九州征伐⑨ 北九州開戦と龍造寺家

少し時を遡り、1月中旬。正吉郎率いる第3軍が天草諸島に渡るのと時を同じくして、大倉久秀率いる第1軍と、藤堂虎高率いる第2軍も八代郡の古麓城を出陣していた。


肥後国は、南肥後の球磨郡と葦北郡、八代郡は相良家が治め、北肥後では肥後守護を務めた菊池家が国中地方の諸郡と天草郡を支配する以外は、東部の阿蘇郡と益城郡は阿蘇大宮司を代々務める阿蘇家が掌握している。


戦国時代に入って大きく衰退した菊池家が15年前に滅亡すると、菊池家の遺領は菊池一門で「菊池三家老」と呼ばれた赤星家・隈部家・城家が領するところとなったが、赤星家と城家は大友家に接近し、隈部家は龍造寺家に従属している現状であった。


しかし、第1軍2万が北肥後に攻め入ると、2月上旬には飽田郡と託麻郡の2郡を領する隈本城主の城親賢に続いて、宇土郡の名和行直も戦わずして降伏した。さらには山鹿郡の隈部親家、菊池郡の赤星統家、合志郡の合志親為、玉名郡の小代親忠、和仁親実ら北肥後の国人は次々と寺倉家の軍門に降った。


一方、阿蘇郡への侵攻を目指す第2軍は、阿蘇郡の西の益城郡にある御船城を1万の兵で包囲すると、藤堂虎高は阿蘇家の筆頭家老を務める城主の甲斐宗運に使者を送る。


阿蘇家は30年ほど前に先代の阿蘇惟豊が、菊池家を簒奪した兄の阿蘇惟長(菊池武経)との間で家督争いが起きた際に、日向国高千穂の国人領主だった甲斐親宣・親直(宗運)父子が、肥後から落ち延びた惟豊の復権を援けたという経緯があった。


そのため齢63を迎えた今も、宗運なくして阿蘇家は成り立たないと言っても過言ではないほど、当主の阿蘇惟将も大きな信頼を寄せる傑物である。その宗運は肥後国内では相良家と名和家との同盟を維持しながらも、国外では大友家に半従属していた。阿蘇家の存続を保つため、大友家との関係を崩すのを躊躇った宗運は、使者の降伏勧告を突っ撥ねた。


だが、勧告の書状には「2月10日まで猶予を与える」と書かれてあった。藤堂虎高は2月上旬には浅井軍と蒲生軍が九州に侵攻する計画を知っていたため、無理には力攻めせず、宗運に考える時間を与えたのだ。


宗運は第1軍と第2軍の存在しか知らなかったが、不審に感じて大友領の豊後と豊前に素破を送ったのが、阿蘇家の運命を左右することになる。




◇◇◇




1月下旬、中国地方を統一した浅井家と蒲生家は、ついに九州侵攻の準備を終えた。


"六雄"の6家は5年前の「統麟城の会盟」の際に、侵攻方向と領土分割について密盟を交わしていた。浅井家は山陰道と長門を経て、筑前・肥前・壱岐・対馬まで。蒲生家は山城・摂津から山陽道の周防に至り、豊前・豊後・筑後まで攻め入るという密約である。


2月上旬、浅井家と蒲生家は歩調を合わせて九州へ侵攻した。浅井軍5万は長門から関門海峡を渡って豊前に上陸し、蒲生軍4万は周防から伊予を経由し、日向灘を渡って"六雄"に降った伊東家が治める北日向へ上陸し、豊後に北進するという作戦だ。


対する大友家は南北から9万もの大軍に挟撃されることとなるが、昨年の山陽山陰での長期に渡る軍事行動により領民の疲弊や信望の失墜は著しく、窮地に立たされる。大友領は豊後・豊前・筑前・筑後・北肥後を合わせて140万石ほどで、動員兵力は3万5千であり、領民の男を根こそぎ集めなければ太刀打ちできない状況だった。


大友家の苦境の端緒となったのが小倉城の落城だった。浅井軍は北豊前の門司城をわずか3日で攻め落とすと、2月5日には小倉城に押し寄せた。小倉城は東の紫川を水堀とした平城で決して堅城ではないが、小倉城城主の高橋鑑種は即座に降伏開城したのだ。


高橋鑑種は数々の戦功を挙げた武勇に優れた名将であり、かつては筑前の守護代として大宰府を支配したほどの重臣である。その鑑種が戦うことなく降伏したのは、大友家に反旗を翻したことに他ならなかった。


反逆の原因は大友宗麟の行状にあった。勢力拡大に伴って次第に傲岸不遜となった宗麟は家臣の諫言を無視して酒池肉林を好むようになっていた。そして重臣の一萬田親実の妻に横恋慕すると、親実から妻を奪って妾にした挙句に、邪魔になった親実に謀反の罪を被せて殺すという暴挙に出たのだ。


そして、高橋鑑種は一萬田家から高橋家に養子に入る前の名を一萬田親宗と言い、殺された親実の実弟である。卑劣極まりない宗麟を深く恨んだ鑑種は2年前に謀反を企てたが、毛利家が九州から撤退したことにより後ろ盾を失った。


進退窮まった鑑種は臥薪嘗胆して大友家に降るが、宗麟に高橋家の家督を剥奪され、小倉城の城主に左遷された。そして今、鑑種は宗麟に復讐を遂げるため、浅井家に降る道を選んだのだ。


小倉城の落城に大友家中は動揺した。大友宗麟は直ちに豊前の要衝である香春岳城に兵を集めると、吉弘家から高橋家を継いだ宝満城の高橋鎮種(後の高橋紹運)と立花城の戸次道雪に筑前と筑後の兵を糾合させ、西と南から浅井軍を迎撃する布陣を敷くのだった。


しかし、豊後の南からは蒲生軍が迫りつつあった。北日向の延岡城から北上した蒲生軍は、栂牟礼山に築かれた栂牟礼城を包囲した。


栂牟礼城は佐伯家の居城だが、40余年前に当主の佐伯惟治が謀叛の疑いを掛けられ、2万の軍勢を送られても落ちなかったほどの天然の要害である。


だが、今の守将で惟治の孫の佐伯惟教は大友家と対立した過去があった。それは大友家が家臣団を一族の同伴衆とその他の他紋衆に分け、他紋衆の盟主だった佐伯惟教は集権化を進める大友宗麟に不満を持ったためだ。


14年前に宗麟に討伐軍を送られた惟教は伊予の西園寺家に亡命し、10年ほど身を寄せた。だが、西園寺家が土佐一条家に滅ぼされ、惟教が豊後に帰国すると、宗麟は毛利水軍に対抗するには佐伯水軍の協力が必要と考え、惟教の帰参を認めたのだ。


かくして蒲生軍は栂牟礼城で頑強な抵抗に遭い、予想外の足止めを喰らうことになる。




◇◇◇




肥前国・村中城。


2月7日の夜、龍造寺家の居城である村中城の一室で「肥前の熊」こと龍造寺隆信と家老の鍋島信生(後の鍋島直茂)が密談をしていた。


かつて水ヶ江龍造寺家の嫡男だった龍造寺隆信は、17歳の時に祖父と父を主家の少弐家に誅殺され、筑後に亡命した。しかし、20歳で少弐家を打倒して捲土重来を果たすと、本家の村中龍造寺家を継いで当主となり、42歳の今や肥前の有力大名の地位を確立していた。


その覇業を支えたのが隆信の右腕とも言える鍋島信生である。隆信の父と信生の生母は兄妹のため2人は従兄弟であると同時に、隆信の母の慶誾尼が信生の継母となったため義弟となった信生は隆信から厚い信任を受けていた。


「孫四郎、小倉城が落ちたそうだな」


「はい。大友も9万の大軍相手ではさすがに苦しいかと存じまする」


「さらには寺倉も5万か。当家は"六雄"とは敵対しておらぬが、いかがすべきか?」


「中将様。いずれ近い内に"六雄"から降伏勧告が届きましょう。"六雄"は日和見した者には厳しい待遇に処すそうにござれば、早い内に"六雄"に味方すべきと存じまする」


「確かに"六雄"に降れば御家は存続できようが、今の肥前の所領は削られるやも知れぬ。とは言え、滅亡必至の大友に味方するのは愚かだ。ならば大友の苦境に乗じて筑前や筑後を奪った後に"六雄"に降れば、今よりも大きな所領を認められよう」


史実でも大友家が「耳川の戦い」で島津家に大敗すると、隆信は火事場泥棒で大友家の所領を奪っている。正に弱肉強食の論理であった。


「某には中将様の申されるように都合良く事が運ぶとは思えませぬ。"過ぎたるは猶及ばざるが如し"と申しますぞ」


2人は「龍造寺の仁王門」と称される一方で、酒色に溺れがちな隆信は度々諫める信生を疎むようになり、信生もまた隆信の心中を察していた。


「この機を逃せば所領を増やす機会は二度と巡っては来ぬであろう。今しかないのだ」


かくして隆信は信生の忠言を拒否する。2人の溝は深まるばかりであった。

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