなんと言おうと、おめぇはもう立派なコックだ。ラケル、お前はこれだ」


 そう言って渡されたのは一段小さいサイズのコックコートだ。


「おめぇにピッタリのがなかったからちょいとここのを拝借したんだ」

「拝借って……」

「コックコートの一枚や二枚どうってことねぇよ」

 

 とにかく着てみろとエンリケに言われ、とりあえずシャツの上から着てみることに。

 袖を通し、丸ボタンをボタンホールにはめていき、最後にエプロンの紐をぎゅっと結ぶ。


「なかなかサマになってるじゃねぇか」


 安藤のコック姿に満足し、娘のほうはどうかと見る。

 だが、一段小さいとはいえ、それでもだぶだぶだった。


「Handiegia!(大きすぎ!)」


 伸ばした腕から長すぎる袖がだらんと垂れ下がる。もともとコックコートの袖は熱いフライパンの柄を掴めるよう長くとられているが、それでも不釣り合いな長さだった。


「いちばん小さいのがこれしかなかったんだ」


 しかたねぇよと言い訳する父を不満げに見つめる娘の父娘に安藤がははと苦笑する。

 と、コートのポケットになにかが入っている感触があったので、手を入れて中身を取り出す。

 ハンチング型のコック帽だ。

 

「それも俺が使ってたやつだ」

「へぇ」

 

 コック帽を見ていると、いきなりラケルがひったくって頭に載せる。

 そしてだらんと垂れ下がった袖で両腕を組む。

 まるで自分がシェフ料理長だと言わんばかりにふんすっと胸を反らす娘の姿にエンリケは苦笑する。

 

「ふたりとも頑張れよ。俺には、これぐらいしかできねぇからよ」


 じゃあなと手を振って部屋を出ると、安藤が後を追ってきた。


「まって! エンリケさん、話があるんです」

「なんだ?」


 引き留め、小声で二言三言交わすとエンリケは目を丸くした。


「そうか……わかったよ」


 うんと頷き、ふたたびじゃあなと手を振るとエレベーターの筐体へと向かう。

 部屋に戻るとラケルがなにがあったのかと首を傾げ、ずるっとずれたコック帽を押さえる。


「いえ、なんでもないっす。それより、俺のアイデアなんですが……」


 スマホをふたたび取り出し、さっき言いかけていたことをマイクに吹き込む。

 バスク語に翻訳された文章を読むなり、ラケルはふおおと目を輝かせたかと思うとサムズアップを。

 このアイデアは先輩も納得いったようだ。

 

「いよいよ明日ですね!」

「ん!」


 翻訳アプリを使わなくとも通じあったふたりはごつんとこぶしを合わせ、厨房へと入った――――。



 ドン・サンチェスとの決戦は明日の正午。そして請願式のタイムリミットまであと二日。


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