第63話 Luz -光-


 モンセラット。

 バルセロナ郊外にあるその山はスペインを代表するキリスト教の聖地であり、山腹に位置する修道院の前では世界中から集まった観光客が入場を心待ちにしていた。

 そのなかで修道院の地下、洞窟を抜けたところにある天然の礼拝堂で見習いシスター、フランチェスカは岩肌を背にいま目覚めようとしている。


「…………う?」


 フランチェスカは組んだ足の膝頭から頭を起こし、辺りを見回す。

 すでに一夜が明けたらしく、天井の穴から差す陽光が岩肌の礼拝堂を照らす。

 

「あ、もう朝か……」


 体を預けていた窪みから抜け、スカートに付いた埃をぱっぱっと払いながら立ち上がる。

 そして両腕と背筋を伸ばして強ばった体をほぐす。

 途端、腹の虫が鳴った。

 無理もない。昨日の昼食以来なにも口にしていないのだから。


「おなか、すいたな……」


 足下に置いたカンテラに気付き、屈んで手に取る。


 結局、黒いマリア像の由来も、ガウディがなにを見たのかはわからなかったわね……。


 カンテラを手に立ち上がり、その場を去ろうとした時――――。


「なにこれ……」


 穴から差す陽光によって、背にしていた岩壁の全貌がはじめて露わになった。

 恐らくは黒曜石こくようせきであろうか。火山岩の一種であるその岩壁は女性の顔が浮かび上がっていた。

 岩の窪みや出っ張りなどによって形作られたその顔はまさに聖母マリアのそれで、閉じられたまぶたと口にあたる部分は母のような優しさに満ち溢れている。

 ちょうど腹部にあたる部分にへこみが出来ているので、フランチェスカが背を預けていたそこはまるで胎内を思わせる。

 人の手によってではなく、自然の力によって為された奇跡にフランチェスカはいつの間にか涙していた。

 これでイコンがない理由がわかった。この岩壁に形作られたもの自体がイコンなのだから。

 そしてこの修道院に祀られている黒いマリア像の由来も。


「すごい……ガウディ、あなたはこれを見たのね」


 著名な建築家アントニ・ガウディは自然を賛美し、この言葉を残している。


 “美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない”と。


 †††


 その頃、修道院では院長のグレゴリオがフランチェスカの父、アルフォンソを迎えるところであった。


「お待ちしておりました。さ、こちらへ」

「ありがとうございます。なにか変わったことはありませんでしたか?」

 

 盲目の院長はふるふると首を振り、「何事もないのが一番です」と先導して歩く。

 

「そろそろ御息女のフランチェスカ様が奇跡を目の当たりにした頃でしょう」


 通路に入ってガラスケースに収められた黒いマリア像の隣の扉を解錠し、洞窟へと続く階段のある部屋へと。

 相変わらず暗いが、彼女はまだ戻ってきていないようだ。

 アルフォンソが袖をめくり、腕時計を見る。


 遅い……!


 その気配を察したか、院長が「いま何時ですかな」と時刻を尋ねたので、「もうすぐ七時半です」と答えた。


「もうすぐこの修道院に観光客が入ってくる時刻ですな」

「急がせましょうか?」


 階段へ近付こうとするアルフォンソを院長が腕を伸ばして止める。


「お待ちなさい」

「しかし……!」

 

 グレゴリオ院長が静かにするようにと人差し指を唇に当てたので、しかたなく従う。


「足音が聞こえます……しっかりとした足取りだ」


 そう言うと盲目の院長はにこりと微笑む。

 次第にこつこつと革靴が石段をのぼる音――。


 はたしてそこから姿を現したのはフランチェスカだ。

 カンテラを手にした彼女は役目を終えたそれをグレゴリオ院長へと返す。


「無事に儀式を終えられたようで何よりです。して、あれはご覧になられましたかな?」


 こくりとフランチェスカは頷く。


「はい。奇跡を目の当たりにしました」


 りんとして透きとおったその声に院長が頷き、その傍らで父も「うむ」と頷く。

 疲労によるものか、ふらりとよろめいた娘をすかさず父が支え、抱きかかえる。


「これで後は四日後の誓願式を待つのみですな」

「はい。誓願式が済めば、この子は正式にシスターとなります」

 

 儀式の手はずを整えていただき、感謝しますと頭を下げるなかでフランチェスカは父の腕で安らかな寝息を立てる。


「では出口までお送りしましょう。今日は予想より早く雨が降るようですぞ」


 礼拝堂へと戻り、院長が扉の前に控えている修道士に開けさせると、陽光が三人を照らす。

 そして目の前にはスマホやカメラを手にした観光客が列をなしていた。

 観光客のひとりがフランチェスカに気付いたらしく、スマホのカメラを向けようとしたので修道士がそれを遮るように父娘の傍らに立つ。

 院長が撮影をやめさせるよう命じ、警備員の数人が壁となって立ち塞がった。


「Por favor deja de disparar!(撮影はやめてください!)」

「Please stop shooting!」


 傍らに立つ警備員も英語で呼びかける。

 その時、観光客をかきわけるようにして進んでいく者がひとり。


「――――! ――――――!」

 

 なにか叫んでいるようだが、周囲の声と警備員の怒号でかき消されてよく聞こえない。


「Baja! Por favor baja!」


 警備員の下がっての指示に従わず、さらに前に進もうとしたその男はふたりがかりで押さえられた。

 男が叫ぶなか、アルフォンソとフランチェスカの父娘はゴンドラ乗り場の奥へと消えた。


 †††


「う……」

「気がついたか。フランチェスカ」


 目を覚ました見習いシスターは辺りを見回す。狭い筐体きょうたいに窓から見える景色が緩やかに動いているところから察するに、ゴンドラの中にいるのだとわかった。

 

「お前は立派に浄めの儀式を果たしてくれた。あとは誓願式で誓いを……どうした?」


 フランチェスカは窓から食い入るように外を見つめていた。

 かなり下にくだっているので修道院はすでに見えない。見えるのはモンセラットの険しい山々だけだ。

 やがて諦めたのか、窓から顔を離す。

 窓に一滴の雫がぽつりと軌道を描いて垂れ落ちた。次の瞬間には絶え間なく雨粒が降り注ぐ。


「どうしたんだ? フランチェスカ」

「さっきね、誰かがあたしを呼んでいたような気がするの……」

「気のせいだよ。外に出た時は観光客がかなりいたからね。聞き間違いだろう」

「ん、そうね……」

 

 アンジロー? まさかね。こんなところまで来るわけないじゃない……。


 しとしとと降り注ぐ雨を受けながらゴンドラは下へ下へと降下していく。

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