第67話 ソシエダ・ガストロノミカ


 サン・セバスチャンを裏で牛耳る男、ドン・サンチェスとその部下たちとともに連れてこられた安藤は街道へと出た。


「こっちだ」


 そこには黒塗りの、見るからに高級な国産車が路肩に停められていた。

 部下のひとりがドアを開け、ドンが「乗れ」というふうに顎をしゃくる。

 広々とした後部座席の車内には黒の革張りの三人掛けシートが向かい合うように配置され、そこにはひとりの女性が腰掛けていた。


「あ、エステルさん」


 ドン・サンチェスの愛人である彼女は俯いた顔を上げる。


「あらアンジロー。ええと、四日ぶりね。どうかしたの? まさかドンがまた何か……」

「感動の再会にひたってるヒマがあるならとっとと座んな」

 

 安藤を押しのけ、シートにずしりと身を預けるとドンの重みで車体が僅かに揺れた。


「あんたってひとは……! 今日はオープンしたばかりのバルを見に行くだけだったはずでしょ!?」

「残念ながらそのバルは俺の舌には合わなかったぜ。いつもなら潰してるところだが、そこの小僧のせいで見逃してやった。これまた残念なことだが」

 

 新たに出した葉巻に火を付けてもらい、ふーっと紫煙を車内に吐き出す。

 「そうなの?」とエステルが傍らに座る安藤のほうを見る。

 はいと頷き、事の顛末てんまつを説明してやると、エステルはふたたびきっとドンを睨みつけた。


「そう睨むな。だからお前をここに残してきたんだ。おい、さっさと車をだせ。行き先は俺のクラブだ」

「へいっ」


 運転手がエンジンをかけ、後部座席の端に座る部下がドアを閉めようとした時――――

 ドアの隙間から飛び込むようにして入り込んだものがあった。


「あたしも行く!」


 リスのような俊敏な動きで入り込み、安藤の腰に抱きつくなり、ラケルはバスク語でそう言った。


「ちょっ、ラケル先輩っ!?」

「このガキ! さっさと降りねぇか!」


 部下の小男が安藤から引き剥がしにかかるところへドンがよせと命じる。


「彼女もバスク人だ。レディーは丁重に扱え」

 

 そしてぬぅっと顔をラケルのほうへ。


「お嬢ちゃんはさっきマルガのところにいたな。お手伝いをしてるのか? えらいぞ」


 頭を撫でようと手を出すが、ラケルがべーっと舌を出して拒否を示す。

 その態度にドン・サンチェスががははと笑う。


「それでいい。それでこそバスクの女だ。車を出しな」

「へ、へい」


 運転手が困惑しながらもエンジンをかけ、アクセルを踏み込むと車は街路を出発した。


「ラケルちゃん、あたしのここに座って」


 エステルが自身の膝をぽんぽんと叩きながら。

 ラケルは安藤にしがみついたまま、周りを見渡すが、席は彼女の膝の上しかなさそうだ。


「むー……」


 しかたなく渋々とエステルの膝に座る。


「窮屈でごめんなさいね。エステルよ。ラケルちゃんはいくつなの?」

 

 膝の上に座るラケルの栗茶色の髪をした頭を撫でてやる。

 するとラケルがいきなりばっと両手を上に上げた。

 左手は人差し指と中指を立て、右手で丸を作る。そして高らかに宣言するようにバスク語で。


「Hogei!」

「そう、二十歳なのね……ええっ!?」


 安藤を除いた全員がざわめく。

 どこからどう見ても幼女にしか見えないラケルはふんすっと胸を反らして誇らしげだ。


 †††


 車は二十分ほど走ったところで停車し、部下が開けたドアからドンを先頭にして乗客がぞろぞろと降り立つ。


「ここだ」

「ここって……」


 安藤は思わず目の前の建物を見上げる。

 それは大理石で造られ、白を基調とした豪奢なホテルであった。

 エントランスからスーツに蝶ネクタイという出で立ちの小太りの男がぱたぱたと慌てて出てくるなり、バスク語でまくしたてる。


「これはこれは! ドン・サンチェス様! 本日はどのような御用でしょうか?」


 サン・セバスチャンを牛耳る帝王の前ですりすりと揉み手をしながら様子を伺う。

 ドンに失礼なことがあれば、それこそ自分の首が飛ぶ。


「相変わらず血色の良い顔だな。ロレンシオ。聞いたぜ、儲かってるようじゃねぇか」


 葉巻を咥えたまま、にやりと笑みを浮かべてぽんと肩に手を置く。


「滅相もございません! それもこれもすべてドン・サンチェス様のおかげでして!」

 

 ロレンシオという名の小太りの支配人はぷるぷると首を振ったあと、汗をハンカチで拭う。


「ときに、本日はどのような御用で参られたのでしょうか?」

「実はな」


 経緯を説明するとロレンシオの顔がますます強張り、安藤を信じられないというようにまじまじと見つめる。


「そういうわけだ。俺のクラブにこいつらを案内してやってくれ」

「しょ、承知しました……では、こちらへ」


 「お前らはここで待て」と部下に待機を命じ

、ロレンシオを先頭にドン、エステル、安藤、そしてラケルの一同はホテルのロビーへと足を踏み入れる。

 天井からは豪奢なシャンデリアが垂れ下がり、その照明はぴかぴかに磨き上げられた床に反射していた。

 高級ホテルはこれが初体験となる安藤とラケルはただ呆然として辺りを見回すだけだ。

 禁煙であるはずのロビーをドンは葉巻を吹かしながら肩で風を切るように歩くと、フロントクラークや荷物運びのボーイはただちに直立不動の構えを取った。

 全員が緊張した面持ちで迎えるなか、一同はロビーの奥へと進み、エレベーターホールへ。

 ロレンシオがエレベーターを呼び出す。

 全員が乗ったことを確認してから上着の内ポケットから鍵を取り出すと操作盤の下にある鍵穴に差し込む。

 するとパネルが開き、上から『B1』、『B2』と書かれたボタンが。さらにその下には金字で刻印された『D・S』のボタン。


「俺の名前を入れさせたんだ」


 ふふんとドンが自慢気に。

 ロレンシオがそのボタンを押し、筐体きょうたいの蛇腹状の扉を閉めると旧式のエレベーターは下へ下へと下降していく。

 扉の上に設置された半円状の階数表示盤の針が緩やかに動き、やがてぴたりと動かなくなった。

 だが依然として筐体は下へと降下している。

 その間も小太りの支配人はひたすらハンカチで汗を拭い、それを見て不安そうにする安藤の手を握りしめるものがあった。

 見下ろすとラケルが手を握ってくれている。そして心配するなという風にこくりと頷く。

 その時、がくんと筐体が揺れた。底に到着したのだ。

 ロレンシオががらがらと蛇腹状の扉を開け、どうぞと言う前にドンが出た。全員がその後に続く。

 天井からはアンティークのシャンデリアが釣り下げられ、アール・デコ調の廊下に敷かれた絨毯の上を一同は歩く。

 程なくして両開きの扉が見えてきた。ロレンシオがたたたっと扉の前まで来ると鍵を差し込んで解錠し、扉を開ける。

 中は真っ暗ではあったが、電源を入れるとすぐに照明がついた。

 レンガ壁に天井のランプで照らされた下にはバスク十字の刺繍が施されたテーブルクロスがかかった長テーブル。

 右側に目をやると、そこは厨房ちゅうぼうだ。それも最新の設備が揃っている。

 ラケルが「ふおおお」と興味津々で目を輝かせる。


「お嬢ちゃんはこの設備がどんなに良いものかわかってるみてぇだな」

「あ、あのここは一体なんですか? レストランにしては狭いような……」

「アンジローお前、ソシエダ・ガストロノミカって知ってるか?」

 

 エステルが通訳を務め、「美食クラブのことよ」と説明してくれた。


「ここバスクにはな、料理を趣味にしている男が集まって料理をふるまう会員制のクラブがあちこちにあるんだ」

 

 むろん、ここもそのひとつだと付け加える。


「そしてここは俺だけのクラブだ。毎月一回はここに来て最高のコックがつくる最高のバスク料理を堪能するわけだ。さて」

 

 葉巻を咥え、煙を味わったあとふーっと吹かす。


「もう一度言うが、期限は二日後の正午だ。その時またここに来るからな。器材は自由に使っていいが、食材は自分で調達しろ」

 

 「いいな?」と念を押すとふたりともこくりと頷いたのを見て、「よし」とドンも頷く。

 「それからこれは材料費だ」と上着の内ポケットから取り出したものをぱさりとテーブルに置く。

 十数枚の100ユーロ札だ。


 「存分に使って、存分に腕を振るえ。そして必ず現地のを使え。もし半端なモノを出したら、その時は……わかってるな?」

 「はい!」と安藤が力強く答え、ラケルはふんすっと鼻息荒くし、胸の前で両腕を組む。

 まるでどこからでもかかってこいと言わんばかりに。

 ふたりの決意を見てとったドンはにぃっと笑う。


「いい返事だ。それじゃ二日後にな」


 「Agur!あばよ!」と言い残し、入口に立つ支配人に「エレベーターはいつでも使えるようにしておけ」と命じる。

 

「ドンの御命令とあらば!」


 ロレンシオは相変わらず揉み手をしながらこくこくと頷く。

 エステルが申し訳なさそうな表情を浮かべながら安藤のほうへ来ると、両手を握る。


「ごめんなさい。あのひとは一度言い出したらテコでも動かないから……頑張ってね、幸運を祈ってるわ」

「はい、頑張ります!」


 エステルがふふと微笑んだかと思うと、いきなり顔を近づけ、安藤の額にキスした。

 突然のことに安藤もラケルも目を丸くする。

 呆然としていると、「幸運のおまじないよ」と微笑む。


「ラケルちゃんも頑張ってね」

「……ん!」

 

 背後から「早く来い!」と怒号が飛んだので、「またね」と言い残して部屋を出ると安藤とラケルのふたりきりとなった。

 安藤は口づけされた額に手をやり、ぼうっとしていたところを尻をはたかれ、「痛っ!」と声を上げて我に返る。

 見下ろすと、自分より背の低い先輩が腰に手を当ててむうっと頬を膨らませていた。

 まるで「ちゃんとやれ」と言わんばかりに。

 次に「ん」と右腕を伸ばす。

 フィスト・バンプだ。

 叩かれた尻をさすりながら、安藤は突き出された腕を見て表情を引締め、こくりと頷く。

 これがフランチェスカに会える最後のチャンスだ。もはや一刻も時間は無駄には出来ない。


「Egin dezagun ondo!(とことんやるぞ!)」

「はい!」


 国や言葉は違えど、お互い料理の腕を磨き、それに誇りを持つ者同士はごつんと拳を合わせた。

 

 決戦は二日後の正午。そして誓願式のタイムリミットまで、あと三日――――。

 

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