第29話 小さな報復



 リビングルームから隣接する、続きの夫婦専用のリビングルームに連れ込んだルーチェスクは、有無を言わせず、椎名の唇を貪った。

「ごめんね、ルー」

「こういう時くらい、乱れて良い。樹海に飛ばされたっていうのに、フラットな精神状態の方が心配する」

「あー、さんざん報復したから割と落ち着いてる。大丈夫だよ」

「で、何を報復したんだ?」

「マーキングのタグを、ゴキブリの触覚みたいにしたの。その触角は黒と黄色のツートンカラーの蛍光色。同時に、マーキングされた人が生活魔法を使うたびに、通常よりも6倍の魔力消費量を必要とするようにタグを書き換えておいた」

 ルーチェスクにわかるように、椎名はプロジェクターの要領で実例を出す。実際に見ると、ゴキブリのヘルメットをかぶったような形だ。

 これにはルーチェスクが声をあげて笑った。

「何だこれ…」

「そういうこと。ルー、降ろして。お風呂入って寝るから」

「それから何を仕掛けたんだい?」

「今のところそれだけ。魔力が足りなかったから」

「そうか」

 だが、これは良い情報だった。生活魔法を使うたびに6倍もの魔力消費をするとなるとなおさらだ。

「生活魔法というところがミソだな。普通は無意識に使うだろう」

「魔力が豊富な人は特にね」

 ルーチェスクは脱衣室に椎名を連れてゆく。

「一緒に入りたいんだが」

「嫌。きれいに洗い流すまで待ってて」

「ああ、そういう意味か」

 ルーチェスクはにやりと笑って椎名を降ろした。


 ルーチェスクが脱衣室を出てゆくと、椎名はためらわず衣類を脱ぎ捨て、浴室に飛び込むと頭からシャワーを浴びた。

 本来なら身体を洗ったりと介助してくれる誰かがいるが、椎名は基本的に一人でお風呂に入ることを好むので夜のお風呂はともかく、昼間のお風呂には人は付けないようにしているので今は一人だ。


「あー、もう、腹が立つ。何なのよ、あの臭さ。気持ち悪い」

 悪態をつきながらシャンプーを手に取り、ざっと泡立てて髪を洗う。

「魔力まで臭いって、頭腐ってるってことじゃん。自分の利益のために利用してやれ?殺しちゃっても良いよって? 良いよ良いよ、頭で思っているだけならどうぞご勝手に。でも実行しちゃったらただの馬鹿じゃん。魔界は野放しなの?法治国家って言葉はないのか、馬鹿野郎。臭いにおいをふりまくんじゃない。ルーが穢れる」

 一度深呼吸する。

「やっちゃいけないことはやっちゃいけないことなのよ。魔族はオッケーで人間はNGなんてそんな例外はちょっとで良いの。殺しちゃうのは魔界でもNGでしょうに。私が何をしたっていうのよ。ここで生きてくしかないだけの話じゃん。だから生きてるだけじゃんか」

 強めのシャワーで洗い流してコンディショナーを髪につけ、スポンジを泡立てる。

「私が気に入らないならいいよ、そんなの知ったこっちゃない。馬鹿みたいに利用されるだけなんてごめんだわ。私は私で生きてゆくの、アンタたち馬鹿どもに振り回されたりなんかしない。私は私で生きてゆくの、それしか方法がないんだから仕方ないんだ…」

 涙がこぼれる。

「仕方ないけど、仕方ないけど…仕方ないから生きるんじゃない、生きていきたいからこうするんだから邪魔しないでよ」

 それでも、身体がくず折れそうになる。寸でのところで抱きとめてくれたのは、見知った香り。変わらぬ体温。ことあるごとに支えてくれるルーチェスクその人である。

「俺は、生きていてくれて嬉しい」

 耳元でささやかれた色気のある声に、思わず身体が震える椎名だった。

「ルー」

「もっと言え。我慢する必要はない。人間の世界での未来を、理由なく奪ったのは我々だ。生きるしかない選択肢を与えなかったのは俺だ。もっと憎んでいい、それがお前の生きる原動力になるなら、俺を憎め」

「違う、ルーを憎んでいるんじゃないの。そこは違う。何でも魔力で片づけて武力行使して平気で命を奪おうとする連中に怒ってる。理不尽な理由で傷つけて良いわけじゃないのに平気で傷つけちゃう人達が嫌い」

 椎名は逆にルーチェスクを抱きしめる。

「あなたが悪いんじゃないの。それは違うから。…ルー、石鹸ついちゃうよ」

「構わん」

 ルーチェスクは離れようとする椎名を抱きしめ、自分も衣類を脱ぎ捨てると椎名の体を洗い始める。それはそれは官能的に。


 ルーチェスクの指先は、荒れてはいないが鍛えているだけあって骨太の男らしい指先だ。だというのに、椎名に触れる手つきは慈愛に満ちている。椎名の肩先も、女性らしい腰のラインも自分のものだと主張するように撫でて、抱きしめる。恥じらって抵抗する椎名の唇を舌先で翻弄し、顔中にキスを落として抵抗を封じた。

 やがて、ルーチェスクが満足するほどに洗い上がった椎名はもう身体を動かすのも億劫なほど疲れていた。「いろいろな」意味で。

「何かした?」

「んー、椎名にくっついていた他の奴の魔力を薬草園の温室の動力装置に繋いでおいた」

 椎名を抱いてお湯の中に入る。

「そんなことしたら、私が魔力不足になっちゃう」

「他の連中の魔力を吸い取るな。緊急時ならともかく、今は俺がいる」

 椎名の全身状態を確認したルーチェスクはこれ以上は無理だと判断してお湯から上がる。

「まさかこの俺がお前の中に取り込んだ他の奴の魔力にまで嫉妬するとは思わなかった」

 椎名は耳を疑った。それから、その言葉の意味がゆっくり自分の中に落ちてゆくまでぽかんとしていたのである。

「はい?」

「まぁ、今日は我慢しろ」

 連れて行かれたのはルーチェスク専用の寝室でだった。


「ここ…は?」

「強力な結界が張ってあるし、俺以外は認めた奴だけ、しかもごく少数に限っている。泣いても叫んでも絶対に外には聞こえん。安心して声を出して良い」

「どういうこと?」

 ルーチェスクのベッドの上には、魔界に来てから、椎名が魔力のコントロールがてらごろごろ生み出した魔石が、文字通りごろごろしていた。

 大小さまざま、ベッド一面をおおいつくすほどのものだ。

「そもそも、自分自身が生み出した魔力の塊だから副作用も何にもないんだがな。取り入れるときはそれなりに…まぁ、経験してみろ」

 ルーチェスクはニヤニヤと笑いながら問答無用、とばかりベッドの上にポイ、と椎名を落とした。

 石の固さを知っている椎名はごつごつした感触を想像したが、襲ってきたのはふわっふわっの羽毛の感触で。


「え?」

 次に来たのは強烈な多幸感だった。続いて激しい快感。

「うわっ、ナニコレ」

 持続はしないが、じりじりと続く快感だった。それが、自分が生み出した魔石から生じるものだと気が付いた椎名はベッドから飛び降りた。

 まったりとまとわりつくような温度と甘さと多幸感は快感と同じだと思った瞬間、かあぁっと身体が火照る。


「ほとんどを一気に吸収したか。魔力がずいぶん不足していると思ったが」

 魔力を一気に吸収したことで身体の中で暴れ狂う魔力を椎名は武道の呼吸法で一気に鎮める。

「びっくりした」

「何ともないのか?」

「…とりあえずは」

 それでもベッドの上に残っている魔石は大小三つくらいである。

「時々、お前の容量がわからなくなるな。身体の方はどうだ?魔力を補充したから楽になっただろう?」

「はい、ありがとうございます」

「初めてだと泣き叫ぶことがあるんだが」

「あー、確かに。キツイかも」

「だがお前は平気そうだな」

 ルーチェスクは椎名を抱きしめて、それから遠慮なくキスをして椎名の口内を舐った。


 一気に官能の火が付いた椎名が身体を離そうとしたが、そうはさせまいとルーチェスクはがっちり抱きしめる。甘やかすように、離さないように椎名を煽る。

「お帰り、椎名。生きた心地がしなかったよ」

「ただいま、ルーチェスク」

 椎名は愛しい男の胸に顔を寄せた。

 ルーチェスクの腕の中にいることが、今は最上の幸せだと実感した。


 もう自分は元の世界には戻れない。

 戻れないからこそ、ここで生きてゆく。

 どんなことがあっても。

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