第44話 Where have all the flowers gone?④
安藤は自宅の自室にて机に向かっていた。手元には夏休みの課題であるスペイン語のテキストとノートが。
「ええと過去未来完了だから……あ、そうか。この冠詞を女性名詞に対応させないと……」
スペイン語は時間の概念を表す時制のバリエーションが豊富にある。
その複雑さに安藤は頭をがりがりと掻く。
そして背もたれにとすんと身を預け、頭の後ろで手を組む。
フランチェスカさん、いまどうしてるのかな……?
先刻、ラインでシティホテルにいると教えてくれたが、どこのホテルかは教えてくれなかった。
仮に、ホテルがわかったとしてもあのフリアンという兄と従者である修道士が会わせてくれるはずもない。
どうしたものかなと思っていると、傍らに置いたスマホが振動した。
画面を見るとフランチェスカからだ。すぐさま通話ボタンを押す。
「フランチェスカさん?」
受話口から彼女の声が聞こえる。ほんの少し会っていないだけなのに懐かしい感じがした。
そんな彼女からいま会えないかと聞いてきた。
もちろんと答えると、時間と場所を指定された。
「家の近くの公園すか? そこなら今すぐにでも行けますよ」
公園で落ち合うことが決まり、通話を終了させた安藤はスマホをしまうと部屋を出た。
「母さんちょっと出かけてくるね!」
玄関で靴を履き、トントンと爪先を蹴ってから外へと飛び出す。
†††
家から公園までは歩いて十分ほどだ。
辺りはすっかり暗くなり、街灯が照らすなか、安藤は公園までの道を歩く。
程なくして公園の入口が見えてきたので、小走りで向かう。
公園内の時計はすでに19時を指している。そのためか公園には人ひとりいない。
――――いや、ひとりいた。
ブランコに腰かけた少女がひとり。
安藤に気づいたらしく、にこりと微笑む。
いつもの
「ハーイ、アンジロー」
「フランチェスカさん、どうしたんすか? こんなところで……」
「ん、抜け出してきたの。なんか、アンジローに会いたくなってね……」
「っ! そ、そすか」
フランチェスカからそう言われ、安藤は思わず赤くなった頬を掻く。
「ね、突っ立ってないで座ったら?」と隣のブランコを指さしたので、そこへ腰かける。
座ったはいいものの、フランチェスカがなかなか話し出せないのか、ふたりの間に沈黙が流れた。
いたたまれず、安藤が口を開く。
「あ、あのっ」
「あのさ」
まったくの同時だった。
「あ、そ、その……」
「いいよ。アンジローから話して」
「あー……その……」
とっさに声をかけたはいいものの、肝心の内容を思いついていなかった。
フランチェスカが「なに?」と覗き込んでくる。
「そ、そうだ! ラーメン屋のおばさんから、貸した浴衣はいつでも返していいって言ってましたよ」
「そう……わかった。ありがとね」
違う。言いたかったのはそんなことじゃないだろと自分に言い聞かせ、安藤がふたたび口を開こうとした時。
「あたしね、向こうに帰ったら正式にシスターになるの」
「……知ってます。マザーから聞きましたから」
「そっか」
「えっと、誓願式でしたっけ?」
「うん。しきたり通り、8月の第四日曜に行われるの」
フランチェスカが両足を揃えて前後に揺らす。その度にきぃこきぃことブランコの軋む音。
「あたし、普通の家庭に生まれたかったな……」
そうぽつりと呟く。
その言葉に安藤は何も言えなかった。
夜の静けさのなか、公園ではブランコの軋む音のみ。
その音の間隔がだんだんと狭まり、やがてぴたりと止まった。
「あたし、どうすればいいのかな……?」
ブランコを揺らすのをやめたフランチェスカが問う。
それは安藤に対してだけでなく、自らにも問いかけるかのように。
「俺は」
安藤の言葉にフランチェスカが頭を向ける。
「フランチェスカさんは、スペインに帰ったほうがいいんじゃないかな……家族が心配してるでしょうし、俺がとやかく言うことじゃないと思うんで……」
安藤が彼女を見ると、フランチェスカは俯いていた。
「…………うん、そうだよね……」
そうぽつりと零す見習いシスターの顔は淋しげだ。
「うん! なんかスッキリした!」
いきなりブランコから立ち上がってスカートに付いた埃をぱっぱっと払う。
「やっぱり話してよかったわ。と、そろそろ戻らないと兄さんに怪しまれるわね」と公園の時計を見ながら。
「明日、帰っちゃうんすよね……」とブランコから立ち上がりながら。
「うん、午後の四時にね。直行便で帰るの」
その時間だと学校の夏季講習だ。見送りには行けない。
「そうっすか……じゃあ、俺もそろそろ帰らないといけないんで……シスター頑張ってください」
「うん、またね……」
ひらひらと手を振る見習いシスターに背を向け、公園を出ようとした時――――
いきなり後ろから掴まれた。
「ふ、フランチェスカさん?」
「アンジロー……あたしね、アンジローに会えてよかったと思ってる」
ぽすんと頭を背に預ける。
「フランチェスカさん……」
彼女の熱や感触を背中越しに感じて、思いの丈を舌に乗せて口を開こうと。
彼女の背中から回した腕が解かれた。
「ごめん。いきなり引きとめて……じゃ、あたし帰るね。スペインに帰っても、アンジローやまいまいのことは忘れないから」
安藤が声をかけようとした時には、彼女はすでに闇の中へと走り去っていった。
公園にてひとり残された安藤は、しばし彼女が去った方向を見送り、やがて家路についた。
ふと時計を見上げると、針は19時10分を指している。長い時間が経ったように思っていたが、意外とそんなに経っていなかったようだ。
十分間彼女といた公園を安藤はそのまま後にした。
†††
シティホテル。フランチェスカの部屋のドアの左右には相変わらずふたりの修道士が門番を務めていた。
エレベーターの到着音がし、ひとりがそのほうを見ると思わず目を疑った。
部屋から出ていないフランチェスカが目の前にいるのだから。
「フランチェスカ様?」
「どこに行かれていたのです?」
修道士たちが慌てるなか、見習いシスターは隣の部屋のドアをノックする。
出てきたのはやはり兄のフリアンだ。
「フランチェスカ? どうしたんだ?」
だが、フランチェスカはそれには答えず、用件を切り出す。
「兄さん、お願いがあるの」
⑤に続く。
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