第70話 Txikiteo -バル巡り- ③

 

 バルを出て十分ほど歩いたところにそのバルはあった。

 

「おや、アマママ・マルガじゃないか! ひさしぶりだね」


 眼鏡をかけた店主が笑いかける。


 「いつものを三人分頼むよ」の注文に「ほいきた!」と応え、オーブンから取り出したばかりの皿を見せる。

 タルタ・デ・ケソなる、きつね色をしたホールケーキは表面が黒くなるまで焦がしたキャラメルに覆われ、香ばしい香りが鼻腔をつく。

 手際よく切り分けられたケーキが三人の前に供されたそれは――――。


「これ……バスクチーズケーキですよね?」

「あんたの国ではそう呼ばれてるのかい?」とマルガ。


「はい。ただその時はコンビニで売られているものでしたけど」


 あれはいつのことだったろうかと記憶を馳せながらケーキをぱくりとむ。


「ッ!? 美味い!」


 焦げ色がしっかりついているにも関わらず、中身はとろとろとクリーミーで濃厚だ。濃厚ではあるが、それでいてしつこくなく、何度も食べられそうだ。

 ベイクドでもレアでもないしっとりとした感触でふと記憶が呼び起こされる。

 

 そうだ、あれは去年フランチェスカさんとデートに行ったときに食べたっけ……。


「よかったらレシピ教えようか?」


 いきなり店主にそう話しかけられ、言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。


「いいんですか……? 普通こういうのって企業秘密なんじゃ……」


 すると店主はにっこりと笑う。


「そんな大層なものじゃないよ。きみも料理をするのが好きそうだからね。それに」


 エプロンのポケットからメモを取り出す。レシピだろう。

 「美味しいものに国境はないからね」とウインク。

 渡されたレシピを受け取り、「ありがとうございます!」と頭を下げる。


 †††


 ケーキで別腹を満たした三人は店主に礼を言ってバルを出る。


「どうだい、アンジロー? 参考にはなったかい?」 

「はい! まだこれといったものは決まってないんですが、勉強になりました」


 その時、ズボンの裾を引っ張られる感じがしたので、見下ろすとラケルが。

 顔が赤いところを見ると、酔っているのだろう。マルガがまたかと首を振るところをみると、以前にも同様のことがあったようだ。


「まったく……あんたは二十歳だけど、体は子どものままなんだからね」

「うー……」


 ぽんっと頭を叩かれ、仏頂面のラケル。


「さてと、最後に行きたいところがあるんだけど、いいかい?」

「またバルですか!?」


 うっぷとげっぷを堪える安藤を見てマルガが笑う。


「いくらあたしでもこれ以上は腹に入らないよ。ちょっと観光でもしていこうかと思ってね。タクシーで行くよ」

 

 通りから出て、タクシーを拾う。

 マルガが先に乗り、その後からラケルと安藤が乗り込む。


「おや、また会ったな」


 運転席の中年男性がバックミラーを見ながら言う。


「あ、アントニオさんですよね? お久しぶりです」


 安藤がサン・セバスチャンに来たときに初めて乗ったタクシーで会った運転手だ。


「覚えてくれてて嬉しいぜ。それでどこまで行くんだね?」

 

 ハンチング帽を載せた頭をこちらに向けてウインクを。

 マルガが行き先を告げ、「あいよ! シートベルトを締めてくれ」とアントニオがアクセルを踏み込んで発車させる。


「それで、お嬢ちゃんには会えたのかい?」


 しばらく走らせてからアントニオが聞いてきた。


「それがあと少しというところまできたんです」


 モンセラットでやっと彼女の姿を捉えたことをかいつまんで話す。


「でも、結局彼女とは会えずじまいで……」

「そうか、そりゃ残念だったな。だがね、すべては神さまの思し召しさ」


 バックミラーを見ながらふたたびウインク。


「それより聞いたぜ。明日ドン・サンチェスと対決するんだってな」

 

 噂はここでも広がっているようだ。


 「アントニオさんも知ってるんですね」と苦笑すると「こういう仕事してると噂はすぐに耳に入るからな」と笑う。


 やがて窓から海岸が見えてきたかと思うと、砂浜が開けてきた。

 「ラ・コンチャビーチだよ」とマルガが教えてくれ、タクシーは遊歩道の路肩に停車した。

 

「ここでちょいと待っとくれ」

「あいよ。ごゆっくり!」

「さ、ふたりともこっちだよ」


 タクシーから降りた三人は右に海岸を眺めながら、遊歩道を歩く。

 ラケルはまだ酔いが覚めていないため、安藤の背中におぶさっている。

 日はすでに傾きつつあるが、地元民や観光客はそれに構わず泳ぎ、砂浜ではシートを敷いた海水浴客が寝そべって談笑したり、昼寝をしたりとリラックスしていた。

 半裸の女性の魅力的な肉体は安藤にとっては目の毒だろう。

 目のやりどころに困った安藤はなるたけそちらのほうを見ないようにするが、やはりどうしてもちらちらと見てしまう。

 そんななか、安藤の背中にリスのようにしがみつくラケルはと言えば――――


「…………」


 実り乏しき自らの胸を見下ろしたのちに後輩の頬を後ろからぎゅっとつねる。


「痛っ! ちょっ、なにするんすか!? 先輩!?」

「Ibili isilik!(だまって歩け!)」


 †††

 

「着いたよ」

 

 しばらく歩いてからマルガが足を止める。

 そこは海岸の東側、高台にある公園だ。

 「モンテ・ウルグルさ」とマルガが言う。この公園はもともと要衝ようしょうだったところで、あちこちに城壁の跡や大砲が残っている。

 そして目を引くのはやはり砦の中央に立てられたキリスト像だろう。

 

「ここからいい景色が見えるよ」

「わっ!」


 マルガが指さす場所に立ってみると、なるほど海岸だけでなくサン・セバスチャンの街並みが見渡せた。

 ここから見るとラ・コンチャ湾はまるで貝のように孤を描いており、碧い海と白い砂浜のコントラストが美しい。


「ラ・コンチャというのはスペイン語で貝のことさ」


 そう言われ、確かになるほどと思った。


「あたしはここから見る景色が好きなんだよ」


 それに、と頂上に立つキリスト像を見上げる。


「あたしが若いときにね、あのイエスさまの下でぺぺからプロポーズを受けたのさ」

「すてきですね」

「よしとくれ! こんなおばさんをからかうもんじゃないよ!」

 

 ぴしゃんと安藤を叩くマルガはどこか嬉しそうだ。

 

「フランチェスカだっけ? あんたも運命の人に会えるといいねぇ……」

「はい」

「おや、もう寝ちまったのかい。しょうがない子だね」


 マルガがぽんぽんと幼子のように眠るラケルの頭をなでてやると、うぅんっと可愛らしい寝言を。


「この子ね、うちに初めてきたとき、ここで働きたいと言ったんだよ。で、あたしが理由を聞いたらさ、この子なんて言ったと思う?」

「料理の勉強とかですか? 料理学校に通ってるんですし」


 マルガがふるふると首を振る。


「お父さんのために店を開きたいんだってさ。ああ見えてエンリケはもともと腕利きのコックだったからね」


 このことは内緒だよと人差し指を唇に当てながら茶目っ気たっぷりに笑う。

 安藤は起こさないように注意して先輩の寝顔を伺う。相変わらず彼女は寝息を立てている。

 いよいよ明日はドン・サンチェスとの対決だ。

 勝てば、フランチェスカの居場所を知る人物を教えてくれることになっているが、今のところ決め手がまだない。

 安藤はもう一度眼下に広がる美食の街並みを見下ろす。

 あちらこちらの民家やバルに明かりが灯りはじめる。

 安藤は人々がそれぞれ生活を営むこの景色をぼんやりと眺めていた。

 

「俺も、この景色が好きです」

「そうかい、やっぱりここに連れてきて正解だったよ」


 安藤はさっきまでバル巡りをしていた場所をたぶんあの辺りだろうと見当をつける。

 この時間はどのバルも賑やかで活気溢れている頃だろう。


 どのバルも美味しかったな……。


 バル巡りで食べたピンチョスやタパスに思いを馳せる。


 みんなそれぞれ自分の得意なことを活かしてて――――


 そこまで思いめぐらせ、はたと気づく。


「そうか!」

「んぉっ!?」


 安藤が大声をあげるのと同時にラケルも頓狂とんきょうな声をあげながら目を覚ます。

 

「なにか思いついたようだね」

「はい! すみません、俺今から市場メルカードに行ってきます!」


 怪訝そうに安藤を見るラケルにマルガが通訳すると、小さな先輩は「ん!」と力強く頷く。

 そして安藤はラケルを背負ったまま、踵を返してもと来た道を駆けていく。


「タクシーを使っていいよ! あたしは歩きながら酔いを冷ましていくからさ!」

「はい!」

「頑張るんだよ!」


 ふたりの背中にそう声をかけたときはすでに姿は見えなくなっていた。


「頼もしくなってきたね」

 

 うんうんと頷き、マルガも来た道を戻っていく。

 公園から遊歩道に着いたときにはすでに日は沈んでいた。停めておいたタクシーはすでにそこにはない。

 しばらく遊歩道を歩き、いくらか酔いが冷めた頃、前方に見知った三人組がこちらへと歩いていくのが見えた。

 亭主であるぺぺが飲み仲間に左右から支えられている。

 すでに酔っているらしく、顔は真っ赤だ。

 女房であるマルガを認めると、赤い顔でへらへら笑う。


「マルガ、マルガ!」

 

 千鳥足でふらふらともたれかかるようにしてマルガのもとへと。


「こんなになるまで飲んで! しょうがないひとだよ!」


 介抱してくれた飲み仲間に礼を言い、後はあたしにまかせなと帰らせる。


「ったく。ほら家まで帰るよ」


 わかったわかったとでも言うように手を振るが、目はとろんとしていた。

 亭主のだらしない姿に首を振り、溜息をつく。


「なぁマルガ」

「なんだい」

「おれはお前を愛してるぞぉ!」とろれつの回らないバスク語で。


「はいはい。あたしもあんたが好きだよ。さ、しゃんと歩きな!」

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