第64話 ユメノオワリ


 この日、カタルーニャ地方で珍しくしとしとと降り始めた雨はやがて本降りとなった。

 ざーっと降る雨雫はレール上を走るカタルーニャ鉄道の車両を容赦なく叩きつける。

 車両にはモンセラットからの帰りと思しき観光客がそれぞれスマホやカメラ、ガイドブックを取り出して感想を言い合っていた。

 そのなか、ただひとり座席に無言で腰かける者がひとり――

 安藤は心ここにあらずといった面持ちで窓の外を眺める。といっても雨でほとんど見えないが。

 ぶるっと寒気を感じ、安藤は雨で濡れた我が身をかきいだくようにしてなんとか暖を取ろうとする。


「くそ……」


 あと少しだったのに……!



 登山鉄道でモンセラットに到着した安藤は観光客の列に入って同じように入場を待っていた。

 入場は七時からのはずなのだが、警備員がなかなか通してくれないので次第に安藤も観光客もしびれを切らし始めていた時、

 

 いきなり教会の門が開いた。

 そこから出たのは扉を開けた修道士だ。次に目が不自由な院長、その後をキャソックに身を包んだ神父が出てきた。

 そして神父の腕にはヴェールから金髪をのぞかせながら眠るフランチェスカが――――。

 観光客がスマホやカメラを取り出したのを皮切りにあちこちでシャッター音が切られる。

 院長に命じられた警備員が阻むようにして立ち塞がり、スペイン語と英語で警告を発する。


「Por favor deja de disparar!(撮影はやめてください!)」

「Please stop shooting!」


 お構いなしに撮影を続けるなか、安藤は人混みをかき分けて奥へ奥へと進む。

 間違いない。ほんの少ししか見えなかったが、あのヴェールと金髪は間違いなく彼女だ。


「フランチェスカさん! フランチェスカ……!」


 だが、力の限り叫んだその呼びかけは周囲の声と警備員の怒号でかき消された。


「Baja! Por favor baja!(下がって! 下がってください!)」


 それでも諦めない安藤はさらに奥へと進む。

 安藤と彼女との距離はおよそ十メートル弱。

 届かないとはわかっていても眠っている彼女の手を取ろうとするかのように腕を前に伸ばす。

 いきなり後ろから羽交い締めにされ、手が空をつかむ。

 警備員が怒号をあげるが、それすらも耳に入らない。

 フランチェスカは目の前で男に抱きかかえられたまま、雨の中、ゴンドラ乗り場へと消えた。

 警備員の拘束をなんとか振りほどき、すぐに登山鉄道で後を追いかけようとしても、もう彼女の姿をふたたび捉えることはなかった。


 列車はやがてスペイン広場駅に到着し、車両から降りた安藤は改札を出て、別の路線へと乗り換えるべく構内を歩きだす。

 ぐらりと視界が揺れたので、立ち止まって額を押さえる。

 それでもなんとかホームにたどり着き、時間通りに到着した車両に乗り込む。

 またぶるりと身体が震えた。

 寒気がさっきよりもひどい。熱もあるようだ。

 睡眠不足と疲労によるものだろうかと思った時には安藤は深い眠りへと堕ちていった。



 体全体に微かな振動を感じる。目を閉じていても自分がいま仰向けになって横たわっていることはわかった。

 ベッドだろうか? だとしたらカサ・マルガの屋根裏部屋にある自分のベッドだろうか。

 それにしては少し固い感触があるような……。

 そこまで考えていると、不意に頭を誰かに持ち上げられた。

 次いで後頭部に柔らかな感触。枕かと思ったが、そうではないようだ。

 では、自分は何処にいるのか、そしてなにをされているのか。

 意を決してゆっくりと目を開く。ヴェールを被り、長い金髪を垂らした少女がこちらを見ていた。いや、正確には見下ろしていると言ったほうが正しいだろう。

 

「ハーイ、アンジロー」


 フランチェスカはそう言うとにこりと微笑む。


 「フランチェスカさん……?」と彼女に膝枕され、横になったままのアンジロー。


「うん、あたしよ」

「え、いやだって、というかここって……」


 身体を動かそうとするが、まるで金縛りにあったかのように動かない。

 首をなんとか動かしながら辺りを見回す。

 列車の中だ。乗客はふたりのみで、窓の外は深い闇のようでまったく見通せない。

 そして自分は座席のシートに横たわり、彼女の膝に頭を乗せている。

 ふたりきりの車両の中、ごとんごとん揺られながら安藤はフランチェスカの顔をじっと見つめる。

 会いたくて、ずっと会いたくて、ひたすら会いたかった彼女の顔がそこにある。


「どうしたの? あたしの顔になにかついてる?」

「べ、別にそういうわけじゃ……!」


 赤くなった顔を見られたくないよう、背ける安藤にうら若き見習いシスターがふふと微笑む。


「ごまかしてもダメ。あたしに会いたかったんでしょ?」

「ッ! そ、それはそうだけど……!」


 そうだ、これは夢だ。自らの願望が反映されただけの夢なのだと自分に言い聞かせる。

 ましてや、目の前にいる彼女は現実では――――


「そういうの嬉しいよ。日本からわざわざスペインまで追ってくるなんて……」


 頭をなでられたのか、髪がくしゃくしゃと音を立てる。ますます安藤は顔を赤らめた。


「でも俺、結局フランチェスカさんには会えなくて……本当に、あと少しというところまで来たのに……」


 修道服スカプラリオのスカート越しに伝わる膝の温もりを感じながら、思いの丈をぶちまける。

 列車は相変わらず規則的に揺られながらも速度を緩めることなく進んでいく。

 

「ね、アンジロー」

 

 呼びかけるその表情は笑顔ではあるが、どこか寂しげだ。


「アンジローが会いに来てくれたこと、すっごくすごーく嬉しいよ。でも」


 きゅっと奥歯を噛む。そして一拍間をおいてから口を開く。


「でも、もういいの。あたしはシスターで、アンジローは普通の男の子。お互い違う道を歩む身なんだし……」

「そんなことは……!」


 突然、頭が軽くなった。

 首を彼女のほうに向けると姿はなかった。


「アンジロー」

 

 声のするほうへ首を向けるといつの間にか彼女は扉の前に立っていた。列車はすでに停止している。

 扉が左右に開かれ、目の前に闇が広がる。

 フランチェスカは横顔を安藤のほうに向けた。

 

「それじゃ、あたしここでお別れしないといけないから……アンジローはこのまま日本に帰って。そして、もう二度と会おうなんて考えないで」

「ま、待って……! 俺、どうしても伝えたいことが!」

 

 身動きの取れない身体をなんとか動かし、腕を懸命に伸ばす。

 彼女が何かを呟くのが見えた。


『Adios』


 それは『Chao』や『Hasta mañana』のように短い別れの挨拶ではなく、いつ会えるのかわからない長い別れの言葉だ。


「フランチェスカさん!」


 だが安藤の声はすでに閉じられた扉の向こう――闇の中へと消えた彼女には届かず、虚しく響いた。



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