第65話 失意のアンジロー
「フランチェスカさんっ!」
思わずがばっと半身を起こす。その拍子に額に乗せられたものがぽろりと落ちた。
落ちた手ぬぐいを手にきょろきょろと辺りを見回す。
だが、心当たりのない場所だ。少なくとも列車の中ではない。
ひび割れた傘の中心で裸電球が頼りなく照らすなか、安藤はつぎはぎでシミの付いたソファから起き上がる。
ここ、どこなんだろ……確か、俺はサン・セバスチャン行きの列車に乗っていたはず……。
ひょっとしてまだ夢から覚めていないのかと思った時、聞き覚えのある声がした。
「おぅ。やっと起きたか」
見ると元コックであり、ホームレスのエンリケが隣の部屋から出るところだ。手には湯気が立つマグカップが。
「心配したぜぇ。サン・セバスチャン駅から出てきたおめぇはふらふらと夢遊病者のようだったし、なかなか熱が下がらないからよ」
ほれとマグカップを差し出す。中身はスープのようだ。
「あ、ありがとうございます……」
おそるおそるとカップの中を見る。赤いところを見ると、トマトベースのようだ。
「心配すんな。病人に粗末なモンは出さねぇよ」
「はぁ」
覚悟を決めてカップを口に付け、そのまま飲み込む。
「美味しい……!」
予想外の美味さに思わず舌鼓を打つ安藤を見て、エンリケがにかりと笑う。
「そうだろう! そうだろう! なにしろ
ぶっと安藤が吹き出す。
「そ、それって泥棒なんじゃ」
「トマトのひとつやふたつくらい取ったって大して変わんねぇよ。もう大丈夫みてぇだな。なにしろ
んぐっと安藤が喉を詰まらせる。
「い、いま、なんて言ったんですか?」
「ん? そりゃトマトのひとつやふたつくらい……」
「その後です! 俺はどのくらい眠ってたんですか!?」
「だから、まる一日だと」
丸一日……!?
「あの、今日って何曜日なんですか……?」
わかりきった質問ではあるが、それでも確かめずにはいられない。
エンリケがひいふうみいと指折り数える。
「水曜……いや木曜だな」
なんてこった……フランチェスカに会えなかっただけでなく、丸一日時間を無駄にしていたとは。
がくりとうなだれた安藤にエンリケが心配そうに声をかける。
「おい大丈夫か? まだ熱が下がってねぇのか?」
「いえ、大丈夫です……」
昨夜フランチェスカの同期のシスターであるアンナから浄めの儀式が行われる場所を教えてもらい、明朝モンセラットに到着し、彼女を見つけたところまで話した。
「それで、結局そのお嬢ちゃんはおめぇに気付かないまま帰っちまったってわけか」
「はい……しかも時間をかなり無駄にしました……」
タイムリミットである日曜日まであと三日しかない。
「やっと、彼女の姿が見えるところまできたのに……」
彼女に触れようと伸ばし、
もうこんな機会は二度とは訪れないだろう。
「俺、もう彼女に会うのはやめようかと思っているんです」
「おいおい! いきなり何を言い出すんだ? お嬢ちゃんに会うためにここまで来たんだろ?」
「それはそうなんですが……もしかしたら、俺のしてることって彼女にとっては、迷惑でしかないのかなって……それに」
俺と彼女は住む世界が違いますから……。
「なんだか、疲れました」
ぎゅっとマグカップを握る手に力が込められる。スープの熱がマグカップを通して掌に伝わっていく。
「アンジロー」
エンリケのほうを見る。今まで見せたことがない真剣な表情だった。
「俺は料理をすることしか能がねぇ男だが、これだけは言える。おめぇのしてることがお嬢ちゃんにとって迷惑かどうかは、おめぇが決めることじゃねぇ」
「でも……!」
するとエンリケがぴんと人差し指を立てた。次にもう片方も同じように立てる。
「いいか、この指がおめぇだ。こっちがお嬢ちゃんだ。おめぇは頑張ってここまで来たんだ」
安藤に見立てた指を元の位置から半分の位置まで動かす。
「あと半分なんだ。あと少し頑張れば出来るんだ。今のおめぇはこの半分行くところまでしか覚悟が出来てねぇだけだ」
「…………」
「それにな、アンジロー。おめぇはまだ若い。若いやつが疲れたなんて言うな。いいか、『疲れた』ってのは俺のような男が使うセリフだ」
「…………はい」
よしとエンリケがにかりと笑う。安藤の肩をぽんと叩く。
「さぁ元気になったら早くアマ・マルガのとこに帰んな。みんな心配してるぞ」
上着の内ポケットからスキットルを取り出し、酒をぐいっと呷る。
安藤がソファから立ち上がるのと入れ替わりに今度はエンリケが横になる。
「おめぇの看病で疲れたから眠らせてもらうぜ」
そう言うとスキットルを胸に抱いたまま、たちまち
安藤はしばし呆然としてから、思いついたように手にしたスープを飲み干し、傍らの椅子に掛けられた毛布をエンリケにかけてやる。
「……ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げ、くるりと踵を返してドアへ向かおうとした時、ふと目に入ったものが。
箪笥の上に置かれた写真立てだ。
手に取ると、写真は斜めに焼き切れてはいるが、左側に立つコックコートを着た男は明らかにエンリケだ。
おそらくバルの前で撮られたものだろう。
右側の女性は妻だろうか。顔の部分が焼け焦げてしまってわからない。
そしてふたりの真ん中には娘らしき少女が。これも顔に穴が開いてしまっている。
そういえば、初めて会ったときに火事で奥さんを亡くしたとか言ってたな……。
エンリケのほうを見ると相変わらず鼾を立てながら眠っている。
写真立てを元の場所に戻してふたたびドアへと。
ソファで眠っている元コックのホームレスを起こさないようゆっくりと開き、音を立てないようドアを閉じた。
外はすっかり暗くなっていた。エンリケの住む家は案外サン・セバスチャンの中心で、そこかしこで常連客や酔客の賑やかな話し声が聞こえてくる。
安藤は立ち並ぶ看板や灯りのついたバルを横目に見ながらひとり歩く。
マルガのバル、カサ・マルガは本街道に出て通りをふたつ越えたところにあった。
その日も常連客で繁盛しているバルの入口に足を踏み入れるなり、カウンターにいたマルガが先に気づいて駆け寄ってきた。
「アンジロー! あんたどこ行ってたんだい!? 帰ってこないから心配したんだよ!」
「すみませんマルガさん」
ぎゅっと力強く抱きしめられ、思わずぐえっと声が漏れる。
次にたたたっと足音が聞こえたかと思えば、いきなり足をぽかぽかと叩かれた。
見下ろすとラケルだ。安藤の腰までの高さしかない小さな先輩はひたすら叩き続けたあと、ぎゅっと腰を抱きしめる。
「
なんとなくではあるが、ラケルの発した言葉の意味はわかった。
「すみません、遅くなりました……」
「あんたがいない間、大変だったんだからね。すぐ仕事に」
そこまで言ってマルガがくんくんと臭いを嗅ぐ。
「あんた風呂入ってないだろ。さっさとシャワー浴びといて!」
†††
シャワーで汚れを落とし、新しい服に着替えた安藤はその上にエプロンを掛け、さっそく調理に取り掛かる。
いきなり背中をぽんと叩かれ、振り向くとマルガの亭主、ぺぺが不器用な笑みを浮かべながら頷く。
それはまるでよく戻ってきてくれたといっているようで、バスク語しか話せない彼の精いっぱいの意思疎通だろう。
「アンジロー、ヒルダのピンチョスを用意して! それとあっちのお客さんにお皿を!」
「はい!」
言われたとおりにきびきびと動き、並行してピンチョスやタパスの調理をこなしていく。
みなフランチェスカに会えたのかどうかは聞いてこないのがありがたかった。
今はなにかしていないと気が重くなりそうだ。
エンリケには悪いが、このまま彼女に会わないで最終日までこのバルで働くのもいいと思う。
どのみち今日でここに来て七日目。あと三日で彼女の手がかりが掴めるとは思えない。
そうだよな。もともと俺と彼女は違う道を歩むんだし……。
フライパンに入っている具の焼け具合を見ようとした時――――
怒声が聞こえた。バルの外だ。
全員が何事かと外のほうを見る。
どうやら斜め向かいにあるバルで騒ぎが起きているようだ。
安藤は火を止めて、外の様子をうかがおうと背を伸ばす。
その時、男の顔が目に飛び込んできた。
それはサン・セバスチャンを牛耳るマフィアのボス――――ドン・サンチェスその人であった。
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