第68話 それぞれの決意


 早朝。ザビエル家の敷地内にある礼拝堂では聖書の一節を唱える声が荘厳な堂内に響く。


「――いつくしみたまうイエス・キリストよ。天にまします我らの父よ。このむすめみそぎはらい、いま誓願のちぎりを……」


 祭壇を背にベネディクト司祭がとつとつと唱え、最後に「フランチェスカ・ザビエルよ。父と子と精霊の御名みなにおいて、なんじ、いまこの時この瞬間より生涯、修道女となることを誓うか?」


 司祭の前にひざまずいて胸の前で手を組む見習いシスター、フランチェスカはゆっくりと顔を上げる。


「はい。誓います」


 りんとした声で決意を露わにすると、ベネディクト司祭はにこりと頷く。


其方そなたに神の加護があらんことを……」


 アーメンと締めくくり、十字を切る。

 しばしの沈黙があってから、司祭が口を開く。


「よろしい。これが当日の流れです。堅苦しくてさぞお疲れになったことでしょう?」


 誓願式の予行演習リハーサルを終えたフランチェスカは立ち上がり、首を振る。


「いえ、幼少の頃から儀式の段取りの手ほどきを受けておりますから、これしきのこと……」

「さすがは聖フランシスコ・ザビエルの末裔まつえいであらせられるだけのことはありますな」


 傍らで段取りを見守っていたマヌエル枢機卿すうききょうがぱちぱちと拍手する。


「さて、これで儀式の流れはひと通り終わりましたが、もし不安であればもう一度練習を」


 その時、礼拝堂の扉が開いた。

 入ってきたのは父のアルフォンソと兄であるフリアンだ。

 父がつかつかと娘、フランチェスカの元へ。


「リハーサルはどうだ?」

「すべてとどこおりなく終えられました」


 ベネディクト司祭がにこりと微笑み、アルフォンソが「そうですか!」と満足げに頷く。


「フランチェスカ、本番当日もその調子で頼むぞ」

「はい、パパ……あ、いえお父様」

「うむ。正式に修道女となれば、今までのようにはいかなくなるぞ。それを肝に銘じておくんだ」

 

 ぽんと肩に手を置く。


「はい……」

「どうした? 大丈夫か?」

「きっと予行演習でお疲れになったのでしょう。して、どのような御用でしょうか?」とマヌエル枢機卿。

 それをフリアンが父の代わりに答える。


「はい! 誓願式で着用する修道服スカプラリオが出来上がりましたのでお知らせに来ました!」




「おお!」


 礼拝堂から邸内に移動し、誓願式のために仕立てられた修道服をひと目見るなり、ベネディクト司祭とマヌエル枢機卿は思わず感嘆した。

 トルソーに掛けられたそれは純白の修道服に、頭部にはこれまた白いヴェールが掛けられている。


「素晴らしい! まさに貞淑ていしゅく純潔じゅんけつを体現されているかのようですな」

「まさしく。私も司祭殿と同意見ですぞ」

 

 ふたりの聖職者が褒め称え、アルフォンソとフリアンの父子も満足そうにするなか、ただひとりフランチェスカだけは無表情で純白の修道服を見つめるだけだ。

 手を伸ばして袖のところに触れる。肌触りのよい生地が使われていることが指先でもわかる。


 こんなの、まるで結婚式みたいじゃない……。


 だが、運命からは逃れられない。

 二日後、誓願式で自分はこの修道服スカプラリオに身を包み、修道女として神に身を捧げて慎ましく暮らすことを誓うのだ。


「アンジロー……」


 思わずぽつりとその名を口にしてしまったことを後悔するが、もう遅い。

 「どうした? なにか言ったか?」とフリアンが尋ねる。


「ううん、なんでもない……ただ、この修道服があたしに合うのかなって……」

「なんだ、そんなことか。大丈夫だよ、きっと似合うって」

「さよう、大事なのは見た目ではなく中身です。フリアン殿の時は仕立てられた自分の修道服を見るなり、たいそうはしゃぎ回っていましたぞ」

「べ、ベネディクト司祭様! 昔のことをむし返さないでください!」


 フリアンが顔を赤くし、フランチェスカを除いた一同がはははと笑うなか、見習いシスターはもう一度修道服に目をやる。

 それはまるで自らの運命から目を逸らさずにするかのように。


 †††


「Ez ona!」

 

 その頃、サン・セバスチャンにある高級ホテルの地下――ドン・サンチェスの美食クラブでラケルはそうキッパリと言い放った。


「これもダメか……」


 安藤はがっくりと肩を落とす。目の前には彼の作ったピンチョスが。

 ラケルにもう何度目になるかもわからない試食をしてもらい、ダメ出しを喰らったのだ。

 自信作が出来るたびに試食してもらっても、彼女はその度にぶんぶんと首を横に振り、安藤の自信は打ち砕かれていった。

 後輩に厳しい小さな先輩いわく、ありきたりすぎるのだそうな。


 まいったな……美食クラブは明日なのに。


 昨夜、ドン・サンチェスからここソシエダ・ガストロノミカで自分の作った料理でドンを満足させることが出来なければフランチェスカの居場所はおろか、彼女に会えないままスペインを去ることになるのだ。

 なんとしても完璧な料理を作らなければならない。

 不安と焦燥が募るばかりで、ひとつも満足のいく料理が作れていない。

 どうしようかと思案していると、くぅと腹の虫が鳴った。

 

「お腹すきましたね……」


 朝食は朝早くマルガのバルで済ませてきたが、ずっとここに籠もりきりで料理をしていれば腹が空くというもの。

 

「あの」


 マルガさんのところに戻りませんかと言おうとしてやめ、スマホを取り出して翻訳アプリを開く。

 マイクに向かって日本語で話すと、画面に表示されたバスク語をラケルに見せる。

 昨夜、マルガのところに戻って事情は説明してあるが、ここは一度戻って状況報告をしておいたほうがいいだろうと思ってのことだ。

 彼女が「ん!」と頷いたのでふたりはエレベーターに乗ってホテルのロビーへ。

 従業員やベルボーイの怪訝けげんな視線を浴びながらエントランスを出る。

 今日もサン・セバスチャンの陽射しは眩しい。

 安藤が手でひさしを作り、歩きだそうとしたところへいきなり目の前に飛び出した者が。

 エンリケだ。相変わらずポケットは拾ってきた食材で膨らんでいる。


「聞いたぞ。アンジロー、おめぇドンと決闘するんだってな」


 どうやらどこかで聞きつけたらしく、ホテルの前で待ち伏せていたようだ。

 噂に尾鰭おひれが付いているが、ドンと対決することに変わりはない。

 そうだと答えると、エンリケは首をふるふると振る。


「馬鹿なことしやがって……俺の言ったことを忘れたのか? ドンは気に入らないバルを潰せる力を持っているんだぞ!」

「閉店の危機にあっているバルがあるんです。勝負に勝ったら閉店は取り消しにすると約束を取り付けました」

「そうは言ってもよぉ……おめぇひとりでどうにかなる問題じゃねぇんだぞ」

「これがフランチェスカさんに会える最後のチャンスなんです! それにひとりじゃありません。俺には心強い味方がいますから」


 先輩であるラケルに目をやるが、姿が見当たらない。

 どこへ行ったのかと辺りを見回すと、安藤の足元の後ろに隠れていた。


「先輩? どうかしたんですか?」


 だが、彼女はなにも言わない。ただじっと隠れているだけだ。


「どうした。後ろにだれかいるのか……って、ラケルじゃねぇか!」

「え、知り合いなんですか?」


 ふたたび彼女を見ると、我関せずとでも言うようにぶんぶんと首を横に振る。


「知り合いもなにも、俺の娘だよ!」

「えっ!?」


 そういえば、昨日エンリケさんの家で見た写真に娘らしき少女が写ってたような……。


「今までどこ行ってたんだ!? ラケル! ずっと探してたんだぞ!」


 バスク語で問い詰めるが、それでも彼女はなにも言わない。


「俺はお前のとうちゃんだぞ! とうちゃんを忘れるやつがあるか!」


 エンリケの顔が次第に泣きそうになる。

 ラケルが安藤の足元から離れたかと思うと、いきなり走り出した。


「ラケル先輩!?」

「ラケル! どこに行くんだ? 戻ってこい! ラケル! ラケル!」


 娘の名前を連呼するエンリケを置いて、安藤は先輩の後を追う。

 小柄ですばしっこいリスのようなラケルの姿を見失わないよう、懸命に走る。


「先輩! ラケル先輩!」


 だが、それでも彼女は走るのをやめない。

 次第に安藤の息が上がり、だんだんと距離が離されていく時――

 いきなり彼女が足を止めた。

 

「先輩? どうしたんですか?」


 息せき切って、ラケルの元へと。

 彼女も息が上がっているらしく、小さな肩が上下に揺れている。

 通行人も何があったのか不思議そうに見つめる。

 

「先輩? どうしてお父さんから逃げるんですか?」


 小さな先輩は安藤に背を向けたまま、なにも言わない。

 安藤はスマホを取りだし、さっきと同じ問いをマイクに向けた。

 そしてバスク語に翻訳されたそれをラケルに見せる。すると、ラケルも自分のスマホを取り出して画面を操作し、マイクに向かってあらん限りの声で叫ぶ。

 道行く人々が何事かと安藤たちを見る。

 ラケルがスマホの画面を安藤に見せた。


『Hori ez da nire aita』


 下のほうに日本語訳が。


『あんなの私の父じゃない』

 

「先輩、そんな言い方は……!」

 

 ラケルの顔を見た途端、言葉を詰まらせた。

 彼女の目からは涙が溢れ、顔を真っ赤にしていた。

 マイクに向かってさらに続ける。


『Nire aita sukaldari atsegina da』


 日本語訳にはこう書かれていた。


『私の父はかっこいいコックだ』


 スマホを持ったまま、ラケルはぽろぽろと涙を零し、安藤の腰に抱きつく。

 突然のことにどうしていいかわからない安藤は後輩思いであり、そして父思いである先輩を優しく抱きしめてやる。

 そして彼女と同じ高さになるようしゃがみ、スマホを取り出して翻訳を。


「先輩。お父さんは今でも立派なコックですよ。料理を二度ご馳走になりましたけど、美味しかったです」


 バスク語に翻訳された文章をしゃくりあげながら読む。安藤がさらに続ける。


「だから、俺たちも頑張りましょう」


 涙で濡れた顔をごしごしと袖で拭い、安藤の顔を見てうんと頷く。

 そしていきなりぽかぽかと安藤を叩き始めた。まるで大きなお世話だと言わんばかりに。


「痛っ! 痛いですよ!」


 目の前に小さなこぶしが突き出される。

 「ん」と催促したので、安藤も拳を出してごつんとぶつける。


「絶対ドンにひと泡吹かせてやりましょう!」

「ん!」


 ふたたび決意を固めたふたりは歩き出した。


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