石山合戦② 毛利家への援軍要請

摂津国・石山本願寺。


「頼廉、分かっておる。確かにこのまま籠っているだけでは、待つのは滅びのみだな。……門徒を少々増やし過ぎたか?」


(半分の門徒は捨て駒にして、野戦で寺倉の兵力を削らせるか? だが、寺倉の海上の封鎖を解かせない限り、結局は飢え死を少し先延ばしにするだけだな。……四国の阿波の三好とは仇敵である上、今は長宗我部との睨み合いでこちらに目を向ける余裕はないはず。畠山も紀伊を守るのが精一杯で、背後から援軍を求めても断られるだけであろう。ならば……)


顕如はまるで頼廉の存在を忘れたかのように、自分の世界に没入してブツブツと独り言を呟き始めた。


下間頼廉は独り言を呟きながら考えに耽る顕如の様子を見て、「また顕如様の悪い癖が出た」と内心で溜息を吐いた。顕如は焦りが出ると思考に集中し過ぎて、周りが一切見えなくなる癖があったのだ。


「顕如様! 毅然となさいませ! まだ勝機はございまするぞ!」


しばらく思案した末に"ある策"を思いついた頼廉は、一人で考えに耽っている顕如を鋭い眼光で射貫くと、厳しい口調で呼び掛けた。


その声に顕如はハッとなって思索を中断し、頼廉の顔に視線を移すと、怪訝そうに眉を寄せて頼廉の言葉を反芻した。


「勝機、だと? それは真か?」


「左様にございます。ここは毛利家を頼るべきかと存じまする」


「毛利とな? 確かに毛利家は山陽・山陰を半ば制した大大名であり、寺倉とも互角に戦えようが、これまで石山御坊とは何の関係もなかったはず。それでは毛利家が石山御坊に援軍を送るはずもなかろう。一体何ゆえ毛利家を頼ろうと言うのか?」


これまで遠距離だった所為もあって無関係だった毛利家という名前に、顕如は意外そうに訊ねる。


「まず、毛利家は尼子を滅ぼして今や山陽・山陰の覇者であり、年初に大友家との和睦が破れて敵対関係になりましたが、北九州の戦線も優勢で勢いづいております。そして、毛利家の領国の安芸と備後は一向門徒の多い国でございます。本山の石山御坊が援助を求めているのを下手に断れば、門徒たちが一揆が起こしかねませぬ故、毛利陸奥守は支援の要請を断ることはできますまい。さらに石見銀山を持つ毛利家には金が潤沢にありますれば、必ずや援助を受けられるかと存じまする」


「ふむ、確かに頼廉の申すのは一理あるな。ならば、毛利家から援助は得られよう。だが、寺倉の志摩水軍は天下に名高く、巨大な南蛮船を持っておるのだぞ。その志摩水軍が海を封鎖しておるというのに、どうやって兵糧を石山御坊まで届けるのだ?」


頼廉の理路整然とした説明に対して、顕如はすぐに懸念を口にするが、頼廉は即答する。


「顕如様は12年前の『厳島の戦い』は覚えておられますかな?」


「無論だ。5倍の兵力の陶軍を、毛利が打ち破り、下剋上を果たした戦であったな」


「厳島の戦い」は天文24年(1555年)に安芸国の厳島で行われた合戦である。その4年前の「大寧寺の変」で主君・大内義隆を討って大内家の実権を握った陶晴賢に対して、前年の「防芸引分」で陶晴賢と断交して独立した毛利元就は、この時点では安芸の有力国人に過ぎなかった。しかし、寡兵の毛利軍は「厳島の戦い」で陶晴賢を奇襲にて打ち破り、毛利元就が中国地方に覇を唱える端緒となった戦であり、「桶狭間の戦い」や「河越城の戦い」と並んで「日本三大奇襲」と称される戦国史上でも名高い戦である。


「あの『厳島の戦い』以降、毛利水軍は日ノ本で最強とも目されるほどの力を誇っておりますれば、志摩水軍の南蛮船にも決して引けを取ることはないかと存じまする」


毛利水軍は小早川水軍や旧大内家の水軍に加えて、瀬戸内海の安芸灘を縄張りとする海賊衆である村上水軍をも取り込み、瀬戸内海西部の覇権を確立していた。中でも村上水軍は機動性に優れる小早を主戦力として、特徴としては焙烙玉の投擲や火矢を得意とする水軍であり、巨大故に機動力で劣る志摩水軍の南蛮船には相性が良いはずだと頼廉は考えたわけだ。


「ふむ、なるほど。確かに噂に聞く毛利水軍ならば、南蛮船にも勝てるやもしれぬな。では、頼廉。すぐに毛利家に使者を送り、寺倉の水軍を打ち払い、兵糧の援助を求めるのだ。対価は銭で望むどおり与えよ。良いな」


「はっ、承知いたしました」


下間頼廉が恭しく頭を垂れて顕如の居室を出て行くと、顕如の目には再び闘志の光が篭り、新たな希望に身を託そうとしていた。




◇◇◇





摂津国・津守村。


「左馬頭様、素破からの報告によれば、石山本願寺の使者が山陽道を西に向かったとの由にございまする」


5月末、俺は石山本願寺の監視を命じていた服部半蔵から一つの報告が届いた。


「山陽道を西か。となると、やはり毛利か。予想どおりだな」


「毛利、でございまするか?」


思わず呟いた俺の言葉に半蔵が意外そうに訊ねた。


「そうだ。顕如は毛利に援軍を求めるつもりだ。毛利水軍の力で寺倉水軍の海上の封鎖を破ってもらい、兵糧を調達しようという目論見なのだろう」


「なるほど、左様でしたか。では、毛利の援軍を阻止するために、その使者を道中で殺させましょうか?」


「いや、それには及ばぬ。今後の四国平定のためにも、毛利水軍を打ち破るいい機会だ。頼りにした毛利水軍が敗れれば、顕如をはじめ一向門徒どもは心が折れ、さぞや絶望するであろう?」


「確かに左様でございまするな」


「では半蔵、小浜民部左衛門を呼んでくれ」


俺は小浜景隆を呼び出すと、かねてから準備を進めていたある策を指示したのであった。




◇◇◇




安芸国・吉田郡山城。


6月上旬、石山本願寺の使者は毛利家の本拠・吉田郡山城を訪ね、当主の毛利輝元と会見していた。


今こそ「山陽・山陰の覇者」となった毛利家であるが、4年前の尼子攻めの最中に、当主の毛利隆元が41歳で急死するという事態が起き、嫡男の輝元が急遽11歳で家督を継いでいたのである。


だが、如何せんまだ幼すぎたため、現状では先々代当主である祖父の毛利元就が、重要な決定事項はすべて判断を下していた。要するに、毛利輝元の毛利家当主とは名ばかりであり、毛利元就が毛利家の実質的当主なのであった。


もちろん石山本願寺の使者もそのことは当然理解していたが、名目上の当主とは言え、上座の中央に座る輝元を蔑ろにする訳には行かず、輝元に対して支援を要請していたのである。


「ほぅ、石山御坊は寺倉軍に包囲され、兵糧攻めに遭っているとな?」


上座の中央に座る毛利輝元はまだ15歳と若く、石山本願寺が寺倉軍に包囲され、兵糧攻めに遭っているのを使者から聞いて、驚きと心配そうな表情を見せていた。


「左様にございまする。陸上だけでなく、寺倉水軍は巨大な南蛮船を有しており、淀川の河口を封鎖しておりますれば、このままでは後半年で3万の門徒たちが飢え死してしまいまする。少輔太郎様にはどうか毛利水軍の力を以ってして南蛮船を打ち破り、石山御坊に兵糧を援助してほしいと、我が法主・顕如様からの要請にございまする。何卒お聞き届けいただきたくお願い申し上げまする」


「何と、左様な状況であったか。それは困っておろうのぅ」


輝元はそう言うと、上座の右隣に座る老人に顔を向けた。


「御祖父様、無碍に断るのも忍びないと存じますが、如何いたしますか?」


輝元の視線の先にいる、齢71歳ながら厳然とした威圧感とも言うべきオーラを纏ったその老人こそ、毛利家の実質的当主にして「山陽・山陰の覇者」である毛利元就、その人であった。

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