第46話 Talitha kum ~マルコ伝第5章41節~


 遠くから微かにだが、声が聞こえてくるので、フランチェスカは目を覚ました。

 天蓋付きのベッドの天井が目に入ったので、スペインにある実家、自分の部屋にいることを思い出した。

 ベッドから半身を起こして耳を澄ます。

 確かに聞こえる。それも少女の声――正確にはすすり泣きのようなものが。

 寝間着姿のままベッドから降りて、傍らのテーブルに置かれた蝋燭に火を付ける。

 蝋燭立てに差し込んで手に持ち、自室のドアを開け、廊下へと。

 深い闇のように暗い廊下では蝋燭の明かりだけが頼りだ。

 真夏なのに廊下のオーク材のひんやりとした感触が裸足に伝わる。

 すすり泣きはさっきよりはっきりと聞こえてくるようになった。どうやら階下かららしい。

 階段の手すりに手をかけ、一段ずつ慎重に降りていく。

 それにともなってすすり泣きの元へと近づいていく。

 みしりと音を立てて階下にたどり着いた。

 そこで彼女は立ち止まった。

 目の前には寝間着姿の、うずくまったまますすり泣く少女の姿が――。

 こちらには背を向けているので、顔はわからないが、フランチェスカと同じく腰まで伸びた金髪をしていた。

 なぜ少女がこんなところにという疑問が湧いてきたが、とにかく放ってはおけない。

 どうやら胸にぬいぐるみを抱いているらしい少女のほうへゆっくりと近寄る。


 「大丈夫? どうしたの? パパやママは?」


 つとめて優しい声で呼びかけ、少女の肩に手をかけようとした時――


 泣き声がぴたりと止み、いきなりすっくと立ち上がった。

 フランチェスカが驚いていると、そのまま少女はたたたと奥のほうへと走っていった。


 「待って! 逃げないで!」

 

 少女の後を追うフランチェスカが持つ蝋燭の火が揺らめく。

 やがて突きあたりに着いた。目の前には重厚な木造の両開きの扉が。

 あたりを見回すが、ほかに隠れられるところはない。

 彼女はこの奥に逃げ込んだのだろうか。

 ごくりと唾を飲み込み、扉に手をかける。

 ぎぎぎと軋み音を立てて内側に開いた、その先は――

 

 「礼拝堂……?」


 縦に並んだ長椅子が左右に配置され、中央の通路を行った先には祭壇が。

 人ひとりいないがらんとした礼拝堂をひたひたと歩き、祭壇のところまで来る。

 そこにも少女の姿はなかった。

 見上げると、十字架にはりつけにされた青銅色のキリストがこちらを見下ろすかのように虚ろな目を向けている。

 途端、礼拝堂の端に設置された燭台のひとつにぽうっと火が灯った。

 驚いてそのほうを見ると、誰もいない。フランチェスカが困惑するのをよそに次々と燭台に灯が灯り、礼拝堂を照らす。

 

 「おねえちゃん」

 

 はっとして声のしたほうを振り向くと、通路の中央に少女がいた。胸にうさぎのぬいぐるみを抱くようにして。

 フランチェスカが驚いたのは少女が突然現れただけではない。


 「あたし……?」


 幼い彼女の顔は確かに幼少の頃の自分だ。最初に彼女を見つけたときにまさかとは思ったが、その顔は見間違いようがない。なにより彼女が抱いているぬいぐるみは子どもの頃に遊んでいたそれだ。

 少女はこちらをじっと見つめたまま動かない。

 少女のもとへ近づこうとした時――


 蝋燭の火が消えた。

 同時に礼拝堂が闇に包まれ、ふたたびフランチェスカの持つ燭台の明かりだけが頼りとなった。

 少女が踵を返すといきなり走りだす。


 「待って! どこに……」


 背後に何者かの気配。

 振り向くとそこにはスータンと呼ばれる牧師の衣服に身を包んだ男が。

 だが、その顔は闇のように黒く、ぽっかりと穴が空いたかのようであった。

 ひゅっと息を飲んで後ずさりすると、また気配だ。

 今度はスータンだけでなく修道服スカプラリオに身を包んだシスターや司祭の姿もあった。

 いずれも顔は闇のように深い。

 じり、じりと距離が詰められていく。


 「いや……」

 

 燭台が手からぽろりと落ち、がたんと音を立てて地面に落ちて、最後に残ったともしびも消える。

 

 「やめて……!」


 たまらずにその場に蹲ったフランチェスカの姿は幼少時代のそれだ。

 その間も空っぽの顔をした修道士たちはだんだんと距離を詰めていき、手を伸ばせば届くところまできた。


 おねがい……だれか、たすけて……!


 涙が溢れ出るまぶたをぎゅっと閉じる。目を閉じれば幽霊がいなくなるように。

 突然、礼拝堂の扉が勢いよく開かれた。

 開かれた扉から光が差し込み、それは闇を払うかのように礼拝堂全体を明るく照らしていく。

 フランチェスカはゆっくりと目を開け、強い光に顔をしかめつつ、手で光を遮りながら扉のほうを見る。

 誰かが扉に立っている。

 逆光でよく見えないが、その人物は彼女のよく知る人物だ。見間違えようがない。

 彼の名を口にしようと、口を開け――

  

 「あ」


 

 「――――! ――――スカ! フランチェスカ!」


 自分を呼ぶ声で見習いシスターははっと目を覚ました。


 「大丈夫か? うなされてたぞ」とフリアンが心配そうに妹の顔を見つめる。


 「う……大丈夫……ちょっと夢を見てただけ……」


 額に手をやり、窓の外を見る。見覚えのある街並みだ。

 

 あ、そっか。もうスペインにいるんだ……。

  

 早朝にバルセロナに到着し、空港から車に乗り込んだフランチェスカは運転手の修道士によってバスク地方――彼女の家へと向かっていた。


 「……変わらないわね。この街並み」

 

 二年前に神学校を卒業し、日本に向かうために空港へ送ってもらった時と変わらない街並みがどんどん過ぎ去っていく。


 「もうすぐお屋敷に着きますよ。フランチェスカ様」と助手席の修道士。


 「そう……」


 修道服のポケットからイヤホンを取りだして両耳に装着し、スマホを操作するとロックの大音量が流れ込んできた。


 「おい、音を小さく……というか、そんな騒々しい音楽なんか聴くな!」


 兄の文句を無視するかのように顔を窓のほうへ向ける。


 「アンジロー……」


 ぽつりと呟く。

 夢の中で現れた男は間違いなく、彼だ。

 彼が本当に目の前に現れてくれたら、どんなに嬉しいだろうと思う。

 だが、彼は日本にいる。6000マイル以上も離れた場所に。

 窓にはぁーっと息を吐き、曇った部分にきゅっきゅっと指でなにかを描く。

 

 『♡』


 だが、じわじわと消えていき、やがてなにも見えなくなった。

 

 

 

次話に続く。

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