浅井長政の軍師

1月下旬、植田順蔵から浅井家に関する動向の定期報告を受けた。実は、俺は同盟を結んでいる"六雄"の他家にも素破を送っており、味方であっても動向を把握するための情報収集は欠かしていないのだ。


この春に丹波への侵攻を目論んでいる浅井家だが、長政は昨年の夏に沼田祐光という軍師を得たそうだ。そして、その沼田祐光は仕官早々、先の大飯郡の平定で戦功を挙げたらしい。浅井は戦わずして大飯郡を治める逸見昌経を降伏臣従に追い込んだが、これを成し遂げたのはどうやらこの沼田祐光だったようだ。


沼田家と言えば、鎌倉時代より代々、若狭国の若狭街道沿いにある宿場町の熊川を領し、若狭武田家に属していた国人領主だ。史実では、2年後に沼田祐光の父・光兼が同じ若狭武田家臣の松宮清長に熊川城を攻められて近江に一族ごと追われたと言う。清長はおそらく宿場町で栄える熊川の領地が目当てだったのだろうが、家臣同士の私戦による領地の奪い合いを許してしまう辺りは、武田義統の統制が効いていなかったことを如実に物語っているな。


その後、嫡男の祐光は流浪して、遥か遠い陸奥国の津軽為信に軍師として仕え、傑物として名高い為信を支えて、大浦家(後に津軽家)を一代で弘前藩の大名に押し上げたという異色の経歴を持つ男だ。史実の大浦家は、豊臣秀吉にいち早く接近して南部家からの独立を果たし、「関ヶ原の戦い」でも東軍に与して江戸時代まで生き残って、戦国乱世を堂々と渡り歩いており、為信の軍師を務めた沼田祐光の先見の明が優れていたことの証左だろう。


ちなみに、沼田祐光の妹の沼田麝香は、俺が仕官を断ったあの細川藤孝に正妻として嫁いでいる。細川家と沼田家とでは家格が違い過ぎるはずだが、どういう縁で婚姻関係を結んだのかは不明だ。そして、麝香の息子には、あの不名誉な"DQN四天王"の称号を持つ細川忠興がいる。確か忠興は既に生まれているはずだな。今頃は紀伊の畠山家を頼っているらしい細川藤孝と一緒なのだろう。


このように史実では若狭を追われて陸奥まで流浪を強いられた沼田家だが、この世界では祐光の父・沼田光兼が浅井軍の若狭侵攻の際にいち早く臣従したことにより、現在は浅井家臣として熊川の代官に収まっている。一方、史実で沼田家を襲った松宮清長は、既に「若州騒乱」の際に武田義統と共に討死している。正に皮肉な結果でいいザマだな。


そして、その沼田祐光は大飯郡への侵攻に際して、砕導山城の逸見昌経の元に降伏勧告の使者として自ら出向いたそうだ。元は若狭武田家に仕えていた者として、祐光は裏切り者の逸見昌経にはかなり恨みを抱いていたらしい。昌経が反乱を企てた所為で「若州騒乱」に拡大し、浅井と寺倉の侵攻を招いて、沼田家は滅亡の危機に晒されることになったのだから、恨むのも当然と言えるだろう。尤も昌経の反乱は俺が裏で暗躍したせいもあるので少々気の毒であり、後ろめたくもあるのだがな。


沼田祐光は長政から浅井軍2千の兵を借りて砕導山城を包囲し、敵将の逸見昌経の元に赴くと、圧倒的に優位な立場に立って、弁舌を駆使して昌経と交渉したそうだ。


「逸見駿河守殿、三好が逸見家を裏切って丹波から撤退したために、大飯郡は孤立する羽目になったのだ。三好にとっては逸見家がどうなろうと痛くも痒くもなく、逸見家は単なる捨て駒でしかないのだ。そもそも砕導山城が囲まれる今の窮地を作り出した原因も、元はと言えば全ては三好の所為ではないか。三好は我ら浅井家にとっても敵である故、ここは一軍の将として浅井家の傘下に加わり、共に三好と戦い、恨みを果たそうではござらぬか!」


祐光がつらつらと語り掛ける言葉はある意味で正鵠を射ており、昌経の心に深く突き刺さり、昌経の敵意を三好に向けるように誘導することに成功したようだ。まんまと祐光の口車に乗せられた昌経は、もはや浅井軍に包囲されている現在の状況など忘れるほど怒り狂い、元々心の奥底に秘めていた三好に対する憎悪を露わにさせて、昌経の口から三好への罵詈雑言を引き出したそうだ。


「逸見駿河守殿、ここで無駄死にして三好に嘲笑されるか、それとも浅井家に属し、一時の恥を耐え忍んででも、生きて三好の滅びゆく様を見届けるか、この乱世を生きる武士としてどちらを選ぶべきか、駿河守殿のような知勇兼備の将ならば、言わずともお分かりでござろう?」


そんな頭に血が上って冷静さを失った逸見昌経に追い打ちを掛けるように、祐光が言葉巧みに2つの選択肢を提示した。三好への復讐心を煽られていた昌経は、本来ならば浅井家への降伏臣従は苦渋の選択であり、少しは悩むはずところを即断即決したのだと言う。 この逸見昌経の降伏は、正に「戦わずして勝つ」という「孫子」の兵法において最上とされる兵法を実践した祐光の優れた交渉術の成果だと言えるだろう。


主家たる若狭武田家を裏切って三好家に鞍替えして臣従し、若狭国に内乱を引き起こしたほどの逸見昌経が、一戦もせずして簡単に降伏するはずがない。そう考えた浅井長政は当初、5千の兵を率いて出陣しようとしたそうだ。


だが、沼田祐光は長政に「2千の兵もあれば十分だ」と言って兵を借りて、逸見昌経の心の内底に眠っているはずの"三好に対する憎悪"を炙り出して、浅井家に対する敵愾心から目を逸らさせることにより、一兵も損なうことなく戦わずして砕導山城を開城させ、逸見昌経という勇猛な将を長政の配下にすることに成功したのだ。


三好という後ろ盾を失った逸見昌経にしても、170万石近い国力のある浅井家に対して独力で勝てると思っているはずもない。逸見昌経は若狭武田家から三好に寝返った時勢を読むのに長けた国人領主であり、最終的には浅井家に対して降るつもりはあったのだろう。


だが、一戦もせずして降伏するのは武士としての誇りが許さないという無意味な矜持に拘るのがこの時代の常識であり、砕導山城を無血開城させるのは、口で言うほど生易しいものではないのだ。


逸見昌経は史実でも若狭衆の筆頭として織田信長に仕えた武将だから、長政にとっても彼の臣従は丹波侵攻に際して大きな戦力になるだろう。浅井家の勢威が衰えない限りは昌経が三度他家に寝返ることもないはずだ。逸見昌経の降伏と砕導山城の開城により、大飯郡1万9千石は浅井家に制圧され、沼田祐光は若狭一国の平定という大きな戦功を得た。この功績が讃えられて、祐光は長政の軍師として浅井家の重臣に名を連ねることになったそうだ。


さすがに、仕官早々にこれほど大きな戦功を挙げた沼田祐光に対して、他の浅井家臣も内心では嫉妬や反発を抱いている者もいるだろうが、表立って批判を口にする訳にはいかないだろう。批判すれば己の評価が下がるだけだから、陰でこそこそ悪口を言うのが関の山だろうな。


一方、長政の方も前々から独力ではこの先はやって行けないと感じていたようで、兵法に精通した軍師を欲していたそうだ。そんな長政にとっては沼田祐光の仕官は正に渡りに船であり、いきなり大きな戦功を挙げてくれたのは僥倖とも言えるだろうな。沼田祐光は今後の山陰道での毛利家との戦いで兵法を駆使し、きっと大きな活躍を見せてくれるに違いない。

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