第60話 Abismo -奈落-
――正午。
その日もザビエル家の
父アルフォンソが食前の祈りを捧げ、隣では母のフローレンティナが。
向かいには長男であり、牧師であるフリアン。そしてその隣では見習いシスター、フランチェスカも同じように手を組んでいた。
祈りを終えると食事の開始だ。その光景は一般的な家庭での、賑やかな食卓とは違って会話もなければ笑い声もない。
ただ黙々とナイフとフォークがかちゃかちゃと立てる音のみである。
やがて食事を終え、最後にメイドが食後の紅茶を運んでカップを各自の前に置く。
アルフォンソは香りを楽しんだのちにゆっくりとカップを傾ける。そしてふぅっとひと息。
「フランチェスカ」
「はい」
「お前の誓願式まであと五日だが、その前にすべきことがある。わかるな?」
「うん。
うむと父が頷き、さらに続ける。
「誓願式で正式にシスターとして誓いをたてる前に、俗世の
「うん、わかってる……」とフランチェスカが小さく頷き、兄のフリアンが「頑張れよ」と声をかけるが、無視する。
逆に母からの「がんばってね」にはうんと頷いて応えた。
そこへ老執事のセバスチャンが失礼しますと入室し、アルフォンソに耳打ちする。
「む、そうか」
下がってよろしいとセバスチャンを下がらせ、娘に向き直る。
「車の用意が出来たそうだ。教会まで私が付添おう」
†††
丸坊主に
フランチェスカは父のほうを見ようともせず、窓の外を眺めている。
車はすでに屋敷から遠く離れ、郊外のどこまでも続く田園風景が次々と過ぎ去っていく。
助手席の修道士がラジオの周波数を合わせるとスピーカーからアナウンサーの声が漏れてきた。
『――カタルーニャ地方では明日、昼から夜中にかけて雨が降ることでしょう。気温がぐっと下がりますので防寒着の備えをお勧めします』
「フランチェスカ」
父から不意にかけられた声と膝の上に置いた手をいきなり握られたので、びくりと身を震わせる。
「心配することはない。私はお前が無事儀式を終えることを信じているよ」
「うん……」
「どうした? なにか心配事でもあるのか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
避けるように視線を父から窓の景色へと逸らす。途中、運転席と助手席に座るふたりの修道士がバックミラーでこちらの様子を伺うのが目に入った。
父がさらに続ける。
「なにも心配しなくていい。ピリピ人への手紙第二章十二節を」
「……“恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい”」と外を見たまま
父がうむと頷くのが振り返らなくともわかる。修道士たちも頷いていた。
「そろそろ着きますよ」と助手席の修道士が言ったので、窓の外に目をやると確かに目的地が見えてきた。
ノコギリの刃を思わせるような険しい山々が連なり、その中腹には修道院の建物が。
車は山の
車から降りたフランチェスカは父と並んで歩く。その後ろを修道士のひとりがついていき、駐車場の奥――ゴンドラ乗り場へと。
フランチェスカとアルフォンソの父娘が小型の
ローブのポケットからキーを取り出して、操作盤に差し込んで回す。
ランプが点いたことを確認し、次にレバーを倒して電源を。
モーター音が響いたかと思うと、ワイヤードラムがゆっくりと回転し、強靭なワイヤーによってふたりを乗せたゴンドラは次第に上へと登っていく。
窓からごつごつとした岩肌を眺めていると、内部に設置されたスピーカーから修道士の声が。
「アルフォンソ様、フランチェスカ様。頂上まではおよそ20分ほどで到着します。フランチェスカ様が儀式を無事に務められることをお祈りしています」
神のご加護を最後に通信は切られた。
一定の速度でゴンドラは岩肌をなめるように頂上を目指しながら上へ上へと登っていく。
†††
頂上に到着した時はすでに日は傾きつつあり、ゴンドラから降りたふたりは修道院を目指す。
修道院は奥のほうにあり、左手に博物館を見ながら進む。
本来ならここは観光客が長蛇の列を作っているはずだが……。
「今回、お前が儀式に集中出来るように貸し切りにしたからな。しっかり取り組むんだぞ」と父が娘の疑問に答える。
なるほど。ずいぶんと手厚い待遇で。
声に出さずにそう呟く。
見上げると堆積岩の奇岩が山の岩肌にもたれかかるように並んでおり、間近で見ると圧巻だ。
特に修道院の真上にある岩は今にも崩れてきそうだ。思わずひゅーっと口笛を吹いたので父が嗜める。
「ようこそおいでくださいました」
声がするほうを見ると修道院の入口の門の前に、キャソックに身を包んだ年配の男が立っていた。
「グレゴリオ院長! お久しぶりでございます」
アルフォンソがつかつかと前に進みより、彼の前に膝をつく。
グレゴリオと呼ばれる老聖職者はよいよいと言い、しばし手をさまよわせたあと、肩に手を置く。アルフォンソは片方の手に口づけを。
「儀式の準備は整っておりますでな。して、ご息女のフランチェスカ様は?」
グレゴリオは杖をつき、白く濁った目で辺りを見回す。
「私はここにおります」
フランチェスカも彼の前にひざまずく。
「よくおいでくださいました。ご覧のとおり、目が見えませんのでな……出来ればお姿をひと目見てみたかったのですが、これもまた神の試練でしょう」
さ、こちらへと盲目の院長が扉を開けて中へと招き入れる。
礼拝堂は荘厳ではあるが、窓から差し込む日差しと蝋燭の灯りによって柔らかな雰囲気に包まれていた。
初めて足を踏み入れたフランチェスカは辺りを見回す。見たところロマネスク様式のようだ。
「11世紀頃ぐらいかしら……? 比較的新しい部分もあるみたいだけど」
「さすがはフランチェスカ様。おっしゃる通り、11世紀頃に建てられました。ですが、ナポレオンの軍によって破壊され、19世紀に再建されたのです」
グレゴリオ院長は盲目とは思えないほどしっかりと歩きながら説明を。
三人はやがて祭壇のところまで来た。祭壇の上にはイエスではなく彼の母、マリア像が安置されている。
こちらへと院長が横の通路へと案内したので、ふたりが入るとそこは回廊であった。
グレゴリオ院長を先頭に細長い通路を歩く。
少ししてから院長が足を止めたので、ふたりも止まる。
「こちらをご覧くだされ」
指差したのは幼子イエスを抱いたマリア像でガラスケースの中に納められており、穴から右手を突き出すようにしている。手には球が握られていた。
特筆すべきなのは――
「このマリア像、黒いわ」
「左様で。蝋燭の
「つまり?」
「それはこれからご自分の目でお確かめください」
そう言うとグレゴリオはローブのポケットから鍵を取り出し、ガラスケースの隣にある扉の鍵穴に差し込んだ。
がちりと音を立てて解錠し、中へと。
その部屋は薄暗く、石造りのためかひんやりとした空気が足元にまとわりつく。
途端、ぽぅっと灯りが。グレゴリオがマッチを擦ったのだ。
「私は暗闇でも不自由はありませんが、あなた方はそうもいきますまい」
傍らに置かれたカンテラに火をともし、フランチェスカに手渡す。
カンテラのおかげで少しではあるが、部屋の中が見えるようになった。
フランチェスカが奥へ進もうとしたところへグレゴリオが止める。
「足下に注意を!」
見れば石造りの床にぽっかりと穴が空いており、階段が下まで続いていた。グレゴリオ院長が止めなかったら転がり落ちていたことだろう。
ごくりと唾を飲み込む。
「この下に礼拝堂がございます。そこで太陽の光が差すまでお祈りを捧げてくだされ」
フランチェスカが父のほうを見るとこくりと頷く。
「ひとつお話を。この修道院はこれまでに何人もの著名な方が訪れました。そしてそのなかにはあのガウディも」
「ガウディ!? ガウディってあのサグラダ・ファミリアの!?」
スペインの偉大な建築家の名前を口にし、グレゴリオ院長が頷く。
「ガウディは足しげく通っておられました。ある日、インスピレーションを得るために礼拝堂に篭もられたのです」
そして、とフランチェスカの顔を見た。見えてないにも関わらず、その白く濁った両眼はしっかりと彼女の顔を見つめている。
「しばらくしてから彼はここを出ました。彼はその後、あのサグラダ・ファミリアの設計や建築に取り掛かったのです」
ふたたびごくりと唾を飲んだフランチェスカは足下の階段を照らす。
まるで冥界への入口のようだ。
「ガウディとあの黒いマリア像はけして無関係ではありません。どうかご自分の目でお確かめください。浄めの儀式を無事に終えられるよう祈っております」
胸の前で十字を切り、手を組んで聖書の一説を。
「“あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます”」
「コリント人への手紙第10章13節ですね」
こくりと院長が頷く。
「フランチェスカ様もガウディのようにきっと開眼なされるでしょう」
きゅっと奥歯を噛みしめ、カンテラを持ち直してゆっくりと、慎重に階段を降りていく。
「フランチェスカ」
父のほうを見る。
「お前ならきっと出来る」
「ん……努力はしてみるわ」
彼女が一段ずつ降りるたびにカンテラの明かりは闇に吸い込まれていき、姿が見えなくなった。
――――同時刻。
サン・セバスチャンにあるサンタ・マリア・デル・コロ教会の礼拝堂は聖歌隊の織りなすハーモニーに包まれていた。
「待って! 待ってください!」
指揮を取っていたシスターが止めると、歌声もぴたりと止まる。
「その、すごく良かったのですが……ええと、カルメンさん? もう少しオクターブを上げてください」
「はい」
「あとそれから、ラウラさんはお腹に力を入れるような感じでお願いします」
てきぱきと的確な指示を出すシスターのもとに聖歌隊のひとりが歩み寄る。
「ありがとうございます。わざわざイタリアからお越しくださいまして……なかなか歌を教えてくれる方がいなくて困っていたところですの」
「いえいえっ! 私なんてまだまだでして」とぶんぶんと顔の前で手を振りながら。
もう一度やってみましょうとパイプオルガンの演者に目配せしようとしたところへいきなり扉を叩く音。
指揮者のシスターが何事かと振り向く。その拍子に彼女の赤毛の三つ編みが揺れた。
どうやら誰かが扉の裏で叫んでいるようだ。
やがて叩く音が聞こえなくなった。
そこへつかつかと対応していた年配のシスターが溜息をつきながらやってくる。
「あ、あの……なにかあったのでしょうか……?」
おずおずと尋ねると、シスターは首を振りながら。
「フランチェスカ・ザビエルがどこにいるのかを教えてくれといきなりやってきたのです。なんでも日本から来た若い男性だそうで……でももう追い払いましたから心配はいりませんわ。なにしろドンには……」
そこまで言ってシスターはしまったと口を抑える。
「なんでもありませんわ。それより練習を続けてくださる? 私は仕事がありますから……」
そそくさと赤毛のシスターを残してその場を後にする。
「フランチェスカ……? フランチェスカ
赤毛のシスター――――アンナはきゅっと胸の前で手を握る。
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